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- 古賀花子へのインタビュー in 1979
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2020.07.30 Thursday
古賀花子へのインタビュー in 1979
古賀商店と取り扱い商品
記者: 結婚された頃は、先代の辰四郎さんは健在でしたか。
古賀: 亡くなられた翌年に結婚しました。記者: すると、辰四郎さんのことは、いろいろお聞きになりました?
古賀: ええ。辰四郎さんは、ロンドンやニューヨークの博覧会なんかにもいろんなものを出品してはもらった賞状など、たくさんありましたよ。残しておけばよかったんですが、そんなものみんな空襲で燃してしまって・・・。それに先代は、本土だけじゃなく、中国にも知事なんかといっしょに出掛けて、中華料理に使う・・・イリコみたいなものね、それを取引きしていたようだし、貝ボタンやなんかはインドやドイツにも輸出していたようですよ。私はお店のことはよくわかりませんけど・・・。
記者: それは直接那覇から?
古賀: いえ、大阪の店からアメリカやなんかに送ってました。
記者: じゃ、古賀商店の本店は那覇にあって・・・
古賀: そうです。
記者: 大阪は支店ということで?
古賀: いや支店というより、辰四郎のお兄さんが大阪の店にいましてね。そこへ送り付けていました。そのお兄さんという人は、上等の鰹節なんかが入ると、東郷元帥に贈り届けたりしていたそうですよ。すると執事の名前でお礼状が来たそうなんです。でもほんとうは執事はいなくて、ご自分でお書きになってたらしいんです。字を比べてみたら、やっぱり東郷元帥の字だとか言ってしました。
記者: 大阪ではお兄さんがみて沖縄は辰四郎さんがみて・・・だから物を送るには大変便利であったわけですね、窓口があって。
古賀: そうなんですよ。もともと古賀商店の始まりは鹿児島なんですよ。それで明治十二年の廃藩置県と同時に、辰四郎さんが沖縄に来られて事業を始められたんです。で、そのお兄さんのお嫁さんも鹿児島のいいところの出の人でしたよ。
尖閣列島と古賀辰四郎
記者: 当時、尖閣列島でも工場をやっていたわけですね。
古賀: ええ、昭和十六年までですね。その頃になると油の配給がなくなったもんだから・・・。それで、石垣の登野城に鰹節工場を建てていたんです。七〇〇坪ぐらいありましたがね。戦後戻ってみると、工場の機械なんか全部なくなっていて、民家なんかも建て込んじゃって、立ち退いてもらえないものだから、結局、安くてお譲りしたんですがね。
記者: すると、燃料の油の配給がなくなって・・・
古賀: 配給がなくなった。魚釣島は、味噌・醤油やなんかの食料を送らないといけないわけでしょう、働いている人たちの・・・。そうそう、それでね、向うで働いている人は、鰹なんかもいいところばから食べるもんですからね、脚気になるのが出てきてね、大病でもして責任問題になったら大変だしということで、組合を作ったんです。沖縄では始めて作ったんです。
記者: 組合というのは、産業組合、船主たちの組合ですか。
古賀: いえ、乗組員のですね。乗組員が組合を作って、自分たちの健康も白分たちで気をつけるようになる。それに、みながよけいに魚を採れば、それだけ収入も多くもらえるという仕組ですね。食費なんかも組合にした方が経費が安くつということで・・・
記者: すると、その組合を通して古賀さんが買い取られるわけですか。
古賀: ええ、そうです。ともかく組合の第一号だったそうですよ。
記者: それは国からの指導があってやったんですか。
古賀: いえいえ、どこからも指導はなくて、自分で考えてやったんです、自発的に。私の聞いたところではそういうことです。
記者: 工場で働いてた人たちは、どこの出身が多かったんですか。
古賀: はじめは大分から来ていました。後には八重山付近です。で、慶良間の松田和三部さんが鰹節工場のことで顕彰されたりしていますが、あれは松田さんが地元の人を使ってやったからなんで、始めたのは古賀の方が一年早いそうなんですね。ただ職人が他県から来た人だということですね。藍綬褒章は翌年になったそうです。それで、思い出しましたが、辰四部さんが亡くなられるときに「おれは考え違いをしていた。大東島を手離したのはおれの失敗だった」とおっしゃっていたと、善次は話をしておりました。やっぱり拝借願いを出す前に探検するとき随分苦労されて、糸満の漁夫でも恐れをなしてへたばるというような嵐の中を、自分が頑張ったからなんでしょうね。
記者: 辰四郎さんが亡くなられたのは?
古賀: 昭和七年です。
古賀: あんまりたくさんはいませんでした。戦争になってからはわずかで、若いのが三人と年守りが三人、あとは船が入って忙しいときに仲仕を三人、臨時で雇っていました。
記者: 使用人は通いで?
古賀: 住込みは二人でした。
記者: 主に沖縄の人ですか、使用人は?
古賀: ええ、八重山で仕込んで来た人がいましたね。
記者: 沖縄県出身以外の使用人は?
古賀: 山口県から一人来ていました。その人だけですね。
記者: 八重山の支店をやっていた人は?
古賀: 照屋という人です。
記者: 八重山のかたですか。
古賀: いいえ、那覇の牧志の人で、商業の頃、古賀(善次)と同級だったそうです。
記者: 古賀さんは東京の大倉高商のご出身でしよう。
古賀: 古賀は一学期は那覇商業に通っていたらしいんですがね、そのときの同級生です。その頃、御木本さんがおれのところはみんな大倉高商出を使っている、優秀だからそっちに行かしたら、ということで、移ったらしいんです。
尖閣列島の処分
記者: 黄尾嶼は米軍の演習場になっていますね。あれは最初から、まだ本土におられるときから、軍用地料は入っていたんですか。
古賀: あれはね、初めはぜんぜん入らなかった。それで、古賀の友人に三井物産の砂糖部の頭をやっている人がおりました。その人に頼んで書類を書いてもらって申請したんですよ。そしたら、すぐにその月から出ました。驚くほど早かったですよ。
記者: 尖閣を処分されようと思ったのは?
古賀: あれはね、栗原さんが、私どもがまだ国場ビル隣りにいる頃、二度ほどお頼みに来られたんですが、古賀はそっけない返事をして「売らない」としか言わなかったそうです。 そしたら、その後、三年ほどしてから、何度も見えられましてね。で、あんまり言うもんだから、南小島と北小島、あれはいま何かしようと思っても何も出来ない島だけど、それでもよかったら、その二つはお譲りしましょうと言ったんです。 そしたら、結構です、その代わり、魚釣島をお売りになるときの証文代わりに頂いておくというわけなんです。で、その二つはお売りしたんです。そしたら、一昨年(注意1)の八月、十月にも見えられた。そのとき主人の具合が悪かったんで、そのままだったんですが、去年の二月にもまた見えられたんです。そのとき古賀は、はっきり言わなかったんですが、それだけおっしゃられるんなら、まあ、へんなことにお使いになられないんだったら・・・・というような意味のことを言ったんです。そのあと三月五日に古賀は亡くなりましてね。で、亡くなったあと四月にまた来られたんで、まあ、古賀もああ言っていたし、私もいつなんどきお参りするかわからないいし、古賀の言うところを含んで下されば、ということでお譲りしたんです。
記者: 何に使うということはお聞きになりましたか。
古賀: 純粋の金儲けというか、人に転売するようなことは絶対にしないということでした。まあ、あの頃から石油の話はすでに出ていましたしね、石油が出ることは確かなんですから。それはどういうふうになるかはわかりませんけれど・・・。
(注意1):1977年
--------------------------------------------------------------------------------<解説>
上記は『沖縄現代史への証言・下』(1982年2月発刊)の古賀善次の妻、花子へのインタビュー記事の一部を抜粋したものである。花子は長野県飯山の出身で明治31年生まれ(1898年?月?日 - 1988年1月1日)。旧姓は八田。東大病院看護婦養成所卒業(大正5年6月卒)。東京で看護婦をして体調を崩して静養していたときに、沖縄県立病院の院長をしていた橋本が、学会で東京に来ていたときに沖縄で働くことを勧められ沖縄へ。数年間働いた後、東京に戻って新しい病院で働いていたときに、入院していた芹沢浩牧師(沖縄へ伝道に行ったが結核で東京に戻って入院していた)から古賀善次とのお見合い話を持ちかけられる。花子は以前から善次の顔は知っていたが、何をしている人かは当時まだ分からなかったという(花子談)。
- 寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(16)
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2009.10.12 Monday
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より
□ 尖閣列島の処分
――黄尾嶼は米軍の演習場になっていますね。あれは最初
から、まだ本土におられるときから、軍用地料は入っていた
んですか。
古賀 あれはね、初めはぜんぜん入らなかった。それで、
古賀の友人に三井物産の砂糖部の頭をやっている人がおりま
した。その人に頼んで書類を書いてもらって申請したんです
よ。そしたら、すぐにその月から出ました。驚くはど早かっ
たですよ。
――尖閣を処分されようと思ったのは?
古賀 あれはね、栗原さんが、私どもがまだ国場ビル隣り
にいる頃、二度ほどお頼みに来られたんですが、古賀はそっ
けない返事をして「売らない」としか言わなかったそうです。
そしたら、その後、三年ほどしてから、何度も見えられまし
てね。で、あんまり言うもんだから、南小島と北小島、あれ
はいま何かしようと思っても何も出来ない島だけど、それで
もよかったら、その二つはお譲りしましょうと言ったんです。
そしたら、結構です、その代わり、魚釣島をお売りになると
きの証文代わりに頂いておくというわけなんです。で、その
二つはお売りしたんです。そしたら、一昨年の八月、十月に
も見えられた。そのときは主人の具合が悪かったんで、その
ままだったんですが、去年の二月にもまた見えられたんです。
そのとき古賀は、はっきりは言わなかったんですが、それだ
けおっしゃられるんなら、まあ、へんなことにお使いになら
れないんだったら……というような意味のことを言ったんで
す。
そのあと三月五日に古賀は亡くなりましてね。で、亡くな
ったあと四月にまた来られたんで、まあ、古賀もああ言って
いたし、私もいつなんどきお参りするかわからないし、古賀
の言うところを含んで下されば、ということでお譲りしたん
です。
――何に使うということはお聞きになりましたか。
古賀 純枠の金儲けというか、人に転売するようなことは
絶対にしないということでした。まあ、あの頃から石油の話
はすでに出ていましたしね、石油が出ることは確かなんです
から。それはどういうふうになるかはわかりませんけれど…。
(以上−141頁−上段10行〜下段22行)
あの方は山やなんかもたくさん持っておられて、由緒のある
家柄の方だそうですから、何か新しい自分の好きなものを…
やりたいんじゃないでしょうか。よくわかりませんけれどね。
――これまでをふりかえってみて、現在、沖縄をどういう
ふうにお感じになっていらっしゃいますか。
古賀 第二の故郷……というより、ここが私にとっての故
郷ですね。
――それでは、きょうは長時間、どうもありがとうござい
ました。
(以上−142頁−上段)
〔後記〕寄留商人は、沖縄社会にとってみれはいわばヨソ者である。
それだけに、この人たちが沖縄社会に与えた影響は決して小
さくないにもかかわらず、彼らの果した役割を具体的に明ら
かにするような作業はまだあまり進んではいないように思わ
れる。まして、彼らの構成する社会の内側からこれを見ると
いうようなものはほとんどない。
この章は、冒頭の設問の部分でも述べたように、『新沖縄
文学』の特集との関連で企画された聞き書きではあるが、古
賀さんの話は、期せずして寄留商人の社会とその周辺のあり
ようを浮かびあがらせてくれることになったと思う。
(以上−139頁−下段)
- 寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(15)
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2009.10.12 Monday
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より
□ 戦後・沖縄へ引き揚げ
――沖縄に引き揚げて来られるのは、かなり経ってから?
古賀 十八年、経っていましたよ。
――その十八年間は、やはり看護婦をされて……
古賀 はい。こちらに帰る前の十年間は、そうしていまし
た。
はじめの七年は信州にいて民生委員やお花の指導員、それ
から大阪に八ヵ月ほどいました。大阪には昔、古賀の父が面
倒を見ていた人の甥がいて、その人が呼んでくれたもんです
から。大阪府下の吹田という所だったんですが、行ってみま
すと、荷物を運ぶのに付いて歩くのが古賀の仕事でしてね、
そういうのは古賀にはぜんぜん向いていないことは、私はよ
く知っていましたから。それで、これくらいの生活なら私に
まかせて下さい、私が働いて、あなたはどこへでも遊んで歩
けるようにしてあげるから、ということでね、それで東京へ
出て、看護婦を勤めたんです。「月給ここに入れておきます
よ」というと、古賀は好きな時に使って、まあ自由にやって
いました。古賀にも女房に養なってもらってるという気持ち
はなかったはずです。
――その頃、沖縄の情報は入ってきたわけですか。
古賀 ええ、まあ、たまにですけどね。古賀は、沖縄には
米軍がいるのに、なんで敵のいるところに行けるか、なんて
言ったりしていましたけどね。
――すると、その間には一回も沖縄を見に来られることは
なかったんですか。
古賀 ええ、ありませんでした。
――全財産はこっちに置いたままですね。
古賀 全財産ていったって、商売しているわけじゃないか
ら、ただ土地だけですね。八重山の支店も二九〇坪ほど残っ
ていたんですがね、向うにいた支店長が社長になって店を始
めていてね。
――すると、海産物問屋か何かを?
古賀 ええ、やってました。うちの店も使い、蔵も使い、
そのまんま……。そっちが本店で、那覇にはまた南海商会と
(以上−139頁−上段12行〜下段22行)
いうのがあって、それが支店としてやってたんです。で、と
もかく地料として、月々三千円ほどですか」送っていました
がね……その話が出たときに、私が「あんた、少し言ったら
どうなの」と言ったら、古賀は「まああれも苦労してやり出
したんだから、やらしておけはいいじゃないか」というふう
でね……。文句を言いませんでした。結局、安くでお貸しし
たんですがね。ところが、私たちがこっちへ帰ってきたら、
間もなく本店の方も支店の方も死んじゃったんですよ。
――さきほど、沖縄には米軍がいるから帰らないとおっし
ゃっていましたが、戻って来ようと決心されたキッカケは?
古賀 向うにいる間に、今が稼ぎ時だなんて言って来られ
る方が見えたうしたこともあったんですが、直接のキッカケ
は当間重剛さんなんかが、いつまでぐずぐずしているんだ、
もう帰れよ、自分の土地も戻ってくるし、アメリカも、君が
思ってる、そんなもんじゃないよ、とにかく一度帰って来て
付き合ってみたまえ、と。そして野球と庭球の大会に招待し
て下さったんです。昭和三十七年に……
で、その翌年にこっちに帰ってきました。帰ってきて、あ
っちこっちの外人さんともお付き合いしてみて、古賀が「ア
メリカは思っていたより、みんなとても親切だ」と言うんで
す。キャラウェーさんとは、まあ会議やなんかでご招待のあ
ったときに付き合う程度でしたが、ワーナーさんとはよく付
き合っていて、感じのいい人だなあと言っておりましたね。
――引き揚げて来られてから、古賀さんは何をされていた
んですか。
古賀 それがね、古賀はロータリーの会員に推薦されたん
ですが、会員になるには何か仕事がなきゃいけないというん
で、さっき話に出た昔うちの番頭だった人のしている店の取
締役というのを、名前だけもらってやってました。
――すると、こちらへ来られてからは、古賀さんは悠々自
適といいますか、名誉職をされて……
古賀 ロータリーの書記をやらされてね。それで、ずっと
まじめにやっていましたよ。他に用事がないんだから……・。
自分の好きなことをやったんだから、まあまあだと思ってい
るんです。
――土地はどうなっていました。区画整理も済んでいて‥
古賀 ええ、区画整理されて、そして車置き場になってい、
たんです。うちの土地の一部で車置き場をやっていた人は、
安謝かどこかに引っ越されたらしいんですが、行かれるとき、
長いこと拝借しましたと、お礼の一言もなく、出て行かれま
した。
――じや、無断借用していた?
古賀 ええ、まあ無断借用です。で、いちばん向うにいた
人は、やっぱり車置き場していたんですが、自分たちの借り
ていた分は、地料を払ってらっしゃいました。
――そうしますと、帰ってきたときは、こちらにはいらっ
(以上−140頁)
しゃらなかったんですか。
古賀 ええ、帰って来てからは十年ぐらい借家をしてまし
た。国場ビルの隣りのちょっと空地のあろ所に……。十坪ぐ
らいでしたかね。八畳一間と四畳半と三塁の家でした。小さ
い家だったんですが、あそこは交通に便利ですからね、譲っ
てくれと頼んだんですけど、どうしてもダメだと言うもん
で……。で、もう年だしね、いつなんどき倒れるかもわから
んのに、私、借家から葬式を出すのは嫌よ、と言ったんです。
そしたら、じや作るかというんで、この家を作ったんです。
(以上−141頁−上段1行〜上段9行)
- 寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(14)
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2009.10.12 Monday
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より
□ 信州へ疎開
――で、さきほど首里の牧師さんのお宅に避難されたとい
うことですが、その後はどうなさったんですか。
古賀 それがね、牧師さんのお宅にいた武部隊の戦車部隊
長が、私たちがそこへ行って間もないうちに、こう言われる
んです。「あした疎開船が出るから、当然疎開なされるでし
(以上−133頁−上段17行〜22行)
よう。」すると主人が「いや、ぼくは父の代からこの土地で
お世話になっているから、疎開する気持ちは毛頭ありません。
家内も救護放としてお役に立てますし、どこにいてもお手伝
いはできますから」と言ったんです。そしたら、その部隊長
が「バカも休み休み言って下さい」と、怒鳴られるんですよ。
で、「どうしてですか」と聞き返したら、「今の戦争は女
や年寄りに手伝ってもらってできる、そんな生やさしい戦争
だと感違いしないで下さい。それだけのお気持があったら、
あんた方二人が疎開したら二人分の口が兵隊にまわる。だか
ら口減らしのためだけでも疎開すべきだ」と言うんですね。
主人は「失礼だ。そんなふうに取るなら、何で手伝うもの
か!」と言ってね、それで疎開したんです。今になって考え
ると、この部隊長は命の恩人だと思います。
――それは十月の何日でした。
古賀 十月十七日だったと思いますが、二年ほど前からお
親しくしていたカモメの艦長が使者をよこされて、今度は疎
開なすったほうがよいでしょう、ということで、そのお船で
疎開しました。
――部隊長は以前からご存知でした?
古賀 古仁屋に慰問に行ったときから海軍の方とは親しく
なっていましたから。みなさんが港へ交代で見えられるでし
ょう。そのたびに私たち、迎えに出ていたんです。女子青年
団のメンバーを呼んでは、お給事を手伝ってもらって、踊っ
たり三味線をしたり、一晩楽しくしてお帰りになっていまし
た。そのなかのお一人で、下士官をされていた人が、ちょう
ど空襲で焼けぼっくいで首里の疎開先を書いといたんですが、
それを見て、探し探し首里に来られたんです。
で、いよいよ疎開というんで、ここの港に来たんですが、
砂糖やなんかたくさん積んであったのが焼けてしまってね、
一面に砂糖が溶け出して、歩くとべトべト、脚がそのなかに
埋まるんです。それで船に乗りました。船の中で、あんなに
砂糖があったらなあ……と思いましたよ。
――船は一般の疎開船ではないんですね。
古賀 疎開船を四艘で警備していて、その四艘のうちの一
つでした。艦長は謡曲のお友だちでした。
――じや、他には疎開者は乗っていなかった?
古賀 他には西の町内会の事務員と、それに艇長をやって
いた人が乗っていました。その人は四月十八日の東京空襲の
とき哨戒艇の艇長をしていて、かろうじて助かったんだと言
っていました。
――寄留商人の人たちは、だいたいいつ頃から疎開をして
いましたか。
古賀 寄留商人は家族の方が疎開していましたね。
――いつ頃ですか。
古賀 だいたい空襲の一年ぐらい前ごろからですかね。そ
れで、寄留商人の方は二、三人、たとえば番頭と息子、子女
(以上−138頁)
と母親というふうに、誰かが死んでも誰かが生き残れるよう
に、上手に割り振りして疎開させていました。
――じや、十・十空襲のあとには、もうほとんどの人が疎
開をしていたわけですね。
古賀 だいたいそうですね。みなさん鹿児島、熊本、宮崎、
大分に行かれたんではないですか。
――で、古賀さんの疎開先は?
古賀 私は須坂、その頃はまだ上高井郡井上村幸高といっ
てましたが、すぐ須坂市になりましてね。長野布から南へ三
里ばかりのところでした。そこでも古賀は、小学校なんかに
引っばられて、野球やなんかの指導をしていましたよ。
(以上−139頁−上段1行〜上段11行)
- 寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(13)
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2009.10.12 Monday新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より
□ 戦争中の生活
――もうその頃には、だんだん商売もしにくくなっていた
んじゃないですか。
古賀 はい。それはもう……品物が入らないし、海上も危
険ですしね。で、なかには、どこそこは荷物をいくついくつ、
あっちは二五〇個ぐらい運んだとか、お宅はどうなんですか、
という人もいましたよ。よく人のもの調べてる暇があるなあ
と思いますがね(笑)。
私のとこの蔵はもともとそんな大きなものじゃなかったん
です。五間に八間の二階造りの蔵でね。そこにいろいろなも
のを入れておりました。輸出用の荷物が主でしたが。
――お米なんかはどうだったんですか。
古賀 お米はどうか知りませんが、ゴマやテングサ、それ
にタブカワなどが入っていました。
――貝類やなんかも?
古賀 貝類はもう外に出しっぱなしにしていましたね。
―その蔵だけは焼け残ったんですか。
(以上−135頁−下段6〜22行)
古賀 ええ、そのいちはん大きい蔵だけは残りました。隣
り近所でも焼け残ったのは、うちのその蔵と、木村さん(※)と池
畑さんのとこと三つだけで、あとは、みなさん立派な蔵を持
ってらっしやいましたが、窓が開いていた、どこが開いてい
たとかで、火が中へ入って、みんな焼けちゃったんですね。
※木村栄左衛門・義雄親子 栄左衛門は福岡県出身、
文久二年生。明治二十一年に来県、大正四年那覇運送
合資会社創立。義雄は明治二十二年鹿児島生れ。沖縄
近海汽船株式会社専務、沖縄製永株式会社専務などの
要職歴任。米穀肥料商。
――土蔵だったんですか。
古賀 土蔵です。ですが、下の方は鹿児島産の石で固めて、
上の方は粟石を使ってましたがね。ところが屋板は普通のこ
っちの屋根なもんだから、おそらく火が入っていると思った
んですが、運よく残りました。
――普通の屋根というと赤瓦の?
古賀 ええ。それにちょうど空襲のとき、私は二階に上が
りましてね、開いている窓をしっかり閉め、兵隊さん用に使
っていたふとん一組と蚊帳一つを放り込んでおいたんですよ。
それであとあとまで助かりました。本土へ疎開するときにも
持って行きました。輸出用の品物は誰かが輸出して大阪港に
は着いていたそうですが、私どもには一銭も入りませんでし
た。
――兵隊が民家に泊ったりしだすのはいつ頃からですか。
古賀 あのね、商工会議所が暁部隊に接収されたとき、商
工会議所としてはどこかに事務所を代わりに見つけなくては
いけない、会議やなんかで多勢集まれるところでなきゃとい
うことでね。うちの二階を貸せということになったんです。
ですから、十・十空襲の一、二年ぐらい前かしらね。
――ずっと二階は商工会議所が使ってらしたんですか。
古賀 いえ、人が集まるときだけでね。平生は事務員だけ
です。それに金庫なんか置いてありました。空襲後は何か開
けっぱなしになったままでしたが (笑)。
――じや、古賀さんの所には兵隊はいなかったんですか。
さっき首里の牧師さんのお宅に戦車部隊長がいたとおっしゃ
ってたんですが、そういうことはなかった?
古賀 ええ、そういう形でならうちにもいましたよ。部隊
としてはいませんでしたが。海上保安庁みたいな所の部隊長
――大尉ぐらいですがね――。その部隊は商船会社の二階に
いましたが、部隊長はうちで寝泊まりしていました。
――そういう人は、まあお客様扱いで‥…・
古賀 ええ、まあそうですね。その人は、キスカでやられ
て、またこっちでもやられるのか、なんて言ってましたけ
ど……
――それは何か割り当てみたいに配置されるんですか。
古賀 ええ、うちはそうでした。
(以上−136頁)
――大きな家には割り当てがあったわけですね。
古賀 ええ、ええ。中馬さん、古野さん、新嘉喜さんとか
……大きい所で三人、小さい所で一、二人ぐらいだったんで
しょうか。
それとね、たとえばあした船が出るというんで兵隊さんが
招集されて港に来たんだけれど、海上の具合が悪くて船が出
ないというときには、この近辺の家に割り当てがありまして
ね。たぶん畳数に応じてだと思いますが、兵隊の面倒を見て
いました。一度などの私の所に七十人の割り当てがあったん
です。七十人と言われてもね、お茶腕(茶碗)も私のとこにはせいぜ
い五十人分ぐらいしかないし、困っちゃうなあと思ってね…
まあ、実際には割り当てられたのは十八人ぐらいでした。十
八人といったってねえ、その人たちは五晩も泊って六日後の
朝に出ていかれたんですが……。まあ、その人たちは何日も
かかって、ようやく鹿児島に着くことができたそうなんです
が、うちに泊まった兵隊さんのなかには途中でやられてしま
った人たちもおりました。
――その兵隊さんは徴兵で?
古賀 ええ。だからいい加減年輩の人も多かったですよ。
みんな地方から出てきた人でしてね。なかには、無事帰って
来られて、わざわざお礼に見えられた方もいました。
――そうすると、戦争中は、常にそういうことで駆り出さ
れていたんですか。
古賀 あっちこっちから兵隊が送り込まれてきたときです
ね。そういうときは、ご飯作りやなにかでね。たとえば、一
俵のお米を一度に炊いたりね……料理の仕方や盛り付けも手
際よく早くできるように随分工夫をしましたよ。で、そうい
うのに取り出されるのは、たいていは女中がいて子供のいな
い人に眼がつけられてね、向うの方でちゃんと名簿なんかに
付けられていてね。たとえば私に電話がかかってきたら、私
から誰と誰に連絡をしろ、で、そこからまた、誰と誰に連絡
しろ、というふうにして、みんなが一度にいっしょに集まら
ないように、せいぜい二、三人のグループで、三々五々、港
に集まるんです。で、港の空いた蔵の中へナベやカマやお米
などを運び込んでね……まあ、話の外でしたよ。
――ご婦人方は、主にそういうことをされていたわけです
か。
古賀 私は救急班長も六年間していました。なかには踊り
やなんかの慰問専門のグループもあったらしいですが……
(以上−137頁−上段1行〜下段16行)
- 寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(12)
-
2009.10.12 Monday
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より
□ 十・十空襲――首里へ避難
――十・十空襲のときはどこにいました?
古賀 ここです、自宅です。ちょうどそのときお手伝いは
小禄の飛行場に行ってましてね。といいますのも、当時は、
きょうはどこの女子青年団、あすはどこの警防団と、日ごと
にそういう団体が引っばり出されていたんです。お手伝いは
(以上−133頁−上段17〜22行)
女子警防団員として行ってたんです。私らなんかでも、町内
会から二五〇人だったら二五〇人ずつを、それぞれの家数に
応じて割り当てられたものです。私らも角材運びや土嚢運び
をして飛行場作りに招集されたものです。若い連中は監視哨
に行っているでしょう。
――監視哨といいますと?
古賀 ほら、港の向うにあったでしょう……気象台ですか、
あれを小さくしたようなものです。若い連中はそういう所に
駆り出されていました。
――すると、空襲やなんかを監視する所?
古賀 ええ、敵の船が来るかどうかとか。
――それはあっちこっちにあったんですか。
古賀 あっちこっちにあったらしいですよ。うちの連中だ
けでも二人が駆り出されていましたしね。いつごろ作られた
ものなのか、詳しいことはわかりませんが。
――で、十・十空襲に遭われて、どうされましたか。
古賀 最初の空襲のとき家の防空壕にいましてね、主人は
警報が鳴ると同時に、町内のあちこちを廻って、ひととおり
全部廻って帰ってきてから、推それはどうこうしていた、新
嘉喜さんの奥さんは、ふとんを頭にかぶってたよ、諸見里の
奥さんほシンマイナベをかぶっていたよ、とか、おかしな見
てきた話をしていたんです。そして、その話をしているうち
に、またドカドカドカドカでしょう。最初の空襲から次の空
襲までには一時間ぐらい間があって、そのあとはもう十五分
間隔ぐらいに、ドカドカですからね。で、最初のうちは、屋
敷の庭にあった防空壕に入っていたんですが、もうどうしょ
うもないんです。防空壕から、よく見ると、家の柱がこんな
にひん曲って、またすぐそのあとにドカドカですからね。そ
れで、旭橋、あの旭橋が燃えたら、もうみんな火の中で蒸し
焼きにされるからといって、町内会の書記が迎えに釆てくれ
ましたので、それでリュックひとつを担いで午後二時すぎか
ら避難を始めたんです。そしたらですね、旭橋を渡るまで、
わずか数百メートルの距離ですが、三回ぐらい空襲があって、
そのたびに道端の防空壕に入っては、しばらく待ったりして、
ようやく渡り着いたら、そこには大きな防空壕がありまして
ね。そこにしばらく入っていました。
そのうち、少し空襲も遠のいたので、そこを出まして、晩
の八時ぐらいまでに首里にたどり着いたんです。その時、リ
ュック一つですが、古賀は息ぐるしいとリュックも棄てまし
た。
――その時、首里はまだ焼けていなかったんですか。
古賀 はい。ちょうど当時は那覇に鉄道がありましたね。
その鉄道の内側、こちら側だけが焼けたんです。ちょうど安
里の一高女の辺りまででした。
――古賀さんたちが首里に避難されるときには、近所の人
たちはすでに避難していましたか。
(以上−134頁)
古賀 ええ、朝にひどい空襲があって、そのとき出掛けた
ようです。私たちがいよいよ避難しようと決心したとき、隣
り近所に「皆さん、もうあぶないから出ましょう!出まし
ょう!」と大声で怒鳴ったんですが、誰も出て来ないんです。
もうその時にはみんな避難していたんですね。
――そういう人たちも首里に?
古賀 みなさん、田舎やなんかに知り合いがいましたから、
そっちの方へ行ったんでしょう。
――で、古賀さんたちは首里に行って……
古賀 はい、首里の末吉というところに行きました。そこ
の岩陰みたいなところに大きな防空濠があって、そこへ入れ
てもらったんです。もういっぱいで、入り切らないぐらい集
まっていましたけどね。そこでしばらくいると、夜の十二時
ぐらいだったか、警防団の人が来ましてね、で、「敵が上陸
するかも知れんから、みなさん、北の方へ向かって行って避
難して下さい」と言うんですね。そしたら、みんなお出にな
られたんです。そこに居残ったのは、古賀と私と、それに尚
琳男爵、そのお供かなんかの人と、私どもに宿を貸して下す
った新垣信一枚師の奥さま、たったそれだけでした。あとは
もうみんな出ていったんです。主人が「おれはもう歩く元気
もない――喘息でしたからね――、ここでやられたらやられ
たでいいよ、自分でするだけのことはしたから、おれは動か
んよ」といって、じっとしていました。
そうしているうちに、首里には、ちょうど以前から知って
いたその新垣牧師さんの家族がいたもんですから、そこに行
きました。牧師さんは八重山に行っていて、奥さんと子供さ
んだけだったんですから。そこには、武部隊の戦車部隊長も
おりました。
(以上−135頁−上段1〜下段5行)
- 寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(11)
-
2009.10.12 Monday
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より
□ 戦争と古仁屋への慰問
――さっき古仁屋に慰問に行かれたといっていましたが、
それはどういうことなんですか。
古賀 それはね、ちょうどこちらに、鹿児島から台湾まで
の間を受け持っておられる海軍の部隊長さんが、港にお見え
になったことがあるんです。そのとき、女子青年団なんかを
連れて接待したことがあるんです。そしたら古仁屋の方に、
二六〇〇名ばかりの兵隊がいて、みんなホームシックを起こ
して、慰問に来てくれるのを欲しているから、ということを
お聞きしたもんですから。
――それは町内の女子青年団ですか。
古賀 はい。
――で、慰問団というのは、ほとんど寄留商人の方の……
古賀 私たちのところはそうでしたね。
――少しは沖縄出身の人もいた?
古賀 ええ、いました。琉舞は上之蔵のお医者さんの娘の
又吉政子さん。それで、兵隊さんを講堂に全部集めてやりま
した。お琴があり、頼り……琉球舞踊あり、日本舞踊あり、
それに空手があり、そういうものをいちいろやりました。
――それはどういう所で習ったんですか。
古賀 みんなが集まってね。
――みんなが集まる場所というのは?
古賀 私のうちでやりました。
――琉球舞踊やなんかも?
古賀 きょうは琉球舞踊というときは、それを教えている
ところでやって、で、全部が集まってやるときは私の家に集
まりました。
――空手なんかは道場で?
古賀 ええ、空手はあの有名な松山御殿の娘さんで、空手
道場へ通っていました。
――女の人たちですか?
古賀 ええ、そうです。よくやってましたよ、女の人も。
――当時、琉球舞踊を教えたりしている人はたくさんいた
んですか。
古賀 よくわかりませんが今ほど多くありませんでした。
日本舞踊は風月の先生……琉舞は、新垣松含さんの娘さんの
比嘉澄子さん 今、泊にいらっしゃる――あの方が教えてい
(以上−132頁−上段9行〜下段22行)
ました。
ともかく、いろんなことをやりましたんで、向うではとっ
ても喜んでもらいました。古仁屋に一晩泊って、次の日は山
の中の観音様のあるところ、それに各離島にも行きました。
離島はいろいろ不便で、兵隊さんもかわいそうだからという
んで……。とにかくひじょうに喜んでもらいました。お船も
部隊長さんの黄色の毛布の備えられたハシケを出して下さい
ました。
――疎開されたのはいつ頃ですか。
古賀 焼け出されて、いる所がなくなっちゃったから。
――というと、十・十空襲?
古賀 ええ、そうそう十・十空襲。
――すると、焼ける前までは?
古賀 焼ける前まではここにいましたよ。古賀は町内会長
なもんだから、町内の世話をみなきゃならないし、私は警防
団の救護班長、ぜんぜん疎開はしませんでした。いちばんお
かしかったのは、周りがみんな疎開しているもんですから
「疎開しないのはうちだけよ」という話をしたんです。そし
たら古賀が「したけりゃしたらいいじゃないか、国家に奉任
しているならそれでいいじゃないか」……そんなふうでした
ね。
――町内会長は、いちはん最後に疎開されるわけですか。
古賀 ええ、まあそうですけど……。それで「おれがいち
はん癪にさわることがある」と古賀が言うんです。それは戦
争も終わりの頃、ちょっと戦況があやしくなったもんですか
らね、各町内会長の集まりがあったとき、その会議で、ベル
リンの空襲はこうだった、その詳しい報告はわからないけれ
ど、随分ひどいもののようだから、こんどの空襲は市民のバ
ケツ送水ぐらいじゃ間に合わないと思う、避難訓練をしたら
どうか、と言ったらしいんです。そうしたら「非国民!」と
他の町内会長に言われた。「そんな非国民の考えがあるか」
と。バケツ訓練は十分にしてありますが、しかしそんなもん
ではとても今の空襲には間に合わない……。ちょうどその会
議の前々日だかに、パリの空襲、ベルリソの空襲が伝わって
きたときなんです。「家を守るよりも、むしろ命を守った方
がいいじゃないか、避難訓練をやったらどうか」と言ったら、
けなされちゃったものだから、帰ってきて、一生懸命、私を
口説いていましたよ。結局、あの十・十空襲の日は、バケツ
送水ぐらいじゃ、ぜんぜん間にあわなかったわけですがね。
(以上−132頁−上段1行〜下段16行)
- 寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(10)
-
2009.10.12 Monday新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より
□ 寄留商人の社会と古賀善次
――当時、寄留商人の社会といいますか、食生活とか、そ
ういうものはヤマト風で?
古賀 うちなんか、いい方だと言っていましたよ。
――というのは、女中さんなんかの食事がですか。
古賀 ええ、そうです。
――食事の内容やら料理の方法とかも、こっちの一般庶民
とは違っていたわけですか。
古賀 それは少し違うけれども、そんなに違っているわけ
ではありませんから。
――作るのは女中さんが?
古賀 ええ、そうです。使用人もこっちの人ですから、食
事やなんかは沖縄風のチャンプルーとか、そういうものを喜
びますからね。私たちとしてはそれの方がいいわけです。ま
あ、ときどきはおすしやカレー汁なんかしましたけどね。チ
ャンプルーやなんかのときは、ただ主人のだけは余り油っ濃
くしないでくれ、というぐらいでね、同じものでしたよ。お
汁は豚か牛の入ったものの野菜汁やコンブ汁でした。
――女中さんとことばなんか、生活習慣の違いやなんかで
苦労されたことはありませんでしたか。
古賀 いや、ありませんでした。とてもよく働いてくれま
したよ。とても従順とでもいうんですかね、こっちのいうこ
とはみんな呑み込んでくれて、そのとおりにやってくれまし
た。普通語も上手でした。
うちは、日曜は女中さんも休みにしていたんです。そした
ら近所の商店から文句が出ましてね。古賀さんがそんなこと
(以上−129頁−上段20行〜下段22行)
をすると、うちが困るというわけです。で、隔週休みにした
んです。それでも女中はたまに帰ったりしても、その日のう
ちに戻ってきちゃうんです。自分の家は天井が低くて眠れや
しないとか言って……
――お手伝は何人ぐらいいましたか。
古賀 私が来る頃までは三人いましたそうですが、私がき
てからは一人でした。
――女中さんは主に那覇の人?
古賀 首里、それから西原あたりから来ていました。
――辰四郎さんの頃と、善次さんがやってられる頃で、お
店でなにか違っていたようなことはないですか。変化したと
いうか。
古賀 まあ先代はやたらに手広くやったもんだから、集金
が大変でね。結局みんな貸しになって……あの頃はほとんど
掛け売りでしょう、盆と正月の二回、集金に行くんですがね、
それがなかなか入らなくてね。古賀も面倒くさがって、いち
いち貸家なんかにも集金に行ったりするよりは、ということ
で、取引きするところも、小さなところは整理しちやって、
現金払いでやるようにしていました。
――善次さんの方は、その頃いろいろ名誉職なんかをやら
れていたようですが、商売の方は先代のころほどは……
古賀 他の人がやっていて、古賀はたまに要所要所を見て
いるだけでしたから。
呈すると番頭みたいな人もいた?
古賀 一本立ち出来る人が三人いました。
――資料によりますと、何か琉球新報のスポーツ記者とし
て活躍されたということですが、商売の方は半分は番頭にま
かせて……
古賀 記者っていったって、あなた、あまりそんなにしょ
っちゅう用事はありませんもの。大した仕事をしていたわけ
ではありませんよ(笑)。
――毎日出掛けられなかった?
古賀 無給ですからね。月給でももらっていれはそうもい
きませんが。何かがあれは出掛けて行くようなものでね。
――すると、まあ趣味みたいなもので、楽しんでやってお
られた……
古賀 そうですよ。
!記事はよく番いていたんですか。
古賀 それはもう、ずいぶん。
――運動部記者になられるきっかけは何でした。
古賀 古賀はビンポンが好きで。上手でもなかったんです
がね、沖縄でピンポンしようにもルールを知っている人がい
ない、それにテニスもそうだったらしいですね。それで当間
重剛さんやなんかといっしょに、そういうものをしていたよ
うです。
ビンポンといえは、日本語で卓球というでしょう。あの卓
(以上−130頁−)球ということばは、古賀が最初に使ったらしいんです。とい
うのは、記者をしているとき、割り付けの関係でね、ピンポ
ンじゃ字が入り切らなくなって、それで卓球ということばを
新報の記事で使った、それが東京へ行って広がったと言って
ました。東京の協会へ照会したら、古賀の方が六年早く使っ
ていたというんでね。
――ベルリン・オリンピックにも取材に行かれたそうです
が。
古賀 ええ、ちょっと家をあけるからというもんですから、
九州あたりにでも行くのかと思っていたら、ベルリンだった
んですね。当時はシベリア鉄道で行ったそうです。それだっ
て自費ですよ。
――すると、まあ古賀さんは、一代めはあちこち開拓して
歩いて、善次さんの代には名誉職なんかが増えてきて、その
間、記者は趣味でやってる……そういう感じですかね。
古賀 まあ、そういうことでしょうね。古賀が残したメモ
帳があるんですが、それを読んでいますと、親爺は開拓して
あっちこっち歩き廻っているが、ばくはからだが丈夫でない
から、ユースホステルをリュックを背負って渡り歩いている
ようなもんだ(笑)。しかし、もしからだが丈夫であったら、
その素質はあるだろうから、あっちこっち開拓して歩いてい
たかもしれない、なんて書いてありますね。
――当時の寄留商人の社会と、沖絶の一般の人たちとの付
き合いは、どうでした。あまりなかった?
古賀 そうですね、辰四郎お父様は尚順男爵などとは相当
お近くて、別荘の集まりなどには善次も幼いころから連れて
ゆかれたようです。
――寄留商人の子どもたちが、沖縄の人と結婚するとかい
うものも、ほとんどなかったんですか。
古賀 そうですね。あるにはありましたけれど、まあそれ
は恋愛でお互いが好き同士でというような例外的な場合で、
普通は本土の人同士で結婚するのがほとんどだったのではな
いでしょうか。
――寄留商人の二代め同士の結婚とかは?
古賀 ええ、それはありましたよ。
――ご婦人方の社交界みたいなものはなかったんですか。
古賀 愛国婦人会、国防婦人会、キリスト教婦人会、女子
警防団などなかなかお付き合いは多うございました。こちら
の女子青年団をつれて古仁尾に慰問に行ったこともありまし
た。
――こちらの方との交際は?
古賀 そうですねえ……新嘉喜さんとか、当間さんとか、
金城さんとか、そういう方とはお付き合いしていましたよ。
要するに古賀は寄留商人とはよく付き合っていましたけれど
も、ほんとうに腹を割って話し合える友だちというのは、そ
ういう沖縄の友だちだった、そういっていましたね。
(以上−131頁−)
――金城さんといいますと?
古賀 ほら、いま一番の踊りの先生……真境名佳子さんの
お父さん。
――よくお知り合いだった当間重剛さんなんかは、戦前那
覇市長をされたりしていますが、県議会とか選挙とか、そう
いうものに対してはどうだったんですか。
古賀 当間さんとはよく知り合っていましたが、選挙とか
そういうものはやりませんでした。
(以上−132頁−上段1〜8行)
- 寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(9)
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2009.10.12 Monday
− 新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年 − より
□ 尖閣列島と古賀辰四郎
――当時、尖閣列島でも工場をやっていたわけですね。
古賀 ええ、昭和十六年までですね。その頃になると油の
配給がなくなったもんだから……。それで、石垣の登野城に、
(以上−127頁−下段19行〜下段22行)
鰹節工場を建てていたんです。七〇〇坪ぐらいありましたか
ね。戦後戻ってみると、工場の機械なんか全部なくなってい
て、民家なんかも建て込んじゃって、立ち退いてもらえない
ものだから、結局、安くでお譲りしたんですがね。
――すると、燃料の油の配給がなくなって……
古賀 配給がなくなった。魚釣島は、味噌・醤油やなんか
の食料を送らないといけないわけでしょう、働いている人た
ちの……
そうそう、それでね、向うで働いている人は、鰹なんかも
いいところばかり食べるもんですからね、脚気になるのが出
てきてね、大病でもして責任問題になったら大変だしという
ことで、組合を作ったんです。沖縄では始めて作ったんです。
――組合というのは、産業組合、船主たちの組合ですか。
古賀 いえ、乗組員のですね。乗組員が組合を作って、自
分たちの健康も自分たちで気をつけるようになる。それに、
みながよけいに魚を採れば、それだけ収入も多くもらえると
いう仕組ですね。食費なんかも組合にした方が経費が安くつ
くということで……
――すると、その組合を通して古賀さんが買い取られるわ
けですか。
古賀 ええ、そうです。ともかく組合の第一号だったそう
ですよ。
――それは国からの指導があってやったんですか。
古賀 いえいえ、どこからも指導はなくて、自分で考えて
やったんです、自発的に。私の聞いたところではそういうこ
とです。
――工場で働いてた人たちは、どこの出身が多かったんで
すか。
古賀 はじめは大分から来ていました。後には八重山付近
です。で、慶良間の松田和三郎さん(※)が鰹節工場のことで顕彰
されたりしていますが、あれは松田さんが地元の人を使って
やったからなんで、始めたのは古賀の方が一年早いそうなん
ですね。ただ職人が他県から来た人だということでね。藍綬
宝(マ→褒)章は翌年になったそうです。
それで、思い出しましたが、辰四郎さんが亡くなられると
きに「おれは考え違いをしていた。大東島を手離したのはお
れの失敗だった」とおっしゃっていたと、善次は話をしてお
りました。やっぱり拝借願いを出す前に探険するとき随分苦
労されて、糸満の漁夫でも恐れをなしてへたばるというよう
な嵐の中を、自分が頑張ったからなんでしょうね。
――辰四郎さんが亡くなられたのは?
古賀 昭和七年です。
※松田和三郎 安改元(一八五二)年座間味村生れ。
間切長。鰹漁業開発に尽力。『沖縄の百年・人物編』
『県史別巻・近代史辞典』参照。
――那覇本店には使用人は何人ぐらいいました。
(以上−128頁−)
古賀 あんまりたくさんはいませんでした。戦争になって
からはわずかで、若いのが三人と年寄りが三人、あとは船が
入って忙しいときに仲仕を三人、臨時で雇っていました。
――使用人は通いで?
古賀 住込みは二人でした。
――主に沖縄の人ですか、使用人は?
古賀 ええ、八重山で仕込んで来た人がいましたね。
――沖縄出身以外の使用人は?
古賀 山口県から一人来ていました。その人だけですね。
――八重山の支店をやっていた人は?
古賀 照屋という人です。
――八重山のかたですか。
古賀 いいえ、那覇の牧志の人で、商業の頃、古賀(善次)
と同級だったそうです。
――古賀さんは東京の大倉高商のご出身でしょう。
古賀 古賀は一学期は那覇商業に通っていたらしいんです
がね、そのときの同級生です。その頃、御木本さんがおれの
ところはみんな大倉高商出を使っている、健秀だからそっち
に行かしたら、ということで、移ったらしいんです。
(以上−119頁−上段1行〜上段19行)
- 寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(8)
-
2009.10.12 Monday新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より
□ 古賀商店と取り扱い商品
――古賀さんのところの商品は、主に内地に出荷していた
んですか。
古賀 そうです。
――すると、沖縄の小売店に出すということは余りなくて、
鰹節などを本土へ送り出すという‥…・
古賀 そうそう。鰹節や夜光貝。夜光貝といえは、平泉の
中尊寺ですか、あそこの建物にも夜光貝が使われているとい
うことですね。それで向うから「京都大学の方で聞いたら古
賀商店にあるはずだといっていたので、取り寄せてほしい」
という依頼が来たんです。十五年はど前ですかね。で、その
(以上−寄留商人の妻として125頁下段12行〜下段22行)
ころは私の所ではやってませんでしたので、もと私の店にい
た南海商会の日高さんに連絡して、なんかいいのを五百個ほ
ど送ったそうですよ。
――結婚された頃は、先代の辰四郎さんは健在でしたか。
※古賀辰四郎 安政三年、福岡県生。明治十二年那覇
に開店。同二十八年尖閣列島を探険、同二十九年開拓
認可、翌年より移民を送りこみ、鳥毛採集、漁業、鰹
節製造などの事業を開始、大正三年、八重山で真珠養
殖事業開始。『県史別巻・近代史辞典』『沖縄の首年
人物編」参照。
古賀 亡くなられた翌年に椿姫しました。
――すると、辰四郎さんのことは、いろいろお聞きになり
ました?
古賀 ええ。辰四郎さんは、ロンドンやニューヨークの博
覧会なんかにもいろんなものを出品してはもらった賞状など、
たくさんありましたよ。残しておけはよかったんですが、そ
んなものみんな空襲で燃してしまって……
それに先代は、本土だけじゃなく、中国にも知事なんかと
いっしょに出掛けて、中華料理に使う……イリコみたいなも
のね、それを取引きしていたようだし、貝ボタンやなんかは
インドやドイツにも輸出していたようですよ。私はお店のこ
とはよくわかりませんけど……
――それは直接那覇から?
古賀 いえ、大阪の店からアメリカやなんかに送ってまし
た。
――じや、古賀商店の本店は那覇にあって……
古賀 そうです。
――大阪は支店ということで?
古賀 いや支店というより、辰四郎のお兄さんが大阪の店
にいましてね。そこへ送り付けていました。そのお兄さんと
いう人は、上等の鰹節なな(ママ)んかが入ると、東郷元帥に贈り届
けたりしていたそうですよ。すると執事の名前でお礼状が来
たそうなんです。でもほんとうは執事はいなくて、ご自分で
お書きになってたらしいんです。字を比べてみたら、やっぱ
り東郷元師の字だとか言っていました。
――大阪ではお兄さんがみて沖縄は辰四郎さんがみて
……だから物を送るには大変便利であったわけですね、窓口
があって。
古賀 そうなんですよ。もともと古賀商店の始まりは鹿児
島なんですよ。それで明治十二年の廃藩置県と同時に、辰四
郎さんが沖縄に来られて事業を始められたんです。で、その
お兄さんのお嫁さんも鹿児島のいいところの出の人でしたよ。
――当時、扱っていた商品は鰹節と夜光長のほかに何か…
古賀 昆布頼、天草、貝類がいろいろあったですね。
――貝類といいますと、装飾用とかボタンとかに……
古賀 そうそう。
(以上−寄留商人の妻として126頁−)
――外には何に使っていました?
古賀 塗物の中に嵌めたりして使ってましたが、主にボタ
ンでしょうね。
――−海産物の外には何かなかったですか。
古賀 八重山にゴマとか農産物、お米なんかを奨励して作
らせて、それでできたものを自分で買い取ったりしていまし
た。それにトゥーノチン……あの赤いようなお餅ができるで
しょう、それなんかもやっていましたね。八重山のお米やゴ
マなんかは船から揚げると同時に、すぐこっちの小売店の人
が並んで買っていました。
それに、お線香の材料になるタブカワですね。タブカワと
いうのは西表で採れたんですが、何か極細のお線香を作るに
は、西表産のものでないとできなかったそうです。
――そのお線香というのはヤマトで使うものですか。
古賀 ええ、ヤマトの線香、細い極上のがあるでしょう、
あれです。西表は国有地がほとんどだったでしょう、それで
入札がありましてね。入札して仕入れていました。
その外にはカンテンの材料になるテングサですか、そうい
うのも蔵にありました。
――真珠なんかはやってなかったんですか。
古賀 はい、はじめのうちは御木本幸吉さんと組んで、辰
四郎さんがやっていました。限を付けたのは辰四郎の方が先
だったらしいんですがね……それで八重山に照会したり、貝
なんかを提供していたそうです。ところが、出来たものを見
せてくれといっても、ぜんぜん見せてくれなかったそうなん
です。で、善次は、いっしょにやっている仲間だのに、出来
たものも見せないなんてことがあるかといって、手を引いた
らしいですね。最初は辰四郎がずいぶん便宜をはかってあげ
ていたようです。
――八重山にも支店があったわけですね。
古賀 ええ、ありました。八重山といいますと、戦後、古
賀といっしょに行ったことがあるんですがね。あそこの川平
湾の裏側にバイン畑がずっとありますでしょう。それを見て
私が「尖閣よりも八重山にはこんないい所があるんだから、
目をつけておけはよかったのにね」と言ったらですね、古賀
が「おまえ何言ってるんだ、そんなことはちゃんと考えてい
た」と言うんですね。あそこはマラリアがあって戦前はそう
簡単にはいかなかった、台湾から人を呼(ん)だりしてやったこと
もあるらしいですが……戦後になってアメリカがそのマラリ
アを全滅してくれたから、こんなに出来るようになったんだ、
と言っておりました。
(以上−寄留商人の妻として127頁上段1行〜下段18行)