RSS | ATOM | SEARCH
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author:スポンサードリンク, category:-,
-, -, - -
寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(13)
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より



 □ 戦争中の生活
 ――もうその頃には、だんだん商売もしにくくなっていた
んじゃないですか。
 古賀 はい。それはもう……品物が入らないし、海上も危
険ですしね。で、なかには、どこそこは荷物をいくついくつ、
あっちは二五〇個ぐらい運んだとか、お宅はどうなんですか、
という人もいましたよ。よく人のもの調べてる暇があるなあ
と思いますがね(笑)。
 私のとこの蔵はもともとそんな大きなものじゃなかったん
です。五間に八間の二階造りの蔵でね。そこにいろいろなも
のを入れておりました。輸出用の荷物が主でしたが。
 ――お米なんかはどうだったんですか。
 古賀 お米はどうか知りませんが、ゴマやテングサ、それ
にタブカワなどが入っていました。
 ――貝類やなんかも?
 古賀 貝類はもう外に出しっぱなしにしていましたね。
 ―その蔵だけは焼け残ったんですか。
(以上−135頁−下段6〜22行)



  古賀 ええ、そのいちはん大きい蔵だけは残りました。隣
り近所でも焼け残ったのは、うちのその蔵と、木村さん()と池
畑さんのとこと三つだけで、あとは、みなさん立派な蔵を持
ってらっしやいましたが、窓が開いていた、どこが開いてい
たとかで、火が中へ入って、みんな焼けちゃったんですね。

    木村栄左衛門・義雄親子 栄左衛門は福岡県出身、
    文久二年生。明治二十一年に来県、大正四年那覇運送
    合資会社創立。義雄は明治二十二年鹿児島生れ。沖縄
    近海汽船株式会社専務、沖縄製永株式会社専務などの
    要職歴任。米穀肥料商。

 ――土蔵だったんですか。
 古賀 土蔵です。ですが、下の方は鹿児島産の石で固めて、
上の方は粟石を使ってましたがね。ところが屋板は普通のこ
っちの屋根なもんだから、おそらく火が入っていると思った
んですが、運よく残りました。
 ――普通の屋根というと赤瓦の?
 古賀 ええ。それにちょうど空襲のとき、私は二階に上が
りましてね、開いている窓をしっかり閉め、兵隊さん用に使
っていたふとん一組と蚊帳一つを放り込んでおいたんですよ。
それであとあとまで助かりました。本土へ疎開するときにも
持って行きました。輸出用の品物は誰かが輸出して大阪港に
は着いていたそうですが、私どもには一銭も入りませんでし
た。
 ――兵隊が民家に泊ったりしだすのはいつ頃からですか。
 古賀 あのね、商工会議所が暁部隊に接収されたとき、商
工会議所としてはどこかに事務所を代わりに見つけなくては
いけない、会議やなんかで多勢集まれるところでなきゃとい
うことでね。うちの二階を貸せということになったんです。
ですから、十・十空襲の一、二年ぐらい前かしらね。
 ――ずっと二階は商工会議所が使ってらしたんですか。
 古賀 いえ、人が集まるときだけでね。平生は事務員だけ
です。それに金庫なんか置いてありました。空襲後は何か開
けっぱなしになったままでしたが (笑)。
 ――じや、古賀さんの所には兵隊はいなかったんですか。
さっき首里の牧師さんのお宅に戦車部隊長がいたとおっしゃ
ってたんですが、そういうことはなかった?
 古賀 ええ、そういう形でならうちにもいましたよ。部隊
としてはいませんでしたが。海上保安庁みたいな所の部隊長
――大尉ぐらいですがね――。その部隊は商船会社の二階に
いましたが、部隊長はうちで寝泊まりしていました。
 ――そういう人は、まあお客様扱いで‥…・
 古賀 ええ、まあそうですね。その人は、キスカでやられ
て、またこっちでもやられるのか、なんて言ってましたけ
ど……
 ――それは何か割り当てみたいに配置されるんですか。
 古賀 ええ、うちはそうでした。
(以上−136頁)



  ――大きな家には割り当てがあったわけですね。
 古賀 ええ、ええ。中馬さん、古野さん、新嘉喜さんとか
……大きい所で三人、小さい所で一、二人ぐらいだったんで
しょうか。
 それとね、たとえばあした船が出るというんで兵隊さんが
招集されて港に来たんだけれど、海上の具合が悪くて船が出
ないというときには、この近辺の家に割り当てがありまして
ね。たぶん畳数に応じてだと思いますが、兵隊の面倒を見て
いました。一度などの私の所に七十人の割り当てがあったん
です。七十人と言われてもね、お茶腕(茶碗)も私のとこにはせいぜ
い五十人分ぐらいしかないし、困っちゃうなあと思ってね…
まあ、実際には割り当てられたのは十八人ぐらいでした。十
八人といったってねえ、その人たちは五晩も泊って六日後の
朝に出ていかれたんですが……。まあ、その人たちは何日も
かかって、ようやく鹿児島に着くことができたそうなんです
が、うちに泊まった兵隊さんのなかには途中でやられてしま
った人たちもおりました。
 ――その兵隊さんは徴兵で?
 古賀 ええ。だからいい加減年輩の人も多かったですよ。
みんな地方から出てきた人でしてね。なかには、無事帰って
来られて、わざわざお礼に見えられた方もいました。
 ――そうすると、戦争中は、常にそういうことで駆り出さ
れていたんですか。
 古賀 あっちこっちから兵隊が送り込まれてきたときです
ね。そういうときは、ご飯作りやなにかでね。たとえば、一
俵のお米を一度に炊いたりね……料理の仕方や盛り付けも手
際よく早くできるように随分工夫をしましたよ。で、そうい
うのに取り出されるのは、たいていは女中がいて子供のいな
い人に眼がつけられてね、向うの方でちゃんと名簿なんかに
付けられていてね。たとえば私に電話がかかってきたら、私
から誰と誰に連絡をしろ、で、そこからまた、誰と誰に連絡
しろ、というふうにして、みんなが一度にいっしょに集まら
ないように、せいぜい二、三人のグループで、三々五々、港
に集まるんです。で、港の空いた蔵の中へナベやカマやお米
などを運び込んでね……まあ、話の外でしたよ。
 ――ご婦人方は、主にそういうことをされていたわけです
か。
 古賀 私は救急班長も六年間していました。なかには踊り
やなんかの慰問専門のグループもあったらしいですが……
(以上−137頁−上段1行〜下段16行)

author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 20:13
comments(0), trackbacks(0), - -
スポンサーサイト
author:スポンサードリンク, category:-, 20:13
-, -, - -
Comment









Trackback
url: http://senkakujapan.jugem.jp/trackback/103