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尖閣諸島に関する中国史料の研究(一) −海道針経の考証を中心に− 四、「尖閣群島」注記に対する改竄

山陽論叢 第24巻 (2017)

 

論文

尖閣諸島に関する中国史料の研究(一)

−海道針経の考証を中心に−

班  偉1)

 

 

四、「尖閣群島」注記に対する改竄

 

  長年、『順風相送』の史料を巡って、中国当局・論客が牽強付会・恣意誇張の言を繰り返してきた。白書『釣魚島是中国的固有領土』をはじめ中国側の主張・論拠・結論は、すべて史料に対する歪曲・隠蔽・改竄の上に立脚したものと言っても過言ではない。事実、1982年と2000年の二度にわたって、中華書局は『両種海道針経』を再刊するに当たり、臆面もなく1961年初刊本にあった「尖閣群島」関連の注記を悉く改竄、抹消した。以下、三つの刊本を比較しながら、書き換えられた箇所(頁数は同じ)を拾い上げて検証する。

 

   愡愼鄒桔 戞嵎―1琉球針」条の注 168頁):初刊本では、「黄尾嶼為今尖閣群島之久場島、枯美即今久米島、馬歯即慶良間列島、倶在那覇西、舡至此距琉球国都不過五十海里矣。」(訳:黄尾嶼は今日の尖閣群島の久場島で、枯美は即ち久米島、馬歯は即ち慶良間列島、ともに那覇の西にある。船はここまで来ると琉球国の都まで後50海里と近い)と書いている。再刊本と三刊本では、「黄尾嶼為我国台湾省所属島嶼、枯美即今久米島、馬歯即慶良間列島、倶在那覇西......」(訳:黄尾嶼は我が国台湾省に属する島嶼であり、......)と書き換えられた。

 

  ◆嵒蹇両種海道針経地名索引」「赤坎嶼」条(230頁):初刊本では、「赤坎嶼  即台湾基隆東北尖閣群島中之赤尾嶼。」(訳:赤坎嶼は即ち台湾基隆の東北にある尖閣群島の赤尾嶼である)と書いている。再刊本と三刊本では、「赤坎嶼  即我国台湾省東北海上釣魚島東部之赤尾嶼。」(訳:赤坎嶼は即ち我が国台湾省の東北の海上にある釣魚島の東の赤尾嶼である)と書き換えられた。

 

  「附:両種海道針経地名索引」「花瓶嶼」条(235頁):初刊本では、「花瓶嶼在台湾基隆東北部海上。花瓶、彭佳、綿花三嶼為台湾至琉球必経之地、自此往東為尖閣群島、東南為先島群島。」(訳:花瓶嶼は台湾基隆の東北の海上にある。花瓶・彭佳・綿花三嶼が台湾から琉球に渡る途中必ず通る島で、ここより東は尖閣群島、東南は先島群島である)と書いている。再刊本と三刊本では、「花瓶、彭佳、綿花三嶼為台湾至琉球必経之地、與東面的釣魚嶼、赤尾嶼均為我国台湾省附属島嶼。」(訳:花瓶・彭佳・綿花三嶼は台湾から琉球に渡る途中必ず通る島であり、東の釣魚嶼・赤尾嶼とともに、我が国台湾省の附属島嶼である)と書き換えられた。

 

ぁ嵒蹇両種海道針経地名索引」「釣魚嶼」条(253頁):初刊本では、「釣魚嶼為自台湾基隆至琉球途中尖閣群島中之一島、今名魚釣島、亦名釣魚島。」(訳:釣魚嶼は台湾基隆から琉球へ渡る途中の尖閣群島の島であり、今は魚釣島と呼ばれ、また釣魚島とも呼ばれる。)と書いている。再刊本と三刊本では、「釣魚嶼在台湾基隆東北海中、為我国台湾省附属島嶼、今名魚釣島、亦名釣魚島。」(訳:釣魚嶼は台湾基隆の東北の海中にあり、我が国台湾省の附属島嶼である)と書き換えられたが、再刊本と三刊本に残る「今名魚釣島」という表現を見逃してはならない。中国では普通、「魚釣島」という日本名を使わないので、思わぬところに作為の跡が見える。

 

  ァ嵒蹇両種海道針経地名索引」「釣魚台」条(253頁):初刊本では、「此指琉球群島中尖閣群島之魚釣島、一般作釣魚嶼、亦作釣魚台。」(訳:これは琉球群島にある尖閣群島の魚釣島を指している。一般に釣魚嶼、また釣魚台となす)と書いている。再刊本と三刊本では、「此指台湾基隆東北海上之釣魚島、一般作釣魚嶼、亦作釣魚台。」(訳:これは台湾基隆東北の海上にある釣魚島を指す。一般に釣魚嶼、また釣魚台となす)と書き換えられた。

 

Α嵒蹇両種海道針経地名索引」「黄尾嶼」条(259頁):初刊本では、「黄尾嶼在台湾至琉球間之尖閣群島内、一名久場島。」(訳:黄尾嶼は台湾と琉球の間の尖閣群島の内にあり、久場島とも名付けられている)と書いている。再刊本と三刊本では、「黄尾嶼在我国台湾東北海上、為台湾附属島嶼。」(訳:黄尾嶼は我が国台湾の東北の海上にあり、台湾の附属島嶼である)と書き換えられた。

 

直接尖閣諸島に関する注記ではないが、「附:両種海道針経地名索引」「彭家山」条(256頁):初刊本では、「花瓶・彭家・綿花三嶼、為由基隆去琉球所必経。」(訳:花瓶・彭家・綿花三島は、基隆から琉球へ向かう時に必ず通る場所だ)と書いている。再刊本と三刊本では、「花瓶・彭家・綿花三嶼、均為我国台湾省附属島嶼。」(花瓶・彭家・綿花三島は、いずれも我が国台湾省の附属島嶼である)と書き換えられた。

 

強調したいのは、「釣魚嶼」「黄尾嶼」「赤坎嶼」のいずれも尖閣群島に属するという初版本の注記が決して向達の個人的見解ではなく、当時では中国当局の公式見解、ひいては学界・出版界での常識だった(40)。一介の学究として、向達と雖も領土問題について迂闊なことが言えまい。むしろ、彼は「両種海道針経・序言」の中で、次のように書き立てる。「『順風相送』『指南正法』の山形水勢・針路記載には、江蘇・浙江・福建・広東・台湾など各省沿海の多くの島嶼を詳しく記しており、中国人民が三百年前の昔からすでにこれらの島との間を行き来していたことを物語っている。これらの島は我が国の不可分領土であることを疑う余地はない。中華人民共和国政府が1958年9月4日に発表した領海声明の中に列挙している東椗・大小担・大小金門・烏坵・白犬・馬祖・高登・東引などの島嶼及び台湾・澎湖は、すべて『順風相送』『指南正法』に見られるので、これらの島々は歴史上、一貫として我が国に属することが分かる」と(41)。それだけでなく、該当の島名が「地名索引」に出る度に、政府の領海声明を引き合いに出して再度強調している。それにも拘らず、「釣魚嶼」「黄尾嶼」「赤坎嶼」に関しては、「尖閣群島に属する」と明言したのは、上記の島々の他に東沙・西沙・中沙・南沙など南海諸島まで領有権を主張する中国政府のこの領海声明文が、実は尖閣諸島に全く触れていないからである(42)。それより、向達が『鄭和航海図』を編集する際に参考した1958年版『世界地図集』を見ると、「日本」地図では、なんと釣魚島は「魚釣島・尖閣群島」と表記した上、「琉球群島」に属すると扱われている(43)。

 

このように、中華書局の編集者が初版本の注記を改竄、抹消したのは、上の指示に従った行為なのか、それとも愛国心による自己検閲なのかは定かでないが、「歴史の隠蔽・捏造」も甚だしい。しかも何の断りもなく、一般の読者に「最初から向達が付けた注記はこうだ」と見誤らせる大きな原因ともなる。中国論客の遣り口の常として、証拠を捻じ曲げ、史料を文脈から外して部分的に抜き出し、自分の主張と矛盾する証拠の山を切り捨てる。それに加えて、わざと間違って引用したり、一部分だけ引用したりして、結論を彼らの都合のよい方向に持っていくように小細工を弄する。その目論見は「歴史研究」「史を以って鑑と為す」を装って事実を歪めることだ。

 

 

おわりに  

 

検証の結論は単純だ。『順風相送』『指南正法』などの海道針経において、「釣魚嶼」「釣魚台」「黄尾嶼」「赤尾嶼」といった島は、あくまでも「福建―琉球」航路の目印として記されているに過ぎず、原典から読み取れる史実はそれ以上でも以下でもない。中台側の領有権主張は歴史の真実とは程遠いものばかりだ。第一に、『順風相送』には三十余りの外国名、数百に上る外国地名・島名が載っている。だからと言って、そのすべてが「中国固有の領土」とは言えまい。第二に、尖閣諸島を「発見、命名、利用」したのは、中国人船員だけではない。琉球文書『指南広義』にはもっと詳しい記録が残っている。そして第三に、明清の版図・領域を記載した正史・一統志・会典・実録には釣魚島に関する記載が皆無で、中国の歴代王朝が尖閣諸島を実行支配した事実はもとより存在しない。

 

考えてみれば、「領土」「領海」といった概念は、近代国家の枠組みができて初めて地球上の各海域に持ち込まれたものだと思う。明清時代において、中国周辺の海域はもともと国境線など存在せず、尖閣諸島も南海諸島も無主地で、どの国の領土でもなかったはずだ。そもそも、海洋調査・測量の技術、器材、動力船が欠如した古代において、海上で線引きすること自体は物理的に不可能で、その発想もなかったに違いない。中国当局は本当に自らの領有権主張に自信を持つなら、国際海洋法裁判所か常設仲裁裁判所に提訴しても良さそうだが、持ち込んだところで、再度不面目な結果を招くのが落ちであろう。

 

 

 


(40) 例えば、1953年1月8日付『人民日報』に掲載された「琉球群島人民反対美国占領的闘争」という論評には、「琉球群島......、包括尖閣諸島......等七組島嶼」と明記している。呉壮達著『台湾地理』(商務印書館、1959年9月)では、第一章「形勢概要」(2頁)において、「全区島嶼的分布:最東、是本島東北的棉花嶼、......最北、是本島東北的澎佳嶼、......与琉球群島内側的尖閣諸島遥対」と記す(訳:台湾全域の島嶼分布として、東端は本島東北の棉花嶼、......北端は本島東北の澎佳嶼、......琉球群島内側の尖閣諸島と向き合う)。第二章「地形与砿藏」の脚注(7頁)において、「台湾的北端、実以基隆東北的彭佳嶼等島与琉球弧的“内帯”−−即先島群島以北的尖閣諸島(一般地図多不載此群島)相接」と記す(訳:台湾の北端、即ち基隆東北の彭佳嶼などの島嶼は、琉球弧の内側に位置する先島群島北の尖閣諸島〔普通の地図は先ずこの群島を載せない〕と隣接している)。表一「台湾全区的経緯位置」(2頁)と附図「台湾省全図」も、「極東」に「棉花嶼  東経122°6’25”」、「極北」に「彭佳嶼  北緯25°37’53”」と明記している。

 

(41) 向達校注『両種海道針経・序言』中華書局、1961年、8〜9頁。

 

(42)「中華人民共和国政府関于領海的声明」『人民日報』1958年9月5日。

 

(43)『世界地図集』甲種本25−26、乙種本16−17(地図出版社、1958年11月第1版)、及び『世界地図集』甲種本25−26(地図出版社、1960年4月第1版)を参照。なお、甲種本「地名索引」を見ると、御丁寧に「Jian 尖閣群島25−26 Q14」(183頁)、「Yu  魚釣島25−26 Q14」(231頁)の項目まで挙げている。ところが、改訂版『世界地図集』(地図出版社、1972年12月第1版)では、「14日本」に「魚釣島・尖閣群島」の表記が消え、代わりに「9中国東南部」地図の下端には…犁島∪嵌嶼との脚注が付けられている。「台湾」の説明文には「......包括台湾島、澎湖列島、釣魚島、赤尾嶼、彭佳嶼、蘭嶼、火焼島等島嶼」と記す。

 

 

author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 08:00
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尖閣諸島に関する中国史料の研究(一) −海道針経の考証を中心に− 三、「福建―琉球」針路記述の読み方

(※管理人 「山陽論叢」は山陽学園大学・山陽学園短期大学紀要委員が毎年編集・刊行している学術論文集で「尖閣諸島に関する中国史料の研究」については第24巻2017年〜第26巻2019年に掲載されている。)

 

「尖閣諸島に関する中国史料の研究」(1)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/e0c593ab2ef537fd893cdbe7bc68de30.pdf

「尖閣諸島に関する中国史料の研究」(2)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/9af11f1fcf7b9bc73310ebde99666403.pdf

「尖閣諸島に関する中国史料の研究」(3)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/1c9ed713db6f1e651a7d25fb2ce377fa.pdf

 

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山陽論叢 第24巻 (2017)

論文

尖閣諸島に関する中国史料の研究(一)

−海道針経の考証を中心に−

班  偉1)


三、「福建―琉球」針路記述の読み方

 

さて、『順風相送』『指南正法』『指南広義』といった海道針経には、「福建―琉球」針路が記されており、そこに登場する尖閣諸島関連の記述をどう読み解くかは、中台側の領有権主張の当否を考える上で重要な判断材料となる。以下、史料の原文を列挙、解析した上で若干の考証を加え、中琉航海史における尖閣諸島の位置づけを究明していきたい。

 

先ず、『順風相送』「福建往琉球」条から見てみよう。「北風東湧開洋、用甲卯取彭家山。用甲卯及単卯取釣魚嶼。......正南風梅花開洋、用乙辰取小琉球。用単乙取釣魚嶼南辺。用卯針取赤坎嶼。用艮針取枯美山。南風用単辰四更、看好風単甲十一更取古巴山、即馬歯山、是麻山赤嶼。用甲卯針取琉球国為妙。」(21)原文を訳すと、

 

「北風の時、東湧(福建東引島)を出帆し、甲卯針(北東82.5°)を用いて彭家山(台湾彭佳嶼)を過る。甲卯針及び単卯針(正東90°)を用いて釣魚嶼を過る。......南風の時、梅花(福建長楽)を出帆し、乙辰針(南東112.5°)を用いて小琉球(台湾島)を過る。次いで単乙針(南東105°)を用いて釣魚嶼の南を過る。単卯針を用いて赤坎嶼を過る。艮針(北東45°)を用いて枯美山(沖縄久米島)を過る。南風の時、単辰針(南東120°)を用いて四更、順風を見て単甲針(北東75°)を用いて十一更、古巴山を過ぎ、即ち馬歯山・麻山赤嶼(慶良間諸島)に至る。更に甲卯針を用いて琉球国へ渡るが良い。」

 

このように、海道針経の航路記述には出発する港から目的地まで辿り着くための様々な情報が盛り込まれているが、基本的に島嶼・針位・更数の三要素から構成される。航海中、通過する島は船の位置を確認し、航行の方角・航程を推算する目印となり、福建から琉球へ渡る場合、東湧(又は梅花)→彭佳嶼(又は小琉球)→釣魚嶼→赤尾嶼→久米島→慶良間諸島→那覇の六区間を島伝いして進んでいく順次になる。文中、古い地名や航海術の専門用語が多用されているが、「○○針」とは、「甲乙丙丁」「子丑寅卯」といった干支の文字を組み合わせて航行の方位・方角を示す羅針盤の目盛である(すなわち、地球の周囲を360°とし、水平線を48等分して7.5°おきに盤面の縁に付けた刻み)。「○○更」とは、航程・距離を測る単位で、「一更六十里」「一昼夜十更」など幾つかの測定法がある。「取」とは「目指す」「過る」といった意味だ。上の史料を見れば分かるように、「釣魚嶼」「赤坎嶼」の記載は、航海の目印として「福建―琉球」航路に点在する飛石のような島々を書き記したものに外ならず、「彭家山」「小琉球」「枯美山」「馬歯山」への言及と同様、領土領海の意識など微塵もない。それもそのはずで、当時台湾(文中の「小琉球」)でさえ、明朝から「化外之地」と見なされ、清朝の版図に併合されたのは1684年のことだった。

 

  次いで、『指南正法』「福州往琉球針」条も検討してみよう。「梅花開舡、用乙辰七更取圭籠長。用辰巽三更取花矸嶼。単卯六更取釣魚台北辺過。用単卯四更取黄尾嶼北辺。甲卯十更取枯美山。看風沉南北用甲寅、臨時機変。用乙卯七更取馬歯北辺過。用甲卯寅取濠㶚港、即琉球也。」(22)原文を訳すと、「梅花を出帆し、乙辰針(南東112.5°)を用いること七更、圭籠長(台湾基隆嶼)を過る。辰巽針(南東127.5°)を用いること三更、花矸嶼(台湾花瓶嶼)を過る。単卯針(正東90°)を用いること六更、釣魚台の北を通り過る。単卯針を用いること四更、黄尾嶼の北を過る。甲卯針(北東82.5°)を用いること十更、枯美山を過る。南北の風が静まるのを見て甲寅針(北東67.5°)を用い、臨機応変に対処する。乙卯針(南東97.5°)を用いること七更、馬歯山の北を過る。甲卯寅針(北東60〜90°)を用いて濠㶚(那覇)港に着けば、即ち琉球だ。」

 

『順風相送』の記述と比べて、福建の海岸から出発して那覇まで一続きの六つの区間を進む順次が同じで、経過する島や二地点間の針位の記述もさほど変わらない。ただし、風向の表記が省かれ、「更数」がより詳しく記されている。「釣魚嶼」の名称が「釣魚台」に変わり、「赤坎嶼」の代わりに「黄尾嶼」が登場していることが目を引く。

 

なお、『順風相送』には「琉球回福建」条、『指南正法』には「琉球回福州針」条があり、「福建―琉球」航路の復路も併記している。もっとも季節風と海流の影響で、復路は往路より北寄りの海域を横断することになり、尖閣諸島の周辺を通らない。那覇→慶良間諸島→久米島→南杞山(浙江温州沖合の島)→台山(福建福鼎沖合の島)→官塘(福建馬祖列島)→定海(福建閩江口)へと航行するのが定番ルートだったが、久米島を離れると、中国沿岸の島嶼が現われるまで果てしない荒海をひたすら渡るだけで、目印になる島は見当たらない(23)。このように、『順風相送』『指南正法』において、「福建―琉球」航路の記載がそれぞれ往復一組のみで、尖閣諸島への言及も往路の二箇所しかない。情報量が少ないということは当時、渡琉の中国船がそれほど多くなかったことを物語っている(24)。

 

  それに対し、琉球文書『指南広義』には尖閣関連の記載が八個に上り、バラエティーに富んでいる。というより、『指南広義』の針路記載は専ら「琉球―福建」ルートに限定され、いわば「琉球―福建」航路の専門案内書と言ってよい(25)。『指南広義』を「中国史料」と呼ぶのは語弊があるかもしれないが、『針簿』など明清の海道針経を基に編集した後、1708年に福州琉球館で上梓された経緯に鑑みて、一顧の値が存すると思う。先ず、「針路條記」を見ると、『針簿』から抄録した四航路のうち、三条には「釣魚台」が登場する。

 

 嵎―1琉球:東沙外開船、用単辰針十更取鶏籠頭、北過花瓶嶼並彭家山。用乙卯並単卯針十更取釣魚台、北過前面黄麻嶼。北過用単卯針四更黄尾嶼。北過用甲卯針十更赤尾嶼。用乙卯針六更古米山。北過用単卯針馬歯山。北過用甲卯及甲寅針収入那覇港、大吉。」(26)訳すと、「福州から琉球へ渡るには、東沙(福建東沙島)を出帆し、単辰針(南東120°)を用いること十更、鶏籠頭(台湾基隆嶼)を通り過ぎ、花瓶嶼並びに彭佳嶼の北を過る。乙卯針(南東97.5°)並びに単卯針(正東90°)を用いること十更、釣魚台へ向かい、前面の黄麻嶼の北を過る。単卯針を用いること四更、黄尾嶼の北を過る。甲卯針(北東82.5°)を用いること十更、赤尾嶼を過る。乙卯針を用いること六更、古米山(沖縄久米島)を過り、単卯針を用いて馬歯山の北を過り、甲卯針(北東82.5°)と甲寅針(北東67.5°)を用いて那覇港に入れば、大吉。」

 

◆嵋堯五虎門開船、取官塘、東獅。用辰巽針十五更、小琉球頭。北過用乙卯針十五更、釣魚台。北過隴単卯針十更、赤洋。又単卯並甲卯十二更、古米山。用単卯兼乙卯至那覇港。」(27)原文を訳すと、「五虎門(福建閩江口)を出帆し、官塘、東獅(福建馬祖列島)を過る。辰巽針(南東127.5°)を用いて十五更、小琉球頭(台湾基隆嶼)の北を過る。乙卯針(南東97.5°)を用いて十五更、釣魚台の北を過る。単卯針を用いて十更、赤洋を過る。単卯針並びに甲卯針を用いて十二更、古米山を過る。単卯針と乙卯針を用いて那覇港に入港。」


「漳州往琉球:太武開洋、用単艮針七更烏坵。用艮寅針四更牛山。又用艮寅五更東湧山。用単辰針、如西南風用乙辰針、東南風用辰巽針八九更小琉球、鶏籠嶼、外平彭家山。如南風用単卯針、東南風用乙卯針十更釣魚台。北過、南風単卯四更黄麻嶼、赤礁。北過、南風単卯並甲寅針、又用艮寅、東南風用甲卯針十五更古米山。北過、南風単卯及甲卯針四更馬歯山、甲卯三更収入那覇港口。」(28)原文を訳すと、「漳州から琉球へ渡るには、太武(福建太武山)を出帆し、単艮針(北東45°)を用いること七更、烏坵(福建烏丘嶼)を過る。艮寅針(北東52.5°)を用いること四更、牛山(福建平潭牛山島)を過る。また、艮寅針を用いること五更、東湧山を過る。単辰針(南東120°)を用いて、西南風なら乙辰針(南東112.5°)、東南風なら辰巽針(南東127.5°)を用いること八、九更、小琉球、鶏籠嶼、彭家山を通り過ぎる。南風なら単卯針、東南風なら乙卯針を用いて十更、釣魚台の北を過る。南風なら単卯針を用いて四更、黄麻嶼、赤礁の北を過る。南風なら単卯針並びに甲寅針また艮寅針、東南風なら甲卯針を用いて十五更、古米山の北を過る。南風なら単卯針及び甲卯針を用いて四更、馬歯山を過る。甲卯針を用いて三更、那覇港に収める。」

上の三つの史料を読み合わせると、航路途上の島々の名前が出揃い、「福建―琉球」航路に関する最も完備した記録のように思えるが、「黄麻嶼」と「黄尾嶼」、「赤尾嶼」と「赤洋」「赤礁」など、同じ島を指すと思われる異なる名称が混用されており、いささか混乱が生じている。複数の海道針経から寄せ集めた情報を併記したためかもしれない。同じ島でも、船乗りによって違う名前を付けられることがあり得る話だ。なお、『針簿』から抄録したもう一つ「回福州」条も見過ごしてはならない。

 

ぁ崕酬扈銃巳時出那覇港、用申針放洋、用辛酉針一更半、見古米山並姑巴甚麻山。......見南杞山、......取台山、......収入定海。」(29)原文を訳すと、「十月十日十時、申針(南西240°)を用いて那覇港を出帆する。辛酉針(北西227.5°)を用いること一更半、古米山と姑巴甚麻山を見る。......南杞山を過る。......台山を過る。......定海に収める。」ここで、「姑巴甚麻」(クバシマ=久場島)という名称が使用されている。那覇や久米島との間隔・距離から考えれば、「黄尾嶼」(久場島)ではなく、慶良間列島の久場島を指していると思われるが、中国名ではなく、琉球名の音読で表記したことに留意すべきだ。一方、『三十六姓所伝針本』から抄録した十航路のうち、「釣魚台」が四条に登場する。

 

ァ嵶圧絮福州:......又三月、古米山開船、用辛酉針十五更、又用単酉二十更見釣魚台。又単酉針七更取彭家山。又用辛酉針取官塘。」(30)訳すと、「琉球から福州へ渡るには、......三月、古米山を出帆し、辛酉針(北西277.5°)を用いること十五更、単酉針(正西270°)を用いること二十更、釣魚台を見る。また、単酉針を用いること七更、彭家山を過る。辛酉針を用いて官塘を過る。」この史料を含めて、「琉球往福州」の針路が六本もあるが、いずれも「古米山開洋」と書き出し、「二月」「三月」「成化二十一年九月二十四日」といった年月日まで記されているので、琉球貢船の日誌であろう。ここには、「琉球―福州」往路(中国船からすれば復路になる)も尖閣諸島を過ったことが示されている。福建へ帰帆する中国船が北寄りの航路を辿るのに対し、往路も復路も尖閣諸島の周辺を通過する琉球船に関するこの史料は、史実の一端を示唆しているように思えてならない(31)。

 

Α嵎―2麥圧紂梅花及東沙開船。若正南風、用乙辰針十更取小琉球頭、便是鶏籠山圓尖。又用乙辰五更、花瓶嶼並彭家山。又用単乙七更取釣魚台。離開流水甚緊、北過、用乙卯並単卯針四更烏嶼。前面黄毛嶼。北過、用単卯針十更取赤嶼。北過、用卯針十五更取古米山。北過、用単卯針三更取馬歯山。用甲卯並甲寅三更収入那覇港、大吉。」(32)訳すと、「福州から琉球へ帰帆するには、梅花ないし東沙を出帆し、南風の時、乙辰針(南東112.5°)を用いること十更、小琉球頭を過ぎ、鶏籠嶼の山頂が見える。引き続き乙辰針を用いること五更、花瓶嶼並びに彭家嶼を過る。また、単乙針(南東105°)を用いること七更、釣魚台を過る。......乙卯針(南東97.5°)並びに単卯針(正東90°)を用いること四更、烏嶼、前の黄毛嶼の北を過る。単卯針を用いること十更、赤嶼の北を過る。単卯針を用いること十五更、古米山の北を過る。単卯針を用いること三更、馬歯山を過る。甲卯針(北東82.5°)並びに甲寅針(北東67.5°)を用いること三更、那覇港に入る。」ここで「回琉球」という表現が使われているが、福州に渡った琉球人からすれば、琉球への帰帆は正に「回」(帰る)になる。ちなみに「烏嶼」とは、多分「鳥嶼」の誤字で、場所未詳だ。

 

А嵋堯東湧山開船、北風、甲卯針取彭家山。若南風、用甲卯並乙卯針取釣魚台。北風、用甲卯並乙辰針取太平山、即宮古島。」(33)訳すと、「東湧山を出帆し、北風なら甲卯針(北東82.5°)を用いて彭家山を過る。南風なら甲卯針並びに乙卯針(南東97.5°)を用いて釣魚台を過る。北風なら甲卯針と乙辰針(南東112.5°)を用いて太平山、即ち宮古島を過る。」Δ汎瑛諭◆嵎―2麥圧紂弯墨の一つだが(全部で四本)、東湧山→彭家山→釣魚台→宮古島→那覇というシンプルな直行航路として、他航路にある鶏籠頭・黄尾嶼・赤尾嶼・古米島・馬歯山といった途中の島々を過らず、更数も記されていない。ここから、「琉球―福建」間を行き来する琉球船は複数の航路を利用したことが分かる。

 

─嵋堯釣魚台開船、北風、辰巽針取北木山尾、小琉球頭。又用乙辰針取沙洲門。又用乙卯針取太平山。太平山開船、用艮寅針直取那覇港口大吉。」(34)訳すと、「釣魚台を出帆し、北風なら辰巽針(南東127.5°)を用いて北木山尾(八重山)、小琉球頭を過る。また、乙辰針(南東112.5°)を用いて沙洲門を過る。また、乙卯針(南東97.5°)を用いて太平山(宮古島)を過る。太平山を出帆し、艮寅針(北東52.5°)を用いて真っ直ぐ那覇港を目指す。」「釣魚台開船」というのは他の針経に見られない独自の記述だ。「沙洲門」の場所は不明だが、『按針似看山譜』の「鶏籠山」見取り図には、「小琉球」の手前に「是圭籠  沙門岐頭門」と書き込まれた島図が載っている。もっとも、釣魚台→八重山→小琉球頭→沙洲門→宮古島→那覇という航路記載は迂回が多く、不自然に思える。いずれにせよ、『針簿』から抄録した四本の航路は本家の海道針経に依拠しているとすれば、『三十六姓所伝針本』による十本の航路は、程順則をはじめ琉球進貢使・乗組員たちが自身の航海体験に基づいてアレンジしたものではないかと推察がつく。

ところで、『指南広義』にある「海島図」を見ると、そこに書かれた島嶼の名称と配列が「針路條記」の記述と食い違っている。図面の右から、鶏籠嶼→二林山(未詳)→花瓶嶼(花瓶の形に描かれている)→梅花嶼(台湾綿花嶼、梅花の形)→釣魚台・黄尾嶼・赤尾嶼(三つの島がくっ付いて聳え立つ山容)→古米山→馬歯山→琉球中山......という構図になっているが、「黄麻嶼」は欠如している。また、「海島図」の末尾に地名一覧があり、紙面の下方に「福州五虎門」を中心に福建・浙江・江蘇など中国沿海の島名がずらりと並べられ、上方には「琉球中山」を中心に琉球・九州の島々が書かれている。その右の横に「福建―琉球」航路に点在する島々が斜めに書き込まれ、鶏籠頭→花瓶嶼→梅花嶼→彭家山→釣魚台→黄尾嶼→赤嶼→古米山→馬歯山の順次となっている (35)。複数の海道針経から寄せ集めた情報が入り混じっているように思える。

 

いずれにせよ、『順風相送』と『指南正法』では、尖閣関連の記載がそれぞれ一箇所のみで、しかも往路に限られている。それに対し、『指南広義』の関連記載が八個あり、往路と復路の両方に出ている。それに、前者は「福建→台湾→尖閣諸島→久米島→那覇」という単純な航路しか記していないが、後者の記述は通常航路の他に、「八重山経由」「宮古島経由」「釣魚台開船」と多種多様だ。この事実は、尖閣周辺の海域に関する熟知度といい、渡航の回数といい、琉球船の方が中国船を凌駕していたことを示唆していると言えよう。では、明清時代における中琉海上交流の規模と頻度は、どのようなものだったのだろうか。

 

周知のように、明清王朝は周辺諸国に対して朝貢を促す反面、自国民の海外渡航や貿易を厳禁する海禁令を繰り返し発布した。このため、当時の対外貿易と言えば、基本的には朝貢の形を取って行われる官営貿易に限定されたものである。1372年から1866年までの約五百年の間、明清両朝の琉球冊封使の派遣は計23回に上り、毎回船2隻、五百人前後の規模だった。その他に、「(嘉靖二十一年五月)、漳州人陳貴等私駕大舡下海通番、至琉球」といった密貿易船や漂着船もいただろうが(36)、実態不明だ。片や琉球国から中国に派遣された使節船の隻数と言えば、明代493隻、清代349隻、計842隻に上る。「進貢使」の他にも、「接貢使」「請封使」「謝恩使」「慶賀使」「護送使」など様々な名目を使った中国渡航があって、各種の琉球貢船に搭乗した乗組員の延べ人数は計9万4876人という試算がある(37)。また、琉球外交文書集『歴代宝案』に記録された勘合番号を調べた結果、康熙二年(1663)から同治六年(1867)まで二百余年の間、計454枚の渡航証明書が貢船に発給されたという(38)。これほど頻繁に渡航を繰り返していた琉球側は中国側より豊富な航海経験を有し、尖閣諸島に関して圧倒的な情報量を持っていたとしても、不思議ではあるまい。現に、「琉球針路、其大夫所主者、皆本於『指南広義』」という徐葆光の証言があるのだ(39)

 

上の諸史料を逐一検証すれば分かるように、「釣魚嶼」「黄尾嶼」「赤尾嶼」などの名称は、「福建―琉球」航路の目印として『順風相送』『指南正法』に見られるものの、いずれも片言隻語に止まり、島そのものに関する情報(例えば地形・景観・植物・水深・水産資源など)は皆無に等しい。中国人船員が航行中、針経を片手に甲板の上から釣魚島を眺めたり、メモを取ったりしていたとしても、あくまで自船の位置・航程・距離・方角を確認するためで、上陸や漁業などの行動を伴わない。当たり前のことだが、貿易船・冊封船の乗組員である彼らは漁師でも開拓民でもないので、航海標識以外に島に対して無関心のはずだ。

 

ともあれ、『順風相送』『指南正法』の文面から、領土・領海・領有権などの意識は全く読み取れず、明清朝廷による尖閣諸島占領・支配の動機も可能性も、もとより存在しない。何と言っても、陸地が見えない航海中、羅針盤を頼りに帆走する船乗りたちにとって、島は自船の位置を知るための最も確かな目印なのだ。中台の論客が「中国人は最初、釣魚島を発見、命名、利用した」と言い張るが、実際には、『指南広義』を著し、前後四回も中国へ渡航した程順則をはじめ、琉球の進貢使・船員(中には中国人移民の末裔もいたにせよ)の方が遥かに詳しい尖閣記録を書き残した。つまり、琉球の人も中国人とほぼ同じ時期に「釣魚島を発見、命名、利用した」のである。もちろん、「釣魚島の発見、利用」と言っても、コロンブスによる新大陸の発見とは訳が違い、あくまで航海の目印としての「発見」「利用」である。海道針経の史料を素直に読む限り、領有意思を示す字句も「開発」「経営」「管理」「支配」を示唆する内容も皆無、という事実は否定できまい。

 

 


 

(1)尖閣諸島に関する明清史料は、々匈せ愼扈颪粒て賛坊亅∈封使が著した使琉球録O奏簑从書・海防書ぢ耋冀亙志ジ澱録泙慮渕鑪爐紡臺未任る。本稿は史料研究シリーズの第一弾で、既刊した論考として、「明清史籍における“釣魚嶼”の位置づけについて」(『山陽論叢』第19巻、2012年)、「清代台湾地方志の“釣魚台”記載について」(『山陽論叢』第21巻、2014年)を御参考頂きたい。なお、本稿では、中台側の論点を取り上げるに当たり、煩雑さを避けるために出処を省くことを断っておく。

★(管理人)「明清史籍における“釣魚嶼”の位置づけについて」(『山陽論叢』第19巻、2012年)、
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/cac625dbc7635f27a171992294034a05.pdf

★(管理人)「清代台湾地方志の“釣魚台”記載について」(『山陽論叢』第21巻、2014年)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/860d94c30a77cc579bfcfe376b6ce297.pdf

 

(2)尖閣諸島の中国名が幾つもある。「釣魚島」は主に中国で使用されているのに対し、「釣魚台」ないし「釣魚台列嶼」は専ら台湾・香港・海外華人社会で使われている。一方、明清航海文書における島名表記の傾向として、明代に使用された「釣魚嶼」は清代に入ってから、「釣魚台」に変わり、「黄麻嶼」「黄毛嶼」「黄茅嶼」は「黄尾嶼」、「赤坎嶼」「赤嶼」は「赤尾嶼」に統一されるようになった

 

(21) 向達校注『両種海道針経』中華書局、1961年、96頁。

 

(22) 同上、168頁。

 

(23) もっとも、慎懋賞『四夷広記・東夷広記』を繙くと、「兵庫港回琉球並漳州針位」には「......用辛酉針三更船、取粘米山。開洋、南辺過船、用乾戌四更船、用単乾針六更舡、取赤嶼。用単庚及単酉十更船、取黄麻山。用単酉針四更船、取釣魚嶼。用単酉針十更船、取彭佳山。用単卯針一更船、取鶏籠嶼。用単戌針八更船、取東湧山。用単申針、取牛嶼。用坤申針四更船、取烏坵山。用単坤針七更船、取太武山、是漳州為妙也」という復路も載っている。前掲『渡海方程輯注』、20頁。『四夷広記』デジタル資料:http://www.world10k.com/blog/?p=1643  

 

(24)清朝琉球冊封使汪楫は、『使琉球雑録』(1684年)の中に「在昔番舶時通各国、皆有程図、転相伝写。独琉球無定本、以国貧乏無土産、商賈不往故也」と記す。原田禹雄訳注『汪楫  冊封琉球使録三篇』榕樹書林、1997年、341頁。

 

(25)進貢副使という職業柄、程順則は『指南広義』を編集するに当たり、自ら四回も渡航した「琉球―福建」航路を重要視し、それ以外の針路情報を割愛した。彼は巻末「引言」で次のように述べている。「余留心針法久矣。......今得此巻、実獲我心者。旧本顔曰針簿、嫌其俗也。今改為指南広義。......改正旧本、非出臆見、必参考群書、方敢増減、庶無不根之言。......東西二洋等処、為我国所不到之地。旧本悉有画図、帙頁繁多、今儘略之。惟自我国至福建、一路山形水勢、依様絵之、以備査考。」(訳:私は以前から針経情報に留意していたが、......今回やっと入手できた。もともと『針簿』という題名だが、その俗称を嫌い、『指南広義』と改めた。......古い写本に校訂、編集を加えても、決して恣意的ではなく、関連書物を参考しながら取捨選択をした。根拠ない話など一切載せない。......東洋と西洋は我が国から至らない場所なので、元々あった海図など煩雑な部分を省いたが、福建渡航の針路だけは今後の参考にするため忠実に書き写した。)史料原文:http://www.world10k.com/blog/?p=2059

 

(26) 同上。また、『按針似看山譜』の「福州往琉球針」条(12頁)はこれと類似する。

 

(27) 同上。

 

(28) 同上。また、『按針似看山譜』の「漳洲往琉球併長崎」条(12〜13頁)はこれと類似する。

 

(29) 同上。また、『按針似看山譜』「琉球回福州針」条(12頁)はこれと類似する。

 

(30) 同上。その次の条に「成化二十一年九月二十四日午時、古米山開洋」とあり、『三十六姓所伝針本』の成書年代を示唆している。成化二十一年は1486年に当たり、「遣閩人三十六姓至中山」とされる洪武二十五年(1392年)より約百年後ということになる。従って、『三十六姓所伝針本』の内容は、福建移民が琉球まで持ってきた針本そのままではなく、約一世紀の間、琉球の進貢使・船員として中国に派遣された末裔たちが自らの渡航経験に基づいて加筆した情報も多く含まれる可能性が高い。

 

(31) もちろん、琉球船も帰帆する中国船と同じ北寄り航路を辿ることがあったろう。乾隆十五年頃(1750)に琉球に漂着した山東出身の商人白世泙編集したと思われる『白姓官話』には、琉球通事鄭世道が中国人漂流民の質問に答え、進貢船の渡航ルートを説明する場面がある。「在那覇港開船、収馬歯山。馬歯山的柴火很便、到那裡備辧了柴火、然後開船、過馬歯山去。還有古米山可収。再過古米山去、進了大洋、就没有地方可収了。路上還有四個小島子、也没有抛椗湾船的地方。只等望見那福建的山頭、才収進五虎門去了」という。瀬戸内律子著『白姓官話全訳』明治書院、1995年、146〜147頁。

 

(32)『指南広義』デジタル資料:http://www.world10k.com/blog/?p=2059(33) 同上。

 

(34 ) 同上。

 

(35) 同上。「海島図四」の地名一覧を見ると、「福州五虎門」系列と「琉球中山」系列の間、「釣魚台」などの他に、「彭湖」、「紅荳嶼」(台湾蘭嶼)、「沙馬崎頭」(台湾猫鼻角)、「北木山」(八重山諸島)、「太平山」(宮古島)などの島名も書き記されている。ちなみに、『按針似看山譜』にも尖閣諸島を記した海島図が三枚あり(23頁、43頁、53頁)、『指南広義』「海島図」の構図に似通っている。

 

(36)『明世宗実録』巻二六一、台北中央研究院歴史語言研究所、民国54年、5200頁。

 

(37) 赤嶺誠紀『大航海時代の琉球』沖縄タイムス社、1988年、13〜17頁。

 

(38) 松浦章『清代中国琉球貿易史の研究』榕樹書林、2003年、122頁。

 

(39) 徐葆光『中山伝信録』巻一「前海行日記」、『台湾文献叢刊』第306種、台湾銀行経済研究室編印、民国61年、14頁。

 

 

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明代および清代における尖閣列島の法的地位

季刊沖縄第63号掲載


明代および清代における尖閣列島の法的地位

 

奥原敏雄     

 

  序

 

本稿は、明代および清代(ただし一八九五年以前)において尖閣列島がいかなる国家主権の下にもおかれたことのなかった事実を立証しようとするものである。この事実の立証は同列島の中国領有権を主張する内外の人々によって、日本が尖閣列島を領土編入した一八九五年以前に、すでに同列島が中国領であったと強調されている今日、とりわけ重要であるように思われる。

 

ところで国際法上からみた場合、列島に対する中国の実効的支配の事実が存在しない以上、一八九五年以前に尖閣列島が中国領であったと考えることは非常に困難であるが、反面中国の領有権を主張する人々が主として歴史的見地からこの問題をとらえているため、かならずしも尖閣列島の領有権をめぐる論争がかみあっていたといい難い面のあったことも事実である。

 

そこで本稿では、尖閣列島およびこれに関連する歴史的事実をあきらかにすることによって、歴史的観点からも列島が中国の領土として扱われたことのなかったことを立証しようとするものである。それとともに一部の人々によって指摘されている誤った歴史的理解を正し、その真の事実をあきらかにしておく必要があると考え、筆者なりの調査結果を本稿においてまとめてみた。

 

なお尖閣列島に言及した若干の古文書に対する文言上の解釈についての筆者の見解は、本誌第五十六号にあきらかにしたとおりであって、それは、今日においても、基本的にはかわっていない。ただしその後井上清氏(京都大学教授・日本史)などによっていくつかの古文書の存在があらたに指摘され、中国領有の有力な証拠とされているようであるが、これについての著者の見解は、別の論文で詳述する予定であるので、本稿ではこれに触れない。

 

  一、 隋書の龜鼊嶼は魚釣島か

 

尖閣列島の島々がはじめて文献上にあらわれるのは、一五三四年に冊封使として琉球へ使いした陳侃の誌した「使琉球録」においてであるとされているが、これらの島々の存在自体は、それよりもかなり以前から、おそらくは十四世紀のはじめ頃には、すでに十分認識されていたものと思われる。

 

歴史学者の中にはさらに年代をさかのぼって、七世紀のはじめにその存在が知られていたとするものさえある。すなわち藤田元春氏は『隋書』の「東夷列傳流求国」にみられる龜鼊嶼を魚釣島であると主張される。

 

藤田氏によれば『隋書』の「帝遣武貴郎将陳稜、朝散大夫張鎮州率兵、自義安浮海撃之、至高華嶼又東行二日至龜鼊嶼又一日便至流求……」における龜鼊とは音「クヒ」で「クバ」であり、高華嶼とは台湾の富貴角の北に位する「彭佳嶼」のことであると解されている(藤田元春『日支交通の研究(中近世篇)』昭和十三年)。

 

もし藤田氏の解釈が正しいとすれば、魚釣島は隋煬帝の大業四年(六〇八年)にすでにその存在を知られていたこととなる。『隋書』の龜鼊嶼と高華嶼の位置については、古くから関心がもたれており、わが国でもさまざまな説がある。冊封使徐葆光や周煌もそれぞれの使録(『中山伝信録』および『琉球国志略』)の中でこれらの島について言及している。もっとも両封使とも、右の島々の存在には壊疑的で、結局実在しないものと断じている。

 

『中山伝信録』巻之四は、次のようにのべている。

 

「臣葆光の調べたところによると、古くから伝えられた島嶼には誤謬がとても多い、これは先人の使録で分ったものである。前明一統志では次のようにのべている、龜鼊嶼は国(注 琉球)」の西方にあり、船で一日かかる。高華嶼は国の西方にあり、船で三日かかる。いまこの二つの島嶼を調べてみたら、皆なかった」

 

鄭舜功は『日本一鑑』「桴海図経」(一五五六年)巻之一において「自澎湖次高華次龜鼊次大琉球亦使程也」とのべるとともに、別の馬歯山(慶良間諸島)を過ぎたところの行程において「南風用正卯(東)鍼或正寅(東北東)鍼、経取華山即高華山、次取七島(注 宝七島のことで日本領)」と説明している。他方同じ著者は本書「桴海図経」巻之二の「滄海津鏡」と題する海道図において、龜鼊嶼を●迤山(注 伊江島)(●は辶に里)と熱壁山(注 伊平屋列島)との中間西側に図示し、華山をその北に描いている。

 

藤田氏は上述の著書の中で「『日本一鑑』の著者は馬歯山の東に崋山(亀山?)をあげて即高華山とのべたがこれ又違っている」とのべておれれるが、鄭舜巧は「桴海図経」巻之一で、馬歯山の北から東又は東北東へ針路をとると記しているにすぎず、実際この方向へ縫鍼を用い針路をとった場合には、南風を利用しているわけであるから船は北東から北北東の間を北上することとなる。しかも鄭舜巧は藤田氏の指摘した馬歯山の東に崋山を描いてはおらず、さきの「滄海図鏡」によればあきらかに馬歯山を北上したところに位置させている。鄭舜巧が龜鼊嶼と華山(即高華山)を伊平屋列島の一部とみなしていたことが正しいか否かは別として、藤田氏の鄭舜巧についての指摘は誤りであったというべきであろう。

 

龜鼊嶼を伊平屋列島の一つと考えていた学者として、わが国の新井白石がいる。しかし新井白石は『南島志』(一七一九年)において、高華嶼を台湾、計羅間(おそらくは慶良間と解される。ただし奄美大島の近くにある家刺夢=加計呂麻島も類音である)を龜鼊嶼と解するという非常に誤った仮定の下に、龜鼊嶼の位置を割り出している(この点を批判する歴史学者としては、武藤長平『西南文運史論』「大正十五年」がいる)

 

このほか秋山謙三氏は、申叔舟『海東諸国記』(一四七一年)の「琉球図」にある「花島去琉球三百里」の花島を高華嶼とみなされている。だが『海東諸国記』における島嶼の位置とか距離はきわめて大雑把であり、仮に花島を高華嶼とになしても、この地図にある花島の位置に、現在の島嶼をあてはめることはとうてい不可能である。『海東諸国記』は慶良間、久米島、花島を東から西へと大体一線上に並べているが、久米島から琉球までの距離を百五十里としているから、花島はこれからさらに久米島―琉球とほぼ同じ距離だけ西方に位置していなければならないが、このような位置にはまったく島嶼は存在しない。

 

ところで鄭舜巧は澎湖より高華、龜鼊の順に大琉球へ至ることを説明しているが、「滄海図鏡」では、沖縄本島北西海上の北から華嶼=即高華山、龜鼊嶼を続けて図示している。かくしてこの使程は、澎湖諸島を北上して東支那海へ入り、さらにこれを斜に横断して沖縄本島(大琉球)の北西方海上にいたり、次いでそこから南下して、高華、龜鼊各嶼を過ぎ、大琉球の那覇へ入港することとなる。だがこのような航路はあまりにも不自然であるばかりでなく、遠回わり、逆流、逆風となるので実際に利用されたとはとうてい考えられない。

 

あるいは鄭舜巧が「小琉球」とすべきところを「大琉球」と誤って記したものであったかもしれない。もしそうであれば澎湖諸島から小琉球(台湾)へ至る途中に高華、龜鼊の島々が存在することとなる。そこで林豪総修『澎湖廳志』(一八九三年)をみてみると、同書第一巻「封域」の中で彭湖諸島の各島嶼を説明しているが、「奎壁山」について、次のように記している。

 

「奎壁山……在大山嶼奎壁澳北寮社後距庁治二十三里原名『雞籠』以形似得名」

 

『澎湖廳志』から二年後に伊能嘉矩氏は名著『台湾志』(明治二十八年)を公けにされているが、その中でも奎壁嶼をもって龜廳嶼とされている。伊能氏はさらに高華嶼についてものべられ、彭湖八罩島の西にある華嶼であるとされている。

 

かくして龜廳嶼の位置は、大琉球の南西方海上(魚釣島)か、大琉球の北西方海上(伊平屋列島)あるいは小琉球の西方海上(奎壁嶼)の三説に分れるとみてよいであろう。この中「伊平屋列島」の一部とになす説はたんに位置的に推定しているだけで、これに類音の島嶼をあげているわけではない。またこの場合は東行して大琉球へ至るというよりは、南下して大琉球へ赴くと表現した方が正確である。さらに新井白石のように誤った仮定の下に龜鼊嶼にの位置を算定した結果、伊平屋列島となったにすぎないものもある。すでにのべたごとく鄭舜巧の場合には航路としてあまりにも不自然で実際上にはほとんど考えられない。

 

次に龜廳嶼=魚釣島説であるが、冊封諸使録その他から、彭佳嶼と魚釣島の航路は『隋書』の水二日を要せず、せいぜい一日(十更)の距離にすぎない。反対に魚釣島から大琉球までは『隋書』の水行一日では、まったく不可能で約三日(魚釣・黄尾四更〜五更、黄尾・赤尾十更、赤尾・大琉球十五更)を要する。徐葆光や周煌が龜鼊嶼などの島々を実在しないものと結論したのも、おそらくこの水行日数を起算しての上であったと思われる。


結局最後に残った澎湖諸島の西に位する奎壁嶼が龜鼊嶼であったと考えるのが、もっとも妥当な結論のように思える。この場合は『隋書』の水行日数とほぼ一致するし、東行すれば小琉球へいたる(魚釣島の場合北上して後東行する)。原名と考えられる島嶼も存在するし、原名の由来もあきらかにされている。


陳稜の遠征した流求が、大琉球(沖縄)ではなく、小琉球(台湾)であったことは、東洋史学者の間でも通説であり、藤田氏も『隋書』の中のかなりの記述が大琉球ではなく、小琉球であることをみとめておられる。ただ藤田氏は『隋書』の中には大琉球とみられる記述も含まれているとして右のような解釈をおこなったわけである。しかし上述したように藤田説は水行日数からも成り立ちえないし、龜鼊嶼の音を「クヒ」あるいは「クバ」と解されるとしても、魚釣島が沖縄において古くからユクン・クバと呼ばれていたことと結び付けることにはかなり問題がある。第一いつ頃から沖縄でユクン・クバと呼ばれるようになったかが不明であり第二に、ユクン・クバは魚釣島と久場島の二島を総称した名称であったかも知れず、少なくとも魚釣島一島の名前であると一方的に断定しえないのである。第三に、島の大きさ、外貌からしてもクバよりもユクンの方が目立つわけであるから(順序としてもクバ・ユクンではない)、ユクンに類音の島名を『隋書』が用いるのが普通であったといえよう。第四に、魚釣島をクバ、黄尾嶼をユクンと錯簡して呼んでいたこともあったが、(実際にもクバ=ビロー樹は、魚釣島の方に圧倒的に多い)これは十八世紀の末以後のことであったにすぎない。以上の検討によって龜鼊嶼を魚釣島と解しえないと結論しうるのである。

 

  二、  尖閣列島航路の歴史

 

台湾北方の雞籠嶼から花瓶・綿花・彭佳各嶼を経て、尖閣列島、那覇へと至る航路は、夏迅(旧暦五月から六月)の季節風(南風)を利用することによって発達したものである。

 

この航路をさらに北へ延長すると、八世紀初葉から利用されてきたいわゆる「南路」がある。南路の利用は七〇一年の第六次遺唐使船以後とされており、博多から五島列島、薩摩を経て、種子島、屋久島、沖縄本島へ至り、風を利用して中国の揚子江へ向かうというものであった。

 

他方遺唐使船が南路を用いたのは季節風を利用するという理由によったものではなく、当時朝鮮の沿岸沖を通って入唐する北路が新羅の妨害にあって思うにまかせないという政治的事情に起因していた。したがってその後筑紫の値嘉島から揚子江口へ赴く海路が開かれるようになると南路の利用も急速に衰微した。

 

遣唐使船などが当時まだ季節風を効果的に利用するまでにいたらなかったことは、これらが季節風を無視して航海したためしばしば漂流したり、遭難した事例の多かったことからも推測される。たとえば七五〇年の第九次遣唐使船が安南へ漂着したり、八〇四年の第十二次遣唐使船が福州まで流されたりしたなどはその好例である(このほか八一五年には智燈太師が台湾へ漂着している。古くは六五三年に第二次遣唐師船が遭難している。王輯五原著・今井啓一訳『日支交通史』昭和十六年)

 

このようにみてくると『続日本紀』の和銅七年(七一四年)と霊亀元年(七一五年)の条に「信覚」などの南島人が来朝進貢した記録の存在することを理由に、尖閣列島を経由する航路がすでに奈良朝以前において南島の人々に十分知られ、また利用されていたとする説(藤田元春・前掲書参照)は十分の根拠を有するものでないというべきであろう(ただしここでは『続日本紀』の「信覚」が石垣島であったか否かに関する学説上の対立には触れないこととする)。

 

季節風を利用する航海技術は、日本においては、十三世紀末頃から発達し、元との通交貿易に用いられていたことがあきらかである(この頃になると日本から中国への渡航時期も大体一定し、遭難などの事故もいちじるしく減少するようになった。王輯五原・前掲書)

 

また後に和寇が季節風を最大限に利用し、広東、福建などの中国諸省にまで侵寇を極めた。和冦の侵入経路や時期その他については中国でも特に研究され、いくつかの海防に関する著書が公にされている。その中でも鄭若曾『籌海図編』(一五六二年)は代表的なものであるが、同書巻二「倭国事略」は、これを次のように説明している。

 

「大低倭船のきたる恒に清明の後前にあり。此風候常ならず屈期方に東北風ありて多変ぜざる也。五月を過ぐれば風南より来たる。倭行くに利あらず。重陽後また東北あり十月を過ぐれば風西北より来たる。また倭の利とするところに非ず。故に防春は三・四・五月をもって大汛となし、九・十月をもって小汛となす」

 

他方琉球も、十四世紀の初めには、季節風を実際に利用するにいたっていた。すなわち洪武五年(一三七二年)琉球が中国との進貢・冊封の関係を開いた最初の頃から、琉球の進貢船載貨に胡椒、蘇木、乳香といった南洋産物資が少なからず含まれていたばかりでなく、それ以前の元延裕四年(一三一七年)、すでに琉球船(宮古船)二隻、乗員六十余人がシンガポール付近で交易をおこなっていた事実を重修『温州府志』(一六〇五年)巻十八はあきらかにしている(藤田豊八『東西交渉史の研究(南海篇)』昭和十八年)。


これら南洋諸地域との交易において琉球人がその帰途に南風の季節風を利用していたことは、いくつかの古文書によっても立証されている。すなわち安里延氏は『日本南方発展史』(昭和十六年)の中で、『おもろそうし』巻十三および『歴代宝案』所収の『南洋諸国宛琉球国王咨文』をあげて、このことを指摘されている。

 

「南風そよそよと吹きそめ何たれば、鈴鳴丸よ、唐南蛮よりの貢物を満載して我が君に奉れよ、追手のそよそよと吹きそめたれば」(『おもろそうし』巻十三、安里氏訳)

 

「来人を寛●し、蘇木、胡椒等の物を貿易し、早く風を趁ふて国に回へらしめよ」(『歴代宝案』所収「咨文」)

 

「仍ち煩はし、聴くらくは、今差去の人員、早に及んで打発し、風を趕ひ趁ふて、迅かに国に回へらしめよ」(同上)

 

ところで本節の冒頭であきらかにしたように尖閣列島を経由する航路は南風の季節風を利用することによって発達したものである。そうして南風の季節風が吹く時期は、東支那海では、さきの『籌海図編』でもあきらかにされているように、旧暦五月、六月であった。陳侃以後の歴代冊封使録において冊封船の多くが五月(残余も六月)に福州を開洋し、尖閣列島を通って琉球へ赴いているのも、この航路がこの時期にしか利用しえなかったことを示している。それだけではなくこの時期を失した冊封船や琉球の進貢船などは、翌年の同時期まで出港を見合わせるのが常であった。このことは当時において福州から那覇へいたる航路がこれしかなかったことを示唆している。ただし倭船の場合は、倭寇船にかぎらず、東支那海をかなり自由に航行していたようである。むしろ倭船においては、台湾の北にある雞籠嶼から東支那海を斜に横断し『その間に島嶼はない』、宝七島にいたり、さらに「南路」を北上し、薩摩にいたっていたようである(鄭舜功『日本一鑑』「桴海図経」巻一)。

 

したがって南風の季節風を利用して那覇へ至る場合、その出港先が福州であれ広東であれ、また南洋諸地域からであれ、常に尖閣列島を通っていたと想像される。とりわけ福州からの場合この航路はむしろ迂回するコースであったが(直行コースはその間に目標となる島嶼がまったくないために危険であり、利用されなかった。ただし那覇から福州へ至るときは、西進すれば中国沿岸のどこかに達するから、後は沿岸伝いに福州へ入港すればよいし、場合によっては最初に達した中国沿岸に上陸することもできた。したがって那覇から福州へ赴くときは尖閣列島のコースを通る必要はなかった。なお那覇から尖閣列島を通って、福州へ入港する場合、海流の流れが逆となるためかなりの日数がかかることとなる。ただし、このコースも若干使われていたようである。程順則『指南広義』―一七〇八年―の「針路条記」にはこのコースも誌されている)。南洋諸地域からの帰途の場合、この航路はまさしく最短コースであった。したがってこの航路を利用しない南洋貿易は考えられなかったともいいうるのである。

 

この事実および南洋諸地域と琉球との交易がすでに一三七二年以前からおこなわれていたであろうことを考慮するならば、尖閣列島およびこの航海ルートは、琉球人によってまず発見され、その後ひんぱんに利用されるようになったと思われる。


それでは琉球船は明代および清代を通じて一体どの程度この航路を利用してきたのであろうか。これをみてみたいと思う。まず進貢船の派遣回数であるが、一三七二年の琉球・中国における冊封関係の開始から一八七九年右の関係廃止までの五百七年間に、進貢船は合計二百四十一回(明代百七十三回、清代六十八回)中国へ派遣されていた。かくして進貢船は、その復路において、同じ回数尖閣列島を経由していたこととなる。次に中国からの冊封使派遣に際して琉球は答礼のため謝恩使を中国へ派遣した。この船を謝恩船という。謝恩船と冊封船の数は一致しなければならないから、冊封船と同回数の二十三回、謝恩船が福州へ赴いていたこととなる。さらに十一人目の冊封使であった陳侃以後のすべての冊封使に対して、琉球中山王府は迎接船を福州まで派遣した。結局迎接船は十四回派遣されたこととなる。これらを合計すると二七八回に達する。しかしこれだけではなくこのほか護送船(注 進貢物資の一部を積載する船)、接貢船(注 北京へ赴いた進貢船一行の帰国のため翌年迎えにくる船)賀正船、賀冬船、賀万寿節船、乞襲爵船、告訃船(琉球国王の崩御を伝える船)探索船(行方不明船の捜索を目的とするもの)などが同様に福州へ赴いた(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』昭和十四年)。これら(進貢・謝恩・迎接の諸船を含む)の派遣回数は、記録の残されているものだけにかぎっても、洪武五年(一三七二年)から万歴十六年(一五八八年)の二百六十年間二百四十回に及んでいる(安里延・前提書)。加えて琉球から安南、シャム、スマトラ、旧港、ジャバ、マラッカなどへ派遣された勘合符船の数は一四一九年〜一五六四年の百四十五年間に、九十回を数えている(安里・前提書)。それ故少く見積っても琉球・中国と冊封関係が続いていた間の琉球船は帰途五百八十回以上も尖閣列島を通っていたこととなる(注 一五八九年以後の進貢船百四十六回、接貢船六十三回、謝恩船・迎接船計二十二回と想定して計算した。その他の諸船については推定が困難なので省略した。したがってこれらの数字の合計数より、実際の数字が下まわることはない。なお進貢船などの詳細な派遣統計表については、小葉田・前提書、また接貢船の制度などに関しては、真境名安巽・島倉竜治『沖縄一千年史』昭和二十七年)。

 

  三、  西洋および御朱印船航海図と尖閣列島

 

陳侃、郭汝霖両封使が琉球へ赴いた時代(一五三四年―一五六二年)は、東支那海交通史上もっとも重要な時期であった。すなわちポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が一四九八年喜望峰を廻航してインド洋へいたったのを端緒に、西洋諸国による東洋進出が開始され、やがてゴア、マラッカ、香料群島などの占領を経て、南支那海にいたった。この頃(一五一四年)からまずポルトガルが中国との交易を開始し、広東、マカオまで進出することとなる。陳侃渡琉(一五三四年)後まもなくポルトガルはさらに北上し、東支那海へ入り、福建省の漳州、逝江省の寧波にまで交易の範囲を拡大した。また一五四三年には広東から寧波に赴く途中暴風雨に遭ったポルトガル船が種子島へ漂着するとともに、六年後フランシスコ・ザビエルが布教のため来日鹿児島にいたった。同じ頃別のポルトガル人は台湾を望見し、『イラ・フォルモサ』(美しき島)と命名した。

 

このようにこの時代は、西洋諸国、とりわけポルトガルがはじめて東支那海へ進出し、極東地域に西洋の文化と植民地主義を移入した時代であった。それとともに無人の小島群でしかなかった尖閣列島の島々も次々にかれらに知られるようになり、その存在が十六世紀末以後の西洋諸国海図にもしるされるようになった。他方日本においても豊臣秀吉の天下統一成るや積極的な海外進出政策がとられるようになり、いわゆる御朱印船貿易が開始されるにいたった(一五八六年)。そうしてこれら御朱印船貿易業者によって作成された航海図にも、西洋諸国の海図とほぼ時を同じくして、尖閣列島の存在があきらかにされるようになった。

 

西洋諸国海図および御朱印船航海図については、今日、中村択氏による綿密周到な調査研究の成果が存する。ここでは中村氏の『御朱印船航海図』(昭和四十年)を借りてこれらの事情を指摘しておきたい。

中村氏によって尖閣列島の島々が示されているとされる『航海図』は、西洋諸国のものが十一枚、御朱印船航海図七枚である。これらを列挙すると次の通りである。

 

  (一) 西洋諸国海図(三枚略す)

(顱 『ドオエッツ海図』(Cornelis Doetszoon 一五九八年ポルトガル図のオランダ製写本)
(髻 『ギズベルツ海図』(Evert Gijsbertz 一五九九年、オランダ)
(鵝 『サンセス海図』(Sances 一六二三年、スペイン)
(堯 『ラングレン海図』(A.Langren 一六二〇年、オランダ)
() 『コムベルフオド海図』(Comberfod 一六四〇年、ポルトガル)
() 『カバリーニ海図』(Cavallini 一六五二年、オランダ)
() 『サンチェス海図』(Sanches スペルが異なるが、右のSancesに同じ、一六四一年、スペイン)
() 『ダメル海図』(John Damell 一六三七年、オランダ)

 

  (二) 御朱印船航海図(一枚略)

(顱法愿谿々區沺戞憤賚仔鵝伺代)
(髻法愽魍た沺戞憤賚仔鵝伺)
(鵝法愿賤僚国航海図』 (一六一三―一六一六年頃のもの)
(堯法愕儔絢系艮區沺 (一六三一―一六三六年頃使用のもの)
()『小加呂多』 (江戸初期。「加呂多」はオランダ語のKaartで、海図の意味)
(此法憫坐霎曄戞憤賚纂薫譟衆貅憩鷆綰頃のもの)

 

これらの海図においては、尖閣列島の島嶼数は一定していないけれども、二から五個である。なお全体としての島嶼あるいは個々の島の名前を付していないものが大多数であるが、若干の航海図には名称も付されている。すなわち御朱印船海図では『小加呂多』と『廬草拙』が「レイス」、『角屋七郎兵衛図』では「鳥島」と記されている(注雁現地では南・北小島のことを「シマグァー」または、「鳥島」とも呼ばれていた)。また西洋諸国海図においてはDos Reismagos と記されていた。このほか平沢元『瓊浦偶筆』の「海路記」に「見山正是赤次嶼枯美山開有一更」とあるが、この場合の赤次嶼は枯美山、すなわち久米島から一更とのべているとこらから赤尾嶼ではなく(実際に赤尾嶼から久米島の水行は十五更とされている)むしろ久米鳥島であったと思われる(注 平沢元は享保十八年生れ寛政三年没であるから、一七三三―一七九一年頃の書である。ただしここに記されている「海路記」は日本人のものでなく、中国人によったもののようである。藤田元春・前掲書)


  四、  台湾および付近島嶼の法的地位

 

上述したように西洋諸国は十六世紀末頃から、尖閣列島の存在そのものを認識するようになっていたが、この列島について西洋諸国が領土的関心を示したことは一度もなかった。植民地獲得のため東漸してきた西洋諸国にしても、これらの島々はいわば水路誌的知見による関心以外の何物でもなかった。このことは時代が下った十九世紀におけるイギリス軍艦「サマラン号」による列島調査(一八四一年)についても、同様である。

 

西洋諸国が東支那海の島嶼について領土的関心を示したのは、台湾であった。日本もまた同様であった(なおオランダは澎湖諸島についても同様な関心を示した)。

台湾に対する領有意図は西洋諸国の中ではスペインがもっとも早く、一五九七年マニラ総督が台湾占領を提議している。この頃の台湾は嘉靖年間の末頃に威継光に敗退させられた倭寇が雞籠に遁入占拠していた程度であった。一六八三年の『台湾符志』(高拱乾譔)「序」はこれを説明して「台湾孤懸海外歴漢唐宋元所未聞伝自明李天啓間方有倭奴……」と誌している。光緒六年(一八八〇年)『全台與図』でも「台湾海外島與……従古未闢荒地前明始知其地」とのべられている位に、十六世紀中葉までの台湾は、原住民以外に若干の倭寇や海寇がごく一部の地域(雞籠と台南の一部)を占領していた程度で、いかなる国家の支配も及ばざるところであった。台湾と沖縄が地理的に区別されるようになったのも明供武五年(一三七二年。冊封使の渡琉)以後のことであった。それも沖縄が大琉球、台湾が小琉球という名前で呼ばれているごとく、その大小すらまだ不明の地であった。『籌海図編』(一五六二年)巻之一の「與地全図」においても、沖縄の方が台湾より大きく描かれているばかりでなく、台湾自体が一つなのか二つなのか分らないような書き方をしている。もっともこれはさらに一世紀おくれた西洋諸国の海図も同様であって、台湾自体は単一の島として示されていない。

 

中国人にとって当時台湾は非常に恐しいところとされていた。それは澎湖諸島と台湾との間に「落漈?」と称するところがあって、ここに漂流すると、百に一つも助からないとされていたためであった(『宋史』琉球本伝)。いま一つは、雞籠嶼の付近に「弱水」と称するところがあって、舟がそこに入ると沈没するか、帰ってこれなくなるとして非常に恐れられていた(『裨海紀遊』)。これは「万水朝東」と名付けられたものであったが、これがさきの落漈と異なるものか否かあきらかでない。これらはあるいは弱水、黒水溝、滄水とも呼ばれていた。黒水溝の記述は日本の『元和航海記』にもでており、台湾と澎湖諸島との間を通るときの注意が記されている。清代の台湾に関する古文書をみるとわかるように雞籠とか淡水といった台湾にある同一の名前が澎湖諸島の中にも多くみられる。おそらくこの方が最初に付けられたものであろうと思われる。これは当時としては台湾が一島と考えられていなかったのであるから、無理からぬことでもあった。台湾の雞籠嶼の近くに弱水があるとする説もこれと同様の理由によるものであろう。また後に赤尾嶼と琉球との間に「溝」があるとする説も、台湾と沖縄が区別されず琉球と称されていた時代の「台湾」と澎湖諸島との間の黒水溝をここだと思い違いした結果生じた議論のように思われる。何人かの冊封使や閩人が、赤尾嶼の近くに溝があると信じ、他方陳侃のごとく琉球に関する当時の文献が万が一つも正確なことを伝えていないとして、溝の存在を否定しながら、この「溝」が実は台湾が琉球という名で区別されずに呼ばれていた時代のこの地と澎湖諸島との間に実在することに思いが及ばなかったのもすべて琉球に関する知識の不十分さからであったといえよう。これに対して沖縄の人々が自分たちの体験からこの「溝」の存在を否定したのは当然であったというべきであろう(この「溝」とは黒潮全体の潮流をさすものではなく、特定の水城の異状潮流を指していたと考えられる。ただこの異状潮流が黒潮に起因していたため、黒水溝と名付けられたのであろう。少くとも黒潮の流れているすべての水城を黒水溝とは呼んでいなかった。落漈とか弱水という名称は、まさしくその潮の状態=色ではなく=を指摘していたといってよいであろう)。

 

ところで翌一五九八年のスペイン艦隊による台湾遠征は失敗に帰し、今度はその五年後(一六〇三年)オランダ艦隊が台風のため澎湖に避難、上陸した。しかしこれは明軍によって退去させられた。澎湖は台湾と異なり、すでに元末(十四世紀後半の至元年間)巡検司がおかれ、福建省同安県に隷属していた。その後この地域が倭寇などの潜入地となっていたこともあって、住民を強制的に退去させ、福建省の漳泉二府の間におくとともに、巡検司制度も廃止した。しかしこのことはかならずしも中国の澎湖諸島放棄を意味するものではなく、巡検司制度の廃止もいわば国内の治安対策上の一つとしてとられたものであって、オランダに対する例にみられるごとく澎湖諸島を第三国が脅かしたようなときには、中国の領土侵害とみなして、積極的にこれを防衛する姿勢を示してきた。この点澎湖諸島と台湾は区別して考えられなければならない。

 

台湾に対する領有意図はスペインに次いで日本であり、一六〇九年徳川家康は有馬晴信、千々石妥女に命じて、台湾占領を試みたが、原住民(中国大陸人はまだ入っていない)の抵抗によって果せなかったとされている(これ以前の一五九三年秀吉が台湾の入貢を促すべく原田喜右門を現地に遣わしたといわれているが、その信憑性はともかくとして、たんなる入貢要求だけでは領有意図があったということにはならない)。


その後一六一〇年にポルトガル、また一六〇三年オランダが台湾占領の計画を立て、さらに一六一六年再び家康が邑山等安に台湾占領を命じたが、原住民の抵抗にあったりで実行されないままに終っている(台湾原住民の抵抗は激しいものがあったようで、隋および元代における中国の台湾遠征もこの抵抗のためすべて失敗に帰していた。南宋の時代には反対に台湾原住民―毗舎那人―数百人が福建省の泉州を襲っている)。

 

しかし本格的な台湾攻撃がおこなわれるのは一六一九年以後で、翌年オランダ東印度会社は台湾の占領を指令、また翌々年には澎湖を占領、さらにその翌年台湾の安平に仮城を築くにいたった。もっとも澎湖のオランダ占領には前のときと同様明軍も果敢な反撃をおこない、そのためオランダもこの地の占領を断念し、明朝の同意をとり付けて澎湖を放棄し、台湾へ撤退した。

 

オランダの台湾占領は一六六一年鄭成功の軍の進攻によって一六六二年には降伏、撤退することを余儀なくされた(鄭成功の軍隊は明朝が清朝に敗退した後の亡命軍であって、清朝からすれば奸軍の徒であった。したがって鄭成功軍の台湾占領をもって、台湾の中国領有の始まりとすることは、正しくない。これらは正当な権限を有せざる者による占拠であって、倭寇や海寇などによる占拠と性格的には同じものであった。清朝もまたそのようにみていた)。


鄭成功の軍は(かれ自身は台湾進攻の年に急逝していたが)結局二十一年間台湾を占拠したにとどまり、一六八三年には水師提督施琅の大軍の前に、無条件降伏することとなった。ここに台湾ははじめて中国(清朝)の版図に帰したわけである。もっとも占領した台湾を清朝の版図とすべきか否かについては意見が分れ、清朝高官の大多数(施琅を除く)は、台湾を征服したのは鄭氏の不逞を夷げようとするためであって、この地を永久の領土とすることには反対であり、たんに澎湖だけを従来どおり領有し、東門の鎖錀とすべきであり、そのため台湾にある中国人はことごとく中国本土に移し、すべからく台湾をあげて版図の外に放棄すべしと主張した(伊能嘉矩・前掲書)。

 

だが清朝内部における台湾遺棄論は、施琅の熱心な説得により、最終的には撤回され、台湾を清朝の版図に入れることが決定され、翌一六八四年これを福建省に隷属せしめるとともに、一府(台湾府)三県(台湾・鳳山・諸羅)を設けた(注 なお前掲『台湾府志』は「台湾自康熙二十年始入版図」「上二十一年特命靖海将軍俟施公、師率討平之、始入版図、置郡邑」と誌しているが、これは誤りで正確には康熙二十二年に版図編入されたものである。乾隆三十年(一七六五年)の余文儀『続修台湾府志』を含めて、これ以後のものは、すべてこのように訂正されている)。

 

なお中国の版図へ編入された後の台湾の行政的範囲は、大雞籠嶼までと明示されており、この事実は日清講和条約成立直前まで変更をみていない。綿花、花瓶、彭佳三嶼が行政上台湾の範囲に含められたのは光緒三十五年(明治三十八年、一九〇五年)であった(基隆市文献委員会『基隆市志(既述篇)』一九五四年)。

 

大雞籠嶼が台湾の北限あるいは北界であったことは、以下の文献があきらかにしている。

 

周鐘瑄『諸羅懸志』(一七一七年)巻一「疆界」(県治東界大山、西抵大海、南海鳳山県西南界、台湾県北界大雞籠山)
同書巻一「山川」(大雞籠山巍然外界之天半、是台湾郡邑之租山也)
陳培桂『淡水廳志』(一八七一年)巻一「封城志・疆界(加行五里、至大雞籠租山、沿海極北之道止)
『台湾府輿図纂要』(清刊)「台湾府輿図識・淡水廳」(大雞籠山……淡廳極北之区為全台租山)
『台湾道姚瑩禀奏台湾十七国設防状』(道光二十年、一八四〇年)(大雞籠在淡水極北、転東之境、距淡防廳二百五十五里)

以上によって日清講和条約成立以前において、尖閣列島はもとより、台湾と琉球・久米島との間に散在するすべての島嶼(大雞籠嶼とこれより台湾に近い六個の付属島嶼を除く)はいまだ帰属不明のままにおかれていたと結論しうるのである。


【国土館大学助教授・国際法】  

 

 

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石垣村長だった豊川善佐宛ての感謝状発見について −八重山日報−


http://www.yaeyama-nippo.com/2012/09/28/%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E6%8C%87%E5%AE%9A-%E4%B8%80%E9%83%A8%E3%81%AB%E7%95%B0%E8%AB%96%E3%82%82-%E9%A0%98%E6%9C%89%E6%A8%A9%E8%A8%BC%E6%98%8E-%E3%81%AE%E6%84%9F%E8%AC%9D%E7%8A%B6-%E5%B0%96%E9%96%A3/



八重山日報


文化財指定 一部に異論も 「領有権証明」の感謝状 尖閣

 2012年9月28日








 市の文化財に指定された「豊川善佐(とよかわぜんさ)宛尖閣列島遭難救助の感謝状」=写真提供・市立八重山博物館


 中国が尖閣諸島(石垣市登野城)の領有権主張をエスカレートさせる中、中国が1920年に、尖閣諸島を日本領と認めていたことを証明する2通の「感謝状」の存在が改めてクローズアップされている。感謝状は今年1月、市の文化財に指定された。石垣市教育長の玉津博克教育長は27日、八重山日報社の取材に対し、文化財指定の経緯を振り返り、一部には異論があったことも明かした。玉津氏は「尖閣問題を荒立てるつもりはない。歴史的に価値がある資料だから文化財に指定する」と反論し、指定を実現させたという。
 感謝状の文化財指定について語る玉津氏=27日午前、市教委







 玉津氏が感謝状の文化財指定を表明したのは、2010年10月の就任直後、職員との懇親会の場だった。


 尖閣諸島周辺で中国漁船の衝突事件が起き、日中の対立が激化している時期だった。職員の1人が「尖閣諸島の海は友愛の海にするべきだ。こんな時期に文化財指定するべきではない」と反対の声を上げたという。


 感謝状の存在は周知の事実だったが、玉津氏の就任まで、文化財指定に向けた具体的な動きはなかった。関係者の1人は「関心がなかったせいかも知れない」と話した。


 市文化財審議会は同年11月、市教委から諮問を受け、指定すべきかどうか審議したが、委員から「感謝状はほかにも出てくる可能性がある。発見を待ってから指定するべきだ」と慎重論が出たため、継続審議になった。


 報告を受けた玉津氏は「悩んだ」というが、考えた末、指定の方針を貫くことを決め、改めて審議会に早期の結論を要請。審議会は12月、指定すべきと答申した。







「尖閣感謝状」国際アピールを 2通目、奇跡的発見







 文化財指定書などを手に記念撮影する豊川敏彦さん(前列左から3番目)ら=今年1月10日、市教委


 外務省の文書によると、感謝状は本来、7通存在していたという。10年までは、石垣村役場職員だった玉代勢孫伴宛ての感謝状しか見つかっていなかった。


 資料では、1920年当時、石垣村長だった豊川善佐宛ての感謝状なども存在したことになっている。文化財指定に向け、玉津氏は再捜索を職員に指示。「(歴史研究家の)牧野清氏らが探しても出てこなかったが『あってほしい』という思いだった。職員からは、わがままだと思われたことだろう」と振り返る。


 職員が豊川家を訪れ、再捜索したところ、善佐が残した古ぼけた箱の中から、感謝状が和紙に巻かれた状態で見つかった。ほかの巻き物と混ざった状態だったため、見つからなかったらしい。玉津氏は「奇跡的発見」と振り返り、子孫の豊川敏彦さんは「あれだけ探してもなかったのに」と驚いていたという。現存している感謝状が多ければ多いほど、歴史資料としての説得力も増すと見られる。


 残る5通のうち1通は、尖閣諸島の開拓者、古賀辰四郎の子息である善治氏が72年の雑誌インタビューで「保存している」と語っていたが、その後の消息は分かっていない。台湾出身の通訳だったと見られる人物に宛てた感謝状も存在したが、子息は「引っ越しの際に紛失した」と明言している。その他の2通については、宛て先も分かっていない。


 現存する2通が文化財に指定された当初は「中国や台湾が反発するのでは」という懸念の声もあった。しかし両国は感謝状の文化財指定について一切論評せず「黙殺」の姿勢を貫いている。玉津氏は「自分たちが出した公文書は否定できないので、あえて無視する戦略だろう」と見る。


 中国の反論を封じる有力な「証拠」となりそうなだけに、国会でも政府に対し、感謝状の存在を国際的にアピールするべきだと求める声が出始めている。玉津氏は「尖閣諸島が沖縄県石垣市の行政区域であり、日本の領土であることを証明する貴重な文書だ。歴史的価値が高く、県指定、国指定の文化財に値する」と改めて強調した。


【尖閣列島遭難救護の感謝状】 1919年、中国の漁民が遭難し、尖閣諸島の魚釣島にあったかつお節工場の従業員らに救助された。翌年、中華民国駐長崎領事は、当時の石垣村長ら7人に宛てた「感謝状」を送付。文面には「日本帝國沖縄縣八重山郡尖閣列島」と明記されており、中国が尖閣諸島を日本領と認めていたことが分かる。



author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 09:08
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中国からの脅威に対応するのですか、しないのですか?!

以下は昨年9月25日と7月20日の記事である。
これが現実の日本であるかと思うと本当にやるせない。

中国は何も変わっていない。
一貫して尖閣を狙い続けてきた。

今は11月20日、沖縄の意志が変わるか否かは日本全体に大きく影響するだろう。
中国の現実を見ても沖縄はそれでも現実を認めないのか。
日本が防衛力を持たなければ中国は沖縄に手をつけないとこれからも主張し続けるのか。
その変化、無変化に注目したい。



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陸自与那国配備を否定「隣国刺激する」 防衛相きょう来県
政治  2009年9月25日 10時11分      
 
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2009-09-25_3967/
 

 【東京】北沢俊美防衛相は24日、沖縄タイムスなど報道各社のインタビューに応じ、陸上自衛隊の与那国島への部隊配備の必要性について「いたずらに隣国を刺激する施策はいかがなものか。今、緊急にそういうことをする情勢にはない」と述べ、否定的な見解を明らかにした。本年度補正予算で米軍嘉手納基地周辺の住宅防音工事を含む「基地対策費」を執行停止とすることには「(周辺住民は)予算の制約の中で我慢している実情がある」とし、対象から外す意向を示唆した。

 与那国島への部隊配備については、浜田靖一前防衛相が「南西諸島の防衛の在り方も重要な一環として検討している」として前向きな姿勢を表明。島内外で賛否両論が出ていた。

 北沢防衛相は25日から就任後初めて沖縄を訪問する。仲井真弘多知事と面談し、普天間飛行場移設を含む在日米軍再編問題の見直しなどについて話し合うほか、島袋吉和名護市長ら北部市町村長とも会い、意見交換する。27日に帰京する。

 普天間飛行場やキャンプ・シュワブ沿岸部の代替施設建設予定地、2004年に米軍ヘリが墜落した沖縄国際大学も視察。嘉手納基地周辺の3市町でつくる三連協の首長とも面談する。

 普天間飛行場の移設問題に関しては「日米両政府で合意した重い事実がある一方で民主党が国民の支持を得て新政権ができた」と指摘。「(日米合意案と)県外・国外移設との間でどういう落とし所を見つければいいか。まずは沖縄に行きたい」と述べ、県民の意向を重視する姿勢を強調。普天間関連予算の執行停止については「防衛省の一大臣がすべて決められない。閣内で十分協議したい」と述べるにとどめた。

 日米地位協定改定に関しては「簡単ではないが、国民感情による話でもあり、内閣できちんとやらないといけない」として、身柄引き渡しをめぐる刑事裁判権の条項も協議すれば米国の理解を得られるとの考えを表明した。


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宮古・石垣に国境警備隊 陸自配備 与那国にも
防衛省検討 5〜8年後
政治  2010年7月20日 09時32分      
 
http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-07-20_8240/

 沖縄県の先島諸島周辺での中国海軍の活発な活動などを踏まえ、防衛省が宮古島や石垣島に陸上自衛隊の国境警備部隊(数百人)を、与那国島に陸自の沿岸監視部隊(約100人)を、5〜8年後をめどに段階的に配備する方向で検討していることが19日、複数の同省幹部の話で分かった。

 沖縄本島以西は自衛隊がほとんど配備されていないため、国境に近い先島諸島の防衛と周辺海域の監視強化が狙いだが、近接する尖閣諸島(石垣市)の領有権を主張する中国や台湾が反発を強めるのは必至だ。

 北沢俊美防衛相は、先島諸島への陸自配備に向けて2011年度予算案に調査費を計上する考えを既に表明。同省は11年度からの新たな防衛計画の大綱と中期防衛力整備計画で島しょ防衛強化を打ち出し、「災害対処」や「警戒監視」などの名目で配備の必要性を書き込む方針。今後、具体的な記述を調整する。

 同省幹部によると、宮古島や石垣島に配備を検討しているのは、長崎県対馬市の陸自対馬警備隊(約300人)のような国境警備部隊。対馬警備隊は沿岸監視や武装ゲリラ侵攻への初動対処などを主な任務としている。

 一方、日本最西端の与那国島には、北海道稚内市の陸自第301沿岸監視隊(約100人)をモデルにした部隊の配備を想定。同隊は軽武装でレーダーや通信傍受機器などを使い、ロシア・サハリンとの間の宗谷海峡を航行する艦艇の監視にあたっており、日本海の礼文島に派遣隊がある。

 同省は、近隣諸国の反応なども念頭に、まず軽武装の沿岸監視部隊を与那国島に、その後、普通科(歩兵)を中心とする国境警備部隊を宮古島や石垣島に段階的に配備する方向で検討している。

 先島諸島の防衛をめぐっては、現行の防衛大綱の策定過程で、防衛庁(当時)が03年、中国と台湾の軍事紛争への対処方針を検討。日米の台湾支援阻止を狙う中国軍による与那国、宮古、石垣の3島への限定侵攻を想定し、陸自約7200人の3島への事前配置などを決めたとされる。

 与那国島への陸自配備は、昨年7月、浜田靖一前防衛相が検討を表明。政権交代後、当初は慎重だった北沢防衛相がその後、積極姿勢に転じた。

県は説明受けず

 県の又吉進知事公室長は「具体的に政府から説明を受けていないので評価のしようがない」と困惑した。その上で、「政府は地元の県と市町村の理解が必要で十分に説明するべきだ。住民の理解なしにはこういうことは進められないのではないか」との認識を示した。



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 「紛争の種」「守り必要」 陸自配備に先島の住民
市長は賛否保留
2010年7月20日 09時22分      

http://www.okinawatimes.co.jp/article/2010-07-20_8244/


 【宮古・八重山】防衛省が宮古島や石垣島に陸上自衛隊の国境警備部隊、与那国島には陸自の沿岸監視部隊をそれぞれ段階的に配備していく計画を検討していることが明らかになったことに対し、3島の関係者の間に波紋が広がった。関係者からは「近隣の中国や台湾に緊張関係を生み、逆に紛争を引き起こす要因となる」と配備計画に強く反対する声が上がる一方で、「先島の国防体制の構築に向けて必要」と容認する声もあった。

先島圏域への自衛隊配備や下地島空港の軍事利用反対を訴える、みやこ九条の会の星野勉代表世話人は「部隊配備は近隣諸国との緊張関係をもたらし、住民の生活を不安におとしめる。紛争を引き起こすきっかけになっても、平和を構築することには絶対にならない」と強く批判した。

 一方、これまで陸自の宮古島への配備を主張してきた宮古島商工会議所の中尾英筰会頭は、個人的見解と前置きした上で「自衛隊による急患輸送ヘリでの人命救助や不発弾処理の迅速化に加え、北朝鮮や中国の動向もある。先島での国防体制構築に向け配備は必要ではないか」と述べた。

 下地敏彦宮古島市長は「非公式でもこちらに話はないのでコメントできない」とした。

 「平和憲法を守る八重山連絡協議会」の仲山忠亨会長は「歴史的に中国が日本を攻めてきたことはないが、日本はたびたび侵略した。本来ならそれをわびて、友好関係を保持していくのが政府としての外交のあり方ではないか。石垣市民は平和な『日本最南端の自然文化都市』を目指して都市づくりに励んでいるのに、自衛隊が配備されれば逆方向へ向かってしまう」と懸念を示した。

 石垣市の中山義隆市長は「先島防衛については、国の専権事項としてしっかりやってほしいが、現時点では賛成でも反対でもない。正式な要請があった時点で考えたい」と述べた。

 与那国花蓮県交流発展協会の田里千代基専務理事は、与那国島への陸自配備で中国や台湾の緊張感が高まることに懸念を示し「海の安全を監視するのであれば、海上保安庁の基地を持ってくればよい。民間交流ができれば『脅威』は発生しない。民間の交流における安全保障体制づくりを進めたい」と話した。

 

 

author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 14:35
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全面的に日本を摧滅し・・・初めて平和を勝ち取ることができる

 戦争はまさにわれわれに向かってきている
http://www6.plala.or.jp/GEKI/geki/2/080909sensou.html


戦争はまさにわれわれに向かってきている
                          遅浩田 2005
 
 

同志たち。
 この題目を書く心情は極めて重い。中国現代化の進程はしばしば外部勢力の打撃と直接の侵略によって中断に遭って来ているからである。最も典型的なものは1927―37年のいわゆる「黄金十年」である。いわゆる「黄金十年」は現代の目から見れば、少しも黄金ではない。この中には1931年の東北の淪陥があり、冀東傀儡政権の成立がある。ただ相対的に言えば、1927―37年の中国経済の発展の速度はかなり速く、基礎設備の建設は相当に進展し、軍隊の建設もまた起色があり、中国は一点の希望があらわれた。だがこれは日本が容認できないものである。東三省を侵呑してまだ足りず、待ちきれなくて全面的な中国侵略戦争を発動した。中国はやむなく焦土抗戦政策をもって苦戦八年した。中国は惨勝はしたが外モンゴルを失い、息も絶え絶え、財産の損失は6000億ドル以上、八年の戦争の破壊を経て、もともと貧弱な中国はさらに一空二白となった。日本の侵略特に全面的中国侵略は戦争は大々的に中国の現代化の進呈を引き延ばしたといえる。
 中国の発展を許さない、中国の現代化の進呈を阻害する事は、一貫して列強得に日本の終始変わらない国策である。われわれはこのことに対して最も痛切な歴史の教訓を持つべきである。国と国との間に合作はある。ただしいっそう本質的なものは競争、衝突と衝突の最も極端な形式――戦争――である。合作は一時的、条件的であり、競争と衝突は絶対的であり、歴史の主軸である。これにより、いわゆる平和と発展を現代の主題にするという言い方は完全に誤っている。(いくら大きく見積もってただ権宜の計とできるだけである) この種の言い方はなんの検討に耐えうる理論的根拠がないのはもとより、さらに事実にも歴史の教訓にも符合しない。中日両国のこのような地理上、歴史上の死敵であることは言うまでもなく、例え60年代の中ソ分裂であっても、やはりいかなる国家も全て国家利益の追求を唯一の行動の準則としていて、道徳のためにいかなる隙間も残していないことを説明できる。当時中ソは共同のイデオロギー形態があり、共同の敵に向かい、かつ中国の低い科学技術水準は中国をソ連に対して脅威を形成することを不可能にしてていた。だが中ソはやはり分裂し、進んで尖鋭な対立に向かった。その原因きっかけは極めて多い、ただし一つ根本的な原因は、ソ連が日増しに発展し、日増しに強大になる中国を見ること、そしてそれが肩を並べて立つことを願わないことである。それはわずかにこの種の趨勢があるだけで、現実とははるかに遠いとしてもやはりダメである。もし共同のイデオロギー、共同の敵があり、一強一弱の中ソであっても分裂するならば、それではいわゆる平和と発展を現代のテーマとするおまじないの主導下の中国の政策と戦略、および外交の虚妄性、脆弱性、危険性は充分に明白である。それゆえ平和と発展を現在のテーマとする言い方は完全に誤っている。片思いを懸けて、役に立つのか。有害な学説の役割である、原因は以下の通り。


一、 列強の中国の現代化の進程を打撃することは一貫した国策である。
 中国近代の歴史の経験、教訓、そして中華人民共和国50年来の歴史と教訓から、このような一つの歴史の法則を得ることができる。列強が中国の現代化の進呈を打撃する(全面的な戦争を含む)ことはその一貫した政策である。これまでの160年がこの通りであったし、今後の160年も依然としてこの通りである。(引用者注 帝国主義がそれほど延命できるとは思えないが)

二、 発展はつまり危険と脅威を意味する。「戦争権」がなければ発展権はない。
 発展はつまり危険、脅威を意味する。これは世界の歴史の通則である。ただ、中国の歴史上にだけ例外がある。例えば大漢王朝は当時の地理的極限の中で全ての相手を打ち破った後、「門を閉じて」発展でき、ならびに進んで「天下主義」を発生した。人口、軍事、経済、文化いかなる方面から比較するかにかかわりなく、いかなる族群も大漢族と肩を並べることができない。いかなる族群にもこのような大漢族と肩を並べる潜在的質を見ることができない。
 戦国時代には、一国の発展はすなわち他の国の脅威を意味し、これこそが世界の歴史上の通則である。また西方外交の核心と基石である。西方外交の鼻祖はフランスの紅衣主教リシュリューである。まさにかれが最初に外交領域で中世期の「蒙昧」から抜け出し、現代外交――いかなる道徳と宗教の束縛をも放棄し、一切を国家利益を軸心としてまわす――を作り出したのである。彼が制定した外交政策はフランスに200余年の利益をもたらし、ヨーロッパを主導した。そして彼が画策した30年戦争はドイツの人々に塗炭させ、諸邦小国に分裂し、永遠の動蕩のなかに置いた。ビスマルクがドイツを統一するまで。そしてドイツの統一の進呈は、ビスマルクの「戦争権」がなければ国家の統一はなく、さらに発展権もないことを明らかにしている。

三、 軍刀のもとの現代化は、中国の唯一の選択である。
 中国脅威論は完全に正しい。これはまさに典型的な西方の思想である。「我が方は門を閉ざして経済を発展する、誰が誰を惹起するのか」、この種の中国式思考方式は愚蠢であるだけでなく、また「国際的に通用しない」。戦国時代、国家利益と言うこの残忍な領域は、いかなる温情も入れることができない。誰であれ一糸一毫の幻想を抱こうとすれば、全て必ず大歴史の残酷な懲罰にあっている。中国の発展は日本等に対して当然にも脅威である。中国自身はこのように見ないこともできる。ただし中国は日本等の列強にこの種のすでに「国際的に通用する」深く根を張った思考を改変させることはほとんど不可能である。それゆえわれわれの思考の基点は、中国の発展は日本等に対する脅威である、であるべきであり、またでなければならない。
 「理」にもとずいて言えば、全ての国家、民族はみな生存権、発展権がある。もし中国の経済が発展すれば石油を輸入しなければならない。生態を保護するために中国は山を封じ林を育てる。そうすれば木材等の原材料を輸入しなければならない。これは当然なことである。「理」の当然である。ただし列強は列強の「理」がある。中国のような、このように大きなものが、2010年に石油の買い入れが一億トンに達し、2020年に買い入れ二億トンに達する、列強は容認できるか。
 基礎的な生存資源(土地、海洋を含む)を争奪することは、歴史上の絶大多数の戦争の根源である。この情報化した時代には必ず変化があるが、ただし本質的な変化はありえない。発達、先進、文明の、たとえばイスラエルは不毛な地方のために(水源の争奪を含む)アラブ、パレスチナと50年戦い、まだ一日も休むことなく闘っていないか。さらにきわめて正当な発達権を勝ち取るために(中国人が永遠に貧困に安んじ、発展ですら放棄するのでなければ)、中国は戦争を準備しなければならない。これはわれわれが決定したものではなく、さらにわれわれの中のいくらかのいくらかの善良な人士の善良な願望が決定したものでもない。事実上これは「国際的慣例」と列強が決めたものである。中国の20年の平和と発展の政策はすでに終わりに来ている。国際環境はすでに質的変化が生まれている。すなわち列強はもう一度中国の現代化の進程を断ち切る準備をしている。中国が発展しようとすれば、自己の発展権を維持しようとすれば、戦争を準備しなければならない。戦争を準備して初めて発展の時間と空間を勝ち取ることができる。20年来の平和的牧歌的な発展はすでに終わった。次に上演する演目はこれだ、「軍刀下の現代化」、これでしかありえない。

 四、(大)外交が内政を決定する。
 例え中国で現在最も好戦的なタカ派であったとしてもまた必ずしも現在すぐ戦争することは主張しない。われわれには十分な十足な理由、例えば国家統一の戦い、例えば南海の権益を擁護する目的はあるが。だが、この種の発展権も日増しに脅威を受けている時期、やはりまさにわれわれは武器を取って、中国人の発展の権利を守るときである。
 内政が外交を決定する。これは間違っていない。ただしこの戦国時代、(大)外交もまた内政を決定する。これは理論上の説明であるだけでなく、さらに中華人民共和国の歴史の経験の述べるところである。70年代の中国の国防支出は科学、教育、文化、衛生支出の総額を越えている(人民の生活が比較的貧困であったために)。わたしは当然今日の中国の軍事支出が科、教、文、衛支出の総額を越えることを希望しない。事実上中国が最も必要としている投資は教育である。だが列強は許すのか。どうして毛沢東はもっと多くの銭を科、教、文、衛に投入しようと思わなかったのか。ある人は言う、いわゆるソ連の公開された文件にもとづいて、60,70年代ソ連は全面的に中国に侵入する計画はなかったと。例えこれらの公開された文件が正しいとしても、やはり「歴史の真実」を説明することはできない。対局は全て互いに動くものである。毛沢東の領導下の中国が最も十分な精神的、物質的準備をしていなければ、ソ連の全面的な中国侵略の危険と成本はきわめて大きく増加し、歴史はまた完全にもう一つの方向へ転換しただろう。軟弱なものはただ侵略を招き寄せるだけである。この角度から言えば、毛沢東こそが真の平和の防衛者である。

五、 善を求めて悪を得る、中国は今後十年平和にできるのか。
 中国の現代化の進程を断ち切り、中国人の発展権を剥奪することに、列強は極めて多くの手段を持っている。最も明白な三枚の「切り札」は「三島」である。その内また台湾カードが最も有効である。台湾海峡の戦いがいつ爆発するか、決定権はすでにわれわれの手の中にない。また台独分子の手中にもない。米日の手中にある。もし台湾海峡の戦いが爆発すれば、それはわずかに統一の戦いではなく、いっそう深層は米日が中国人の発展権を剥奪し、もう一回中国の現代化の進程を断ち切ることを決心するものである。まさしく歴史上の甲午の戦いのように、日本の全面的な中国侵略は、地を割き賠償を取るだけではなく、いっそう本質的なものは、日本が中国の現代化の進程を断ち切り、中国人の発展権を剥奪したことと同様である。
 善を求めて悪を得る、これはわれわれの当面の政策の最終的な結果である。悪を求めて善を得る、全面的に日本を摧滅し、アメリカを残廃にまで打ちのめす能力を擁有して初めて平和を勝ち取ることができる。そうしなければ台湾問題を10年引きずりきれない。10年内に必ず大戦がある。

六、 覇権は大国の存在の本質的な特徴である。
 大国とは何か。覇権があれば大国である。覇権がなければ人の分割するに任せ、運命(発展権を含む)を人に支配される木偶である。覇権はこの戦国時代では客観的存在である。「人の意志によって変えることのできないものである」。問題はただきみが意識しているかどうかである。主導的に追求するか、それとも向こうが接近してくるか。中国の一切の問題は、三島問題を含めて、戦略産業発展の問題、国内各階層の利益の調整の問題、は全て最終的に中華民族が覇権を戦いとる問題である。
 覇権を争わんとすれば、内闘已まざるあたわず、内部は安定団結しなければならない。イギリスは海外植民地の巨大な利益によって早々に「労働者階級の貴族化」を実現した。日本が中国から掠め取った巨額の賠償と市場は、上層に有利であるだけでなく、日本の下層にも巨大な利益を得させた。時代は変わった、国情もまた同じではない。ただし実質は変わっていない。われわれは覇権の視角から軍事、外交問題を見なければならないだけでなく、覇権の視角から内部の階層、階級利益の調整問題を見なければならない。ただ本国下層を圧迫して搾取するだけにたよる上層エリート階級は、この戦国時代にあっては民族の利益を代表できない。彼らは腐敗した、没落した、利益を生まないものであり、制限され、消滅されなければならない。智慧のある上層だけがはじめて民族の利益を代表できる。すなわち対内的には「譲歩政策」を実行し、下層を領導して共同で海外の利益を獲得するのである。(この問題は比較的複雑である。以後また詳しく述べる。中国は巨大な海外利益を持っている、ただわれわれがまだ積極的主導的に開発していない。)

author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 00:03
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巡視艇の乗員が落ちたのを中国の漁船の船員が銛で突いた??
先の海上保安庁の巡視艇に対し中国漁船が体当たりした問題について石原都知事がテレビ番組で

政府の関係者からね、「仄聞ですが」って聞きましたが、日本の巡視艇の乗員が落ちたのを、中国の漁船、銛で突いてるんだって。それはねぇ、仄聞ですがっつったけど数人の人から聞いた。それはねぇ、やっぱりその実態ってのを私達は知る必要があるし、公開すべきだと思うし、それがやっぱりこの問題に対しての正当な日本人の世論ってのを作っていくと思いますよ。

この発言の番組がyoutubeにありました。
http://www.youtube.com/watch?v=Q1p1JeHzimw

政府はこれに対して何も発言していません。「違う」とも言っていません。
ということはそれが本当であるか、
政府の人間でない者の話なんぞに一々反応する必要はないということか、のいずれかです。

事実と違うならば、こういう話が一人歩きすることは危険であり、
直ちに事実でないことを国民に知らせ、石原都知事には厳重に警告を発すべきです。

事実ならばこれは権力の情報操作であり、民主主義の破壊と言って良い。

自民党政府といい、民主党政府と言い、日本の政党は口とは違い実はちっとも国民を信じていない。それはマスコミも全く一緒である。

民主主義は卑怯者や弱者のものではない。
従って如何なる情報も国民に伝え、そのことで国民の心を鍛錬し、強い意志と広い見識を養うことを真っ先に考えなければならないのです。

国民を信じずしてどうしますか。
そうでなければ民主主義は正常に機能しない。
だからこそ言論の自由は確保されなくてはならないのです。

この政府の怠慢、或いは情報操作、どちらか分かりませんが、その事実は暴かれ責任が追及されるべきです。
どちらにしても、政府の無様さは見ておられません。
author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 23:32
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八重山でカツオ節製造のためのカツオ漁業
八重山写真帖ダイジェスト1
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/syasincyo/digest.htm


 八重山でカツオ節製造のためのカツオ漁業が始まったのは、明治三〇年代の終わり頃とみられる。沖縄本島から来た糸満漁師が始め、後に宮崎県のカツオ業者もやってきた。石垣島四カ村(登野城・大川・石垣・新川)西方の真喜良一帯をはじめ、与那国、波照間、鳩間、小浜および尖閣諸島を基地に漁が行なわれた。カツオ漁は、五月から九月中旬頃までで、漁場は平久保沖、屋良部沖、白保沖、波照間沖、尖閣沖などであった。 新聞記事によると、明治四〇年(一九〇七)のカツオ船は一二隻にすぎなかったが、大正三年(一九一四)には二〇隻となり、大正一三年(一九二四)には六〇隻にまで達している。カツオ節の移・輸出高も県全体の四分の一を占め、島の経済にも大きく寄与した。 昭和期になると、不況の影響や「南洋節」が出回るようになり、次第に不振となったが、太平洋戦争後は一時持ち直し、三三隻ほどの漁船が操業していた。それも昭和六〇年(一九八五)頃を境に下火になった。 カツオ漁は一隻に数十人が乗り込み、工場では多くの女性が働いた。そうした工場が戦後まで真喜良一帯に十数軒並んでいた。古賀辰四郎が開拓した尖閣諸島の魚釣島には、古賀村ができた。戦後の食糧難時代にはカツーヤー(カツオ節製造工場)で処分されたカツオの頭が、人びとの食卓を潤した時代もあった。大漁旗を揚げ、夕陽を背に帰るカツオ船の雄姿は、久しく島の風物詩でもあった。(文・三木健) 





金栄丸でのカツオ漁風景
金栄丸でのカツオ漁風景 
〔昭和13年〈1938〉6月1日。与那国島付近〕
写真提供・河村望

この写真を見て思い出した記事があった。
 「鰹節製造の為の鰹漁が開始されたのは1905 年頃である。それまでは糸満漁夫による延縄漁が小規模に営まれていた。「褒章資料」によると1905 年、古賀は内地に於いて鰹船3 隻を建造、宮崎県より熟練の鰹漁夫及節製造者数十人を雇入れ尖閣諸島での操業及鰹節製造を試みた。」結果は良好であったが、その年沖縄を襲った暴風で鰹船3 隻は破壊された。 翌1906(明治39)年、古賀は新たに鰹船5 隻を新造、「爾来一層ノ好成績ヲ収メツゝアリ」と述べている。

写真の昭和13年頃は沖縄の住民が一本釣りの鰹漁をしていたてものであろう。


 カツオ節をつくる婦人
カツオ節をつくる婦人 
〔昭和13年〈1938〉頃。鳩間島〕
写真提供・河村望

上の写真についてもこういう記事が思い出す。

 鰹節製造人は前述の通り、宮崎県から雇入れられたが、その後土佐節を製するにあたって1908年頃から四国方面の節削り女工に切り替わったようである。

それぞれ一枚の写真にも様々な歴史があるものだ。


引用は以下のものである。


http://npil.canpan.info/report_download.html?report_id=11376

検ノ療敲堝と古賀辰四郎、領有後の尖閣諸島における漁業(上)
無人島開拓認可〜藍綬褒章授与

−略−

・鰹漁と鰹節の製造
 鰹節製造の為の鰹漁が開始されたのは1905 年頃である。それまでは糸満漁夫による延縄漁が小規模に営まれていた。「褒章資料」によると1905 年、古賀は内地に於いて鰹船3 隻を建造、宮崎県より熟練の鰹漁夫及節製造者数十人を雇入れ尖閣諸島での操業及鰹節製造を試みた。結果は良好であったが、その年沖縄を襲った暴風で鰹船3 隻は破壊された。 翌1906(明治39)年、古賀は新たに鰹船5 隻を新造、「爾来一層ノ好成績ヲ収メツゝアリ」と述べている。

−略−

 鰹節製造人は前述の通り、宮崎県から雇入れられたが、その後土佐節を製するにあたって1908年頃から四国方面の節削り女工に切り替わったようである。
 「―第一漁夫等の此の島に在る員數は大凡百人にも近かるべし。鰹節製造人も又た其の外にあり。四國方面より雇入れたる節削(フシケズリ)の技術婦もあり。―」(「尖閣列島と古賀辰四郎氏6:漏渓」1908.06/21 より)。
 「―縣下の製造鎧佞和燭宮崎から来て居ます。初め鹿児島から雇ふた人達は、薩摩節を造り居ました。古賀様の如きは高知から雇ふて來たから高知節が出來た。―」(「沖縄教育第53 号:沖縄縣水産一班:大村八十八」1910.9 月より)
 1910 年09/27 付同紙記事「本県と鰹節(続):勝男武士」では、沖縄各地の鰹節の産地:尖閣列島、として同島産の鰹節は、主産地(高知県からだろか)より職人を雇い入れているため、形状や品質が甚だ宜しいと、かなり高く評価している。

−略−

鰹漁場としての尖閣諸島の有望性について、「褒章資料」では「―同列島ニ於ケル鰹漁ノ有望ナルコト第一ハ食餌ノ潤沢ナルト鰹ノ魚群ガ極メテ近岸ニマテ来集スルニヨリ必スシモ遠洋ニ出漁スルノ要ナキ等孰モ天与ノ好適地ナル―」と記している。他、1908 年に掲載された琉球新報連載記事「尖閣列島と古賀辰四郎氏(1)-(11)」で、著者の漏渓(宮田倉太※19)は久場島から魚釣島へと魚道(黒潮だろうか)が続くさまを目撃した旨を記し、またその魚道は和平山(魚釣島)から僅か十数町(約1.5〜2.0km)ほどしか離れていない為、尖閣諸島での操業は日に4 度の出漁が可能であり、「―列島中鰹の大漁に際しては一日六、七千尾以上一萬近かくの鰹魚の釣り上げらることもありと云ふ―」と述べている。
 漁場として有望な点をまとめると「沿岸には餌料が豊富なこと」、「漁場が根拠地から大変近いこと」。この2 点により、1 日に数度の出漁が可能である。これが当時尖閣諸島漁場の利点であったと考えられる。当時古賀以外の漁業者は鰹漁場としての同諸島をいかに捉えていたのか、判断できる資料は明らかでないが、1910 年にはこの時期、県の水産技手から鰹漁業者に転進した玉城五郎(※20)が尖閣列島久場島(魚釣島だと思われる)で鰹漁を試み16,495 尾の大漁を記録している(同年10/06 付沖縄毎日新聞記事「鰹の大漁」)。
 当時の尖閣諸島近海が鰹の好漁場であったことは確かであろう。が、東シナ海洋上の孤島という地理的条件を考えるに、古賀や前述の玉城の様に尖閣諸島を根拠地として操業し、同島で節を製造するという前提が必要である。石垣島や与那国島から出漁するには動力の問題(1910 年頃はまだ発動機付船が少ない)、保存の問題(八重山に製氷所が設置されるのは1928 年頃)といった技術的な問題が大きな壁となるため一部の漁業者だけが操業可能だったと推察する。

−略−
author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 23:00
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“尖閣の領有権 米は中立”
http://www3.nhk.or.jp/news/k10014470661000.html

“尖閣の領有権 米は中立”
2月28日20時22分

中国を訪れているアメリカ国防総省の高官は、28日、記者団に対し、日中双方が主権を主張する尖閣諸島の領有権問題について「アメリカは、いかなる立場も取らない」と述べて中立の立場を示し、双方が平和裏に解決するよう促しました。

尖閣諸島をめぐっては、麻生総理大臣が26日の衆議院予算委員会で、「日本の領土である以上、日米の安保条約の対象になる」と述べたのに対し、中国側は「中国固有の領土だ」として、強い不満を表明しました。これに関連して、アメリカ国防総省のセドニー次官補代理は、28日、北京で記者団の質問に答え、「尖閣諸島の最終的な主権の問題について、アメリカはいかなる立場も取らない。これはアメリカの一貫した立場だ」と述べ、中立の立場を示しました。そのうえで「この問題を平和的な手段で解決することを希望する」と述べ、日中双方が平和裏に解決するよう促しました。尖閣諸島の問題をめぐっては、5年前、アメリカ国務省の報道官が、領有権の問題では中立の立場を保つとしながらも、「尖閣諸島は、日本の施政のもとにあり、日米安全保障条約が適用される」と述べています。しかし、セドニー次官補代理は、日米の安保条約が適用されるのかどうかについては明確に答えず、この問題で敏感になっている中国側に配慮を示した形です。

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【解説】 下の参考記事を見てもらうと解るが、支那(中国)には「領土問題には関与しない」と伝え、日本・台湾には「尖閣諸島は日米安全保障条約の範囲内」と発言している。つまり米国は二枚舌を使っているが、順番をおうと、オバマ政権の意志は「日本の領有権は認めない」ということになる。つまり米国は支那(=中国)と妥協したのである。このことをどう考えるべきか。

アメリカは日本を捨て、支那(=中国)を選択した

のである。そのことが何を意味するか。

アメリカは、「東シナ海は支那(=中国)のものだ」と認めたか、少なくとも「東シナ海は自国の支配地域とする支那(=中国)の意志に反対をしない」と発言したのである。日本はこの発言をそう受けとめねば尖閣諸島は守れなくなったことを意味する。

そして、その先にあるのは「米軍は沖縄から手を引く場合がある。その時は支那(=中国)が沖縄に手を出しても関与しない」という意味すら感じ取らねばならないのである。

どうだ!!この無様さは!!余りに見事ではないか!!

これが自らの領土は血を流しても絶対に自分の手で守るという意志をもたなかった戦後政治の結末である。よく言えば「夷(アメリカ)を以て夷(支那)を制す」、悪く言えば「他人におんぶにだっこ」の自民党政策の過ちである。

「もう間に合わない」かも知れない。併し「まだ間に合う」と信じよう。今は、大きく開いた毒蛇の牙の中に日本という「瘠せ蛙」がいる状況である。その透明な毒液は既に蛙の体に降り注いだが、毒を拭き取る時間はない。先ず動いてその場から逃れることだ。

先ず「事なかれ主義を捨て」て行動すること。はっきりと支那(=中国)は東シナ海を全て領有する意志であり、その中に尖閣諸島は含まれている。そして大洋国家を目指す支那(=中国)は沖縄も視野に入れていることを覚悟した行動をすべきである。

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《関連記事》
始まりは国会から


<1>尖閣侵攻なら安保条約発動=首相が訪米報告、質疑−衆院予算委

http://www.jiji.com/jc/zc?k=200902/2009022600059&rel=j&g=pol

 衆院予算委員会は26日午前、外交と国際関係に関する集中審議を行った。麻生太郎首相は、尖閣諸島が第3国に侵攻された場合の対応について「尖閣は日本固有の領土である以上、日米安全保障条約の対象になる」と述べ、同条約が発動されるとの認識を明らかにした。民主党の前原誠司副代表が、領有権を主張する中国が周辺海域での活動を活発化させている状況を指摘し、見解をただしたのに答えた。 

 また、前原氏が「米側に確認してほしい」と求めると、首相は「この問題だけを取り上げて日米間で直接話し合った記憶はないが、近々に再確認する意味で話をしたい」と述べた。

 質疑に先立ち、首相は24日にワシントンで行ったオバマ米大統領との初の首脳会談について「日米同盟は日本外交の要であると同時に、米国外交の礎でもあることを実感した。大統領は北朝鮮の拉致問題についてよく理解しているとの印象を受けた」などと報告した。(了)
(2009/02/26-12:31)


<2>尖閣めぐる首相発言に抗議=中国
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200902/2009022600965&rel=j&g=pol

 【北京26日時事】中国外務省は26日、麻生太郎首相が同日の衆院予算委員会で、尖閣諸島(中国名・釣魚島)が第三国に侵攻された場合、「尖閣は日本固有の領土である以上、日米安全保障条約の対象となる」と発言したことに「強い不満を表明し、厳正に抗議した」とする談話を発表した。
 談話は「釣魚島と付属の島は中国固有の領土。その事実を変えようとする日本側の言動は、すべて無駄だ」と強調した。
 その上で「釣魚島の主権帰属は中日双方で論争のある問題で、中国側は交渉を通じ適切に解決するよう主張してきた」と指摘。日本側に対し「問題の敏感性を認識し、中日関係安定の大局を考え、言動を慎むべきだ」と批判した。(了)(2009/02/26-20:56)



<3>麻生首相の尖閣関連発言に抗議=台湾
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200902/2009022701058&rel=j&g=pol

 【台北27日時事】台湾外交部(外務省)は27日、麻生太郎首相が26日の衆院予算委員会で、尖閣諸島(中国名・釣魚島)を「日本固有の領土」などとした発言について、「釣魚島はわが国固有の領土であり、平和的、理性的な紛争の解決を主張する」とする声明を発表した。同時に、大使館に当たる台北駐日経済文化代表処を通じ、日本側に抗議すると表明した。(了)
(2009/02/27-20:59)



<4>尖閣発言、「受け入れられない」=28日訪中の外相見解−中国
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200902/2009022701145&rel=j&g=pol

 【北京27日時事】中国外務省は27日、中曽根弘文外相が同日の会見で、中国などが領有権を主張する尖閣諸島(中国名・釣魚島)が侵攻された場合、日米安全保障条約が適用されるとオバマ米政権も認識していると発言したことに、「中国国民は絶対に受け入れられない」と強く反発する談話を発表した。
 中曽根外相は28日に訪中、楊潔※(※=タケカンムリに褫のつくり)外相と会談するが、中国側は尖閣問題で厳しい姿勢を示すことになりそうだ。
 中国外務省は26日にも、尖閣諸島の領有権を主張した麻生太郎首相の国会答弁に不満を表明。中国メディアも同省のコメントを大きく取り上げた。今回の談話は「日米安保条約は2国間の約束で、中国を含む第三者の利益を損ねてはならない」と指摘している。(了)
(2009/02/27-23:16)



<5>尖閣、「日米安保の範囲内」=米窓口機関が見解−台湾・中央通信
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&rel=j7&k=2009022800339

尖閣、「日米安保の範囲内」=米窓口機関が見解−台湾・中央通信
 【台北28日時事】台湾の中央通信が28日伝えたところによると、米国の対台湾窓口機関、米国在台湾協会台北事務所は、日本と中国、台湾が領有権を主張する尖閣諸島(中国名・釣魚島)について、「日米安全保障条約の範囲内にある」との見解を示した。同事務所のスポークスマンが同日、中央通信のインタビューで語った。 
 麻生太郎首相が先に「尖閣は日本固有の領土である以上、日米安保条約の対象になる」と述べたことに対する見解。スポークスマンは領有権について「米国はいかなる態度も取らない」としたが、「尖閣諸島と沖縄は1972年から日本政府の行政管理下にある」として、日米安保の適用範囲であるとの認識を示した。(了)
(2009/02/28-20:23)
author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 13:03
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平成20年9月の国籍不明潜水艦による豊後水道領海侵犯事件
 平成20年9月14日、国籍不明潜水艦が潜望鏡をあげて豊後水道を通過、領海侵犯したが、内海と言うべき豊後水道への領海侵犯事件に対する日本政府の対応は理解しがたい。専守防衛とは名ばかりであり実体は無為無策であることが手を透かすように見えている。日本のシビリアンコントロールとは政府の怠慢と無能を隠す擁護である。領土とは何か、防衛とは何か、国家とは何か、政治とは何かを見直す必要が出てきた。


平成20年9月14日午後4時21分
豊後水道領海侵犯 国籍不明潜水艦  MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080914/crm0809141629015-n1.htmhttp://nnl.jugem.jp/?eid=1526


平成20年9月15日午前1時12分
潜水艦が領海侵犯か 海自イージス艦が発見 高知沖 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080914/plc0809142011002-n1.htm
http://nnl.jugem.jp/?eid=1527


平成20年9月16日午後0時29分
国籍不明潜水艦の捜索 16日中に終了 林防衛相 - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080916/plc0809161238000-n1.htmhttp://nnl.jugem.jp/?eid=1528


平成20年9月17日午後0時34分
中国が日本側に抗議 潜水艦領海侵犯事件をめぐる報道に対して - MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/080917/plc0809171243007-n1.htmhttp://nnl.jugem.jp/?eid=1530
author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 09:44
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