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八重山日報
文化財指定 一部に異論も 「領有権証明」の感謝状 尖閣
2012年9月28日
市の文化財に指定された「豊川善佐(とよかわぜんさ)宛尖閣列島遭難救助の感謝状」=写真提供・市立八重山博物館
中国が尖閣諸島(石垣市登野城)の領有権主張をエスカレートさせる中、中国が1920年に、尖閣諸島を日本領と認めていたことを証明する2通の「感謝状」の存在が改めてクローズアップされている。感謝状は今年1月、市の文化財に指定された。石垣市教育長の玉津博克教育長は27日、八重山日報社の取材に対し、文化財指定の経緯を振り返り、一部には異論があったことも明かした。玉津氏は「尖閣問題を荒立てるつもりはない。歴史的に価値がある資料だから文化財に指定する」と反論し、指定を実現させたという。
感謝状の文化財指定について語る玉津氏=27日午前、市教委
玉津氏が感謝状の文化財指定を表明したのは、2010年10月の就任直後、職員との懇親会の場だった。
尖閣諸島周辺で中国漁船の衝突事件が起き、日中の対立が激化している時期だった。職員の1人が「尖閣諸島の海は友愛の海にするべきだ。こんな時期に文化財指定するべきではない」と反対の声を上げたという。
感謝状の存在は周知の事実だったが、玉津氏の就任まで、文化財指定に向けた具体的な動きはなかった。関係者の1人は「関心がなかったせいかも知れない」と話した。
市文化財審議会は同年11月、市教委から諮問を受け、指定すべきかどうか審議したが、委員から「感謝状はほかにも出てくる可能性がある。発見を待ってから指定するべきだ」と慎重論が出たため、継続審議になった。
報告を受けた玉津氏は「悩んだ」というが、考えた末、指定の方針を貫くことを決め、改めて審議会に早期の結論を要請。審議会は12月、指定すべきと答申した。
「尖閣感謝状」国際アピールを 2通目、奇跡的発見 文化財指定書などを手に記念撮影する豊川敏彦さん(前列左から3番目)ら=今年1月10日、市教委
外務省の文書によると、感謝状は本来、7通存在していたという。10年までは、石垣村役場職員だった玉代勢孫伴宛ての感謝状しか見つかっていなかった。
資料では、1920年当時、石垣村長だった豊川善佐宛ての感謝状なども存在したことになっている。文化財指定に向け、玉津氏は再捜索を職員に指示。「(歴史研究家の)牧野清氏らが探しても出てこなかったが『あってほしい』という思いだった。職員からは、わがままだと思われたことだろう」と振り返る。
職員が豊川家を訪れ、再捜索したところ、善佐が残した古ぼけた箱の中から、感謝状が和紙に巻かれた状態で見つかった。ほかの巻き物と混ざった状態だったため、見つからなかったらしい。玉津氏は「奇跡的発見」と振り返り、子孫の豊川敏彦さんは「あれだけ探してもなかったのに」と驚いていたという。現存している感謝状が多ければ多いほど、歴史資料としての説得力も増すと見られる。
残る5通のうち1通は、尖閣諸島の開拓者、古賀辰四郎の子息である善治氏が72年の雑誌インタビューで「保存している」と語っていたが、その後の消息は分かっていない。台湾出身の通訳だったと見られる人物に宛てた感謝状も存在したが、子息は「引っ越しの際に紛失した」と明言している。その他の2通については、宛て先も分かっていない。
現存する2通が文化財に指定された当初は「中国や台湾が反発するのでは」という懸念の声もあった。しかし両国は感謝状の文化財指定について一切論評せず「黙殺」の姿勢を貫いている。玉津氏は「自分たちが出した公文書は否定できないので、あえて無視する戦略だろう」と見る。
中国の反論を封じる有力な「証拠」となりそうなだけに、国会でも政府に対し、感謝状の存在を国際的にアピールするべきだと求める声が出始めている。玉津氏は「尖閣諸島が沖縄県石垣市の行政区域であり、日本の領土であることを証明する貴重な文書だ。歴史的価値が高く、県指定、国指定の文化財に値する」と改めて強調した。
【尖閣列島遭難救護の感謝状】 1919年、中国の漁民が遭難し、尖閣諸島の魚釣島にあったかつお節工場の従業員らに救助された。翌年、中華民国駐長崎領事は、当時の石垣村長ら7人に宛てた「感謝状」を送付。文面には「日本帝國沖縄縣八重山郡尖閣列島」と明記されており、中国が尖閣諸島を日本領と認めていたことが分かる。