RSS | ATOM | SEARCH
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author:スポンサードリンク, category:-,
-, -, - -
八重山でカツオ節製造のためのカツオ漁業
八重山写真帖ダイジェスト1
http://www.city.ishigaki.okinawa.jp/100000/100500/syasincyo/digest.htm


 八重山でカツオ節製造のためのカツオ漁業が始まったのは、明治三〇年代の終わり頃とみられる。沖縄本島から来た糸満漁師が始め、後に宮崎県のカツオ業者もやってきた。石垣島四カ村(登野城・大川・石垣・新川)西方の真喜良一帯をはじめ、与那国、波照間、鳩間、小浜および尖閣諸島を基地に漁が行なわれた。カツオ漁は、五月から九月中旬頃までで、漁場は平久保沖、屋良部沖、白保沖、波照間沖、尖閣沖などであった。 新聞記事によると、明治四〇年(一九〇七)のカツオ船は一二隻にすぎなかったが、大正三年(一九一四)には二〇隻となり、大正一三年(一九二四)には六〇隻にまで達している。カツオ節の移・輸出高も県全体の四分の一を占め、島の経済にも大きく寄与した。 昭和期になると、不況の影響や「南洋節」が出回るようになり、次第に不振となったが、太平洋戦争後は一時持ち直し、三三隻ほどの漁船が操業していた。それも昭和六〇年(一九八五)頃を境に下火になった。 カツオ漁は一隻に数十人が乗り込み、工場では多くの女性が働いた。そうした工場が戦後まで真喜良一帯に十数軒並んでいた。古賀辰四郎が開拓した尖閣諸島の魚釣島には、古賀村ができた。戦後の食糧難時代にはカツーヤー(カツオ節製造工場)で処分されたカツオの頭が、人びとの食卓を潤した時代もあった。大漁旗を揚げ、夕陽を背に帰るカツオ船の雄姿は、久しく島の風物詩でもあった。(文・三木健) 





金栄丸でのカツオ漁風景
金栄丸でのカツオ漁風景 
〔昭和13年〈1938〉6月1日。与那国島付近〕
写真提供・河村望

この写真を見て思い出した記事があった。
 「鰹節製造の為の鰹漁が開始されたのは1905 年頃である。それまでは糸満漁夫による延縄漁が小規模に営まれていた。「褒章資料」によると1905 年、古賀は内地に於いて鰹船3 隻を建造、宮崎県より熟練の鰹漁夫及節製造者数十人を雇入れ尖閣諸島での操業及鰹節製造を試みた。」結果は良好であったが、その年沖縄を襲った暴風で鰹船3 隻は破壊された。 翌1906(明治39)年、古賀は新たに鰹船5 隻を新造、「爾来一層ノ好成績ヲ収メツゝアリ」と述べている。

写真の昭和13年頃は沖縄の住民が一本釣りの鰹漁をしていたてものであろう。


 カツオ節をつくる婦人
カツオ節をつくる婦人 
〔昭和13年〈1938〉頃。鳩間島〕
写真提供・河村望

上の写真についてもこういう記事が思い出す。

 鰹節製造人は前述の通り、宮崎県から雇入れられたが、その後土佐節を製するにあたって1908年頃から四国方面の節削り女工に切り替わったようである。

それぞれ一枚の写真にも様々な歴史があるものだ。


引用は以下のものである。


http://npil.canpan.info/report_download.html?report_id=11376

検ノ療敲堝と古賀辰四郎、領有後の尖閣諸島における漁業(上)
無人島開拓認可〜藍綬褒章授与

−略−

・鰹漁と鰹節の製造
 鰹節製造の為の鰹漁が開始されたのは1905 年頃である。それまでは糸満漁夫による延縄漁が小規模に営まれていた。「褒章資料」によると1905 年、古賀は内地に於いて鰹船3 隻を建造、宮崎県より熟練の鰹漁夫及節製造者数十人を雇入れ尖閣諸島での操業及鰹節製造を試みた。結果は良好であったが、その年沖縄を襲った暴風で鰹船3 隻は破壊された。 翌1906(明治39)年、古賀は新たに鰹船5 隻を新造、「爾来一層ノ好成績ヲ収メツゝアリ」と述べている。

−略−

 鰹節製造人は前述の通り、宮崎県から雇入れられたが、その後土佐節を製するにあたって1908年頃から四国方面の節削り女工に切り替わったようである。
 「―第一漁夫等の此の島に在る員數は大凡百人にも近かるべし。鰹節製造人も又た其の外にあり。四國方面より雇入れたる節削(フシケズリ)の技術婦もあり。―」(「尖閣列島と古賀辰四郎氏6:漏渓」1908.06/21 より)。
 「―縣下の製造鎧佞和燭宮崎から来て居ます。初め鹿児島から雇ふた人達は、薩摩節を造り居ました。古賀様の如きは高知から雇ふて來たから高知節が出來た。―」(「沖縄教育第53 号:沖縄縣水産一班:大村八十八」1910.9 月より)
 1910 年09/27 付同紙記事「本県と鰹節(続):勝男武士」では、沖縄各地の鰹節の産地:尖閣列島、として同島産の鰹節は、主産地(高知県からだろか)より職人を雇い入れているため、形状や品質が甚だ宜しいと、かなり高く評価している。

−略−

鰹漁場としての尖閣諸島の有望性について、「褒章資料」では「―同列島ニ於ケル鰹漁ノ有望ナルコト第一ハ食餌ノ潤沢ナルト鰹ノ魚群ガ極メテ近岸ニマテ来集スルニヨリ必スシモ遠洋ニ出漁スルノ要ナキ等孰モ天与ノ好適地ナル―」と記している。他、1908 年に掲載された琉球新報連載記事「尖閣列島と古賀辰四郎氏(1)-(11)」で、著者の漏渓(宮田倉太※19)は久場島から魚釣島へと魚道(黒潮だろうか)が続くさまを目撃した旨を記し、またその魚道は和平山(魚釣島)から僅か十数町(約1.5〜2.0km)ほどしか離れていない為、尖閣諸島での操業は日に4 度の出漁が可能であり、「―列島中鰹の大漁に際しては一日六、七千尾以上一萬近かくの鰹魚の釣り上げらることもありと云ふ―」と述べている。
 漁場として有望な点をまとめると「沿岸には餌料が豊富なこと」、「漁場が根拠地から大変近いこと」。この2 点により、1 日に数度の出漁が可能である。これが当時尖閣諸島漁場の利点であったと考えられる。当時古賀以外の漁業者は鰹漁場としての同諸島をいかに捉えていたのか、判断できる資料は明らかでないが、1910 年にはこの時期、県の水産技手から鰹漁業者に転進した玉城五郎(※20)が尖閣列島久場島(魚釣島だと思われる)で鰹漁を試み16,495 尾の大漁を記録している(同年10/06 付沖縄毎日新聞記事「鰹の大漁」)。
 当時の尖閣諸島近海が鰹の好漁場であったことは確かであろう。が、東シナ海洋上の孤島という地理的条件を考えるに、古賀や前述の玉城の様に尖閣諸島を根拠地として操業し、同島で節を製造するという前提が必要である。石垣島や与那国島から出漁するには動力の問題(1910 年頃はまだ発動機付船が少ない)、保存の問題(八重山に製氷所が設置されるのは1928 年頃)といった技術的な問題が大きな壁となるため一部の漁業者だけが操業可能だったと推察する。

−略−
author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 23:00
comments(0), trackbacks(0), - -
スポンサーサイト
author:スポンサードリンク, category:-, 23:00
-, -, - -
Comment









Trackback
url: http://senkakujapan.jugem.jp/trackback/111