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寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(14)

新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より

 


 □ 信州へ疎開
 ――で、さきほど首里の牧師さんのお宅に避難されたとい
うことですが、その後はどうなさったんですか。
 古賀 それがね、牧師さんのお宅にいた武部隊の戦車部隊
長が、私たちがそこへ行って間もないうちに、こう言われる
んです。「あした疎開船が出るから、当然疎開なされるでし
(以上−133頁−上段17行〜22行)

 


  よう。」すると主人が「いや、ぼくは父の代からこの土地で
お世話になっているから、疎開する気持ちは毛頭ありません。
家内も救護放としてお役に立てますし、どこにいてもお手伝
いはできますから」と言ったんです。そしたら、その部隊長
が「バカも休み休み言って下さい」と、怒鳴られるんですよ。
 で、「どうしてですか」と聞き返したら、「今の戦争は女
や年寄りに手伝ってもらってできる、そんな生やさしい戦争
だと感違いしないで下さい。それだけのお気持があったら、
あんた方二人が疎開したら二人分の口が兵隊にまわる。だか
ら口減らしのためだけでも疎開すべきだ」と言うんですね。
 主人は「失礼だ。そんなふうに取るなら、何で手伝うもの
か!」と言ってね、それで疎開したんです。今になって考え
ると、この部隊長は命の恩人だと思います。
  ――それは十月の何日でした。
 古賀 十月十七日だったと思いますが、二年ほど前からお
親しくしていたカモメの艦長が使者をよこされて、今度は疎
開なすったほうがよいでしょう、ということで、そのお船で
疎開しました。
  ――部隊長は以前からご存知でした?
 古賀 古仁屋に慰問に行ったときから海軍の方とは親しく
なっていましたから。みなさんが港へ交代で見えられるでし
ょう。そのたびに私たち、迎えに出ていたんです。女子青年
団のメンバーを呼んでは、お給事を手伝ってもらって、踊っ
たり三味線をしたり、一晩楽しくしてお帰りになっていまし
た。そのなかのお一人で、下士官をされていた人が、ちょう
ど空襲で焼けぼっくいで首里の疎開先を書いといたんですが、
それを見て、探し探し首里に来られたんです。
 で、いよいよ疎開というんで、ここの港に来たんですが、
砂糖やなんかたくさん積んであったのが焼けてしまってね、
一面に砂糖が溶け出して、歩くとべトべト、脚がそのなかに
埋まるんです。それで船に乗りました。船の中で、あんなに
砂糖があったらなあ……と思いましたよ。
 ――船は一般の疎開船ではないんですね。
 古賀 疎開船を四艘で警備していて、その四艘のうちの一
つでした。艦長は謡曲のお友だちでした。
  ――じや、他には疎開者は乗っていなかった?
 古賀 他には西の町内会の事務員と、それに艇長をやって
いた人が乗っていました。その人は四月十八日の東京空襲の
とき哨戒艇の艇長をしていて、かろうじて助かったんだと言
っていました。
 ――寄留商人の人たちは、だいたいいつ頃から疎開をして
いましたか。
 古賀 寄留商人は家族の方が疎開していましたね。
 ――いつ頃ですか。
 古賀 だいたい空襲の一年ぐらい前ごろからですかね。そ
れで、寄留商人の方は二、三人、たとえば番頭と息子、子女
(以上−138頁)



と母親というふうに、誰かが死んでも誰かが生き残れるよう
に、上手に割り振りして疎開させていました。
 ――じや、十・十空襲のあとには、もうほとんどの人が疎
開をしていたわけですね。
 古賀 だいたいそうですね。みなさん鹿児島、熊本、宮崎、
大分に行かれたんではないですか。
 ――で、古賀さんの疎開先は?
 古賀 私は須坂、その頃はまだ上高井郡井上村幸高といっ
てましたが、すぐ須坂市になりましてね。長野布から南へ三
里ばかりのところでした。そこでも古賀は、小学校なんかに
引っばられて、野球やなんかの指導をしていましたよ。
(以上−139頁−上段1行〜上段11行)

author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 20:21
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