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尖閣諸島に関する中国史料の研究(一) −海道針経の考証を中心に− 三、「福建―琉球」針路記述の読み方

(※管理人 「山陽論叢」は山陽学園大学・山陽学園短期大学紀要委員が毎年編集・刊行している学術論文集で「尖閣諸島に関する中国史料の研究」については第24巻2017年〜第26巻2019年に掲載されている。)

 

「尖閣諸島に関する中国史料の研究」(1)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/e0c593ab2ef537fd893cdbe7bc68de30.pdf

「尖閣諸島に関する中国史料の研究」(2)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/9af11f1fcf7b9bc73310ebde99666403.pdf

「尖閣諸島に関する中国史料の研究」(3)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/1c9ed713db6f1e651a7d25fb2ce377fa.pdf

 

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山陽論叢 第24巻 (2017)

論文

尖閣諸島に関する中国史料の研究(一)

−海道針経の考証を中心に−

班  偉1)


三、「福建―琉球」針路記述の読み方

 

さて、『順風相送』『指南正法』『指南広義』といった海道針経には、「福建―琉球」針路が記されており、そこに登場する尖閣諸島関連の記述をどう読み解くかは、中台側の領有権主張の当否を考える上で重要な判断材料となる。以下、史料の原文を列挙、解析した上で若干の考証を加え、中琉航海史における尖閣諸島の位置づけを究明していきたい。

 

先ず、『順風相送』「福建往琉球」条から見てみよう。「北風東湧開洋、用甲卯取彭家山。用甲卯及単卯取釣魚嶼。......正南風梅花開洋、用乙辰取小琉球。用単乙取釣魚嶼南辺。用卯針取赤坎嶼。用艮針取枯美山。南風用単辰四更、看好風単甲十一更取古巴山、即馬歯山、是麻山赤嶼。用甲卯針取琉球国為妙。」(21)原文を訳すと、

 

「北風の時、東湧(福建東引島)を出帆し、甲卯針(北東82.5°)を用いて彭家山(台湾彭佳嶼)を過る。甲卯針及び単卯針(正東90°)を用いて釣魚嶼を過る。......南風の時、梅花(福建長楽)を出帆し、乙辰針(南東112.5°)を用いて小琉球(台湾島)を過る。次いで単乙針(南東105°)を用いて釣魚嶼の南を過る。単卯針を用いて赤坎嶼を過る。艮針(北東45°)を用いて枯美山(沖縄久米島)を過る。南風の時、単辰針(南東120°)を用いて四更、順風を見て単甲針(北東75°)を用いて十一更、古巴山を過ぎ、即ち馬歯山・麻山赤嶼(慶良間諸島)に至る。更に甲卯針を用いて琉球国へ渡るが良い。」

 

このように、海道針経の航路記述には出発する港から目的地まで辿り着くための様々な情報が盛り込まれているが、基本的に島嶼・針位・更数の三要素から構成される。航海中、通過する島は船の位置を確認し、航行の方角・航程を推算する目印となり、福建から琉球へ渡る場合、東湧(又は梅花)→彭佳嶼(又は小琉球)→釣魚嶼→赤尾嶼→久米島→慶良間諸島→那覇の六区間を島伝いして進んでいく順次になる。文中、古い地名や航海術の専門用語が多用されているが、「○○針」とは、「甲乙丙丁」「子丑寅卯」といった干支の文字を組み合わせて航行の方位・方角を示す羅針盤の目盛である(すなわち、地球の周囲を360°とし、水平線を48等分して7.5°おきに盤面の縁に付けた刻み)。「○○更」とは、航程・距離を測る単位で、「一更六十里」「一昼夜十更」など幾つかの測定法がある。「取」とは「目指す」「過る」といった意味だ。上の史料を見れば分かるように、「釣魚嶼」「赤坎嶼」の記載は、航海の目印として「福建―琉球」航路に点在する飛石のような島々を書き記したものに外ならず、「彭家山」「小琉球」「枯美山」「馬歯山」への言及と同様、領土領海の意識など微塵もない。それもそのはずで、当時台湾(文中の「小琉球」)でさえ、明朝から「化外之地」と見なされ、清朝の版図に併合されたのは1684年のことだった。

 

  次いで、『指南正法』「福州往琉球針」条も検討してみよう。「梅花開舡、用乙辰七更取圭籠長。用辰巽三更取花矸嶼。単卯六更取釣魚台北辺過。用単卯四更取黄尾嶼北辺。甲卯十更取枯美山。看風沉南北用甲寅、臨時機変。用乙卯七更取馬歯北辺過。用甲卯寅取濠㶚港、即琉球也。」(22)原文を訳すと、「梅花を出帆し、乙辰針(南東112.5°)を用いること七更、圭籠長(台湾基隆嶼)を過る。辰巽針(南東127.5°)を用いること三更、花矸嶼(台湾花瓶嶼)を過る。単卯針(正東90°)を用いること六更、釣魚台の北を通り過る。単卯針を用いること四更、黄尾嶼の北を過る。甲卯針(北東82.5°)を用いること十更、枯美山を過る。南北の風が静まるのを見て甲寅針(北東67.5°)を用い、臨機応変に対処する。乙卯針(南東97.5°)を用いること七更、馬歯山の北を過る。甲卯寅針(北東60〜90°)を用いて濠㶚(那覇)港に着けば、即ち琉球だ。」

 

『順風相送』の記述と比べて、福建の海岸から出発して那覇まで一続きの六つの区間を進む順次が同じで、経過する島や二地点間の針位の記述もさほど変わらない。ただし、風向の表記が省かれ、「更数」がより詳しく記されている。「釣魚嶼」の名称が「釣魚台」に変わり、「赤坎嶼」の代わりに「黄尾嶼」が登場していることが目を引く。

 

なお、『順風相送』には「琉球回福建」条、『指南正法』には「琉球回福州針」条があり、「福建―琉球」航路の復路も併記している。もっとも季節風と海流の影響で、復路は往路より北寄りの海域を横断することになり、尖閣諸島の周辺を通らない。那覇→慶良間諸島→久米島→南杞山(浙江温州沖合の島)→台山(福建福鼎沖合の島)→官塘(福建馬祖列島)→定海(福建閩江口)へと航行するのが定番ルートだったが、久米島を離れると、中国沿岸の島嶼が現われるまで果てしない荒海をひたすら渡るだけで、目印になる島は見当たらない(23)。このように、『順風相送』『指南正法』において、「福建―琉球」航路の記載がそれぞれ往復一組のみで、尖閣諸島への言及も往路の二箇所しかない。情報量が少ないということは当時、渡琉の中国船がそれほど多くなかったことを物語っている(24)。

 

  それに対し、琉球文書『指南広義』には尖閣関連の記載が八個に上り、バラエティーに富んでいる。というより、『指南広義』の針路記載は専ら「琉球―福建」ルートに限定され、いわば「琉球―福建」航路の専門案内書と言ってよい(25)。『指南広義』を「中国史料」と呼ぶのは語弊があるかもしれないが、『針簿』など明清の海道針経を基に編集した後、1708年に福州琉球館で上梓された経緯に鑑みて、一顧の値が存すると思う。先ず、「針路條記」を見ると、『針簿』から抄録した四航路のうち、三条には「釣魚台」が登場する。

 

 嵎―1琉球:東沙外開船、用単辰針十更取鶏籠頭、北過花瓶嶼並彭家山。用乙卯並単卯針十更取釣魚台、北過前面黄麻嶼。北過用単卯針四更黄尾嶼。北過用甲卯針十更赤尾嶼。用乙卯針六更古米山。北過用単卯針馬歯山。北過用甲卯及甲寅針収入那覇港、大吉。」(26)訳すと、「福州から琉球へ渡るには、東沙(福建東沙島)を出帆し、単辰針(南東120°)を用いること十更、鶏籠頭(台湾基隆嶼)を通り過ぎ、花瓶嶼並びに彭佳嶼の北を過る。乙卯針(南東97.5°)並びに単卯針(正東90°)を用いること十更、釣魚台へ向かい、前面の黄麻嶼の北を過る。単卯針を用いること四更、黄尾嶼の北を過る。甲卯針(北東82.5°)を用いること十更、赤尾嶼を過る。乙卯針を用いること六更、古米山(沖縄久米島)を過り、単卯針を用いて馬歯山の北を過り、甲卯針(北東82.5°)と甲寅針(北東67.5°)を用いて那覇港に入れば、大吉。」

 

◆嵋堯五虎門開船、取官塘、東獅。用辰巽針十五更、小琉球頭。北過用乙卯針十五更、釣魚台。北過隴単卯針十更、赤洋。又単卯並甲卯十二更、古米山。用単卯兼乙卯至那覇港。」(27)原文を訳すと、「五虎門(福建閩江口)を出帆し、官塘、東獅(福建馬祖列島)を過る。辰巽針(南東127.5°)を用いて十五更、小琉球頭(台湾基隆嶼)の北を過る。乙卯針(南東97.5°)を用いて十五更、釣魚台の北を過る。単卯針を用いて十更、赤洋を過る。単卯針並びに甲卯針を用いて十二更、古米山を過る。単卯針と乙卯針を用いて那覇港に入港。」


「漳州往琉球:太武開洋、用単艮針七更烏坵。用艮寅針四更牛山。又用艮寅五更東湧山。用単辰針、如西南風用乙辰針、東南風用辰巽針八九更小琉球、鶏籠嶼、外平彭家山。如南風用単卯針、東南風用乙卯針十更釣魚台。北過、南風単卯四更黄麻嶼、赤礁。北過、南風単卯並甲寅針、又用艮寅、東南風用甲卯針十五更古米山。北過、南風単卯及甲卯針四更馬歯山、甲卯三更収入那覇港口。」(28)原文を訳すと、「漳州から琉球へ渡るには、太武(福建太武山)を出帆し、単艮針(北東45°)を用いること七更、烏坵(福建烏丘嶼)を過る。艮寅針(北東52.5°)を用いること四更、牛山(福建平潭牛山島)を過る。また、艮寅針を用いること五更、東湧山を過る。単辰針(南東120°)を用いて、西南風なら乙辰針(南東112.5°)、東南風なら辰巽針(南東127.5°)を用いること八、九更、小琉球、鶏籠嶼、彭家山を通り過ぎる。南風なら単卯針、東南風なら乙卯針を用いて十更、釣魚台の北を過る。南風なら単卯針を用いて四更、黄麻嶼、赤礁の北を過る。南風なら単卯針並びに甲寅針また艮寅針、東南風なら甲卯針を用いて十五更、古米山の北を過る。南風なら単卯針及び甲卯針を用いて四更、馬歯山を過る。甲卯針を用いて三更、那覇港に収める。」

上の三つの史料を読み合わせると、航路途上の島々の名前が出揃い、「福建―琉球」航路に関する最も完備した記録のように思えるが、「黄麻嶼」と「黄尾嶼」、「赤尾嶼」と「赤洋」「赤礁」など、同じ島を指すと思われる異なる名称が混用されており、いささか混乱が生じている。複数の海道針経から寄せ集めた情報を併記したためかもしれない。同じ島でも、船乗りによって違う名前を付けられることがあり得る話だ。なお、『針簿』から抄録したもう一つ「回福州」条も見過ごしてはならない。

 

ぁ崕酬扈銃巳時出那覇港、用申針放洋、用辛酉針一更半、見古米山並姑巴甚麻山。......見南杞山、......取台山、......収入定海。」(29)原文を訳すと、「十月十日十時、申針(南西240°)を用いて那覇港を出帆する。辛酉針(北西227.5°)を用いること一更半、古米山と姑巴甚麻山を見る。......南杞山を過る。......台山を過る。......定海に収める。」ここで、「姑巴甚麻」(クバシマ=久場島)という名称が使用されている。那覇や久米島との間隔・距離から考えれば、「黄尾嶼」(久場島)ではなく、慶良間列島の久場島を指していると思われるが、中国名ではなく、琉球名の音読で表記したことに留意すべきだ。一方、『三十六姓所伝針本』から抄録した十航路のうち、「釣魚台」が四条に登場する。

 

ァ嵶圧絮福州:......又三月、古米山開船、用辛酉針十五更、又用単酉二十更見釣魚台。又単酉針七更取彭家山。又用辛酉針取官塘。」(30)訳すと、「琉球から福州へ渡るには、......三月、古米山を出帆し、辛酉針(北西277.5°)を用いること十五更、単酉針(正西270°)を用いること二十更、釣魚台を見る。また、単酉針を用いること七更、彭家山を過る。辛酉針を用いて官塘を過る。」この史料を含めて、「琉球往福州」の針路が六本もあるが、いずれも「古米山開洋」と書き出し、「二月」「三月」「成化二十一年九月二十四日」といった年月日まで記されているので、琉球貢船の日誌であろう。ここには、「琉球―福州」往路(中国船からすれば復路になる)も尖閣諸島を過ったことが示されている。福建へ帰帆する中国船が北寄りの航路を辿るのに対し、往路も復路も尖閣諸島の周辺を通過する琉球船に関するこの史料は、史実の一端を示唆しているように思えてならない(31)。

 

Α嵎―2麥圧紂梅花及東沙開船。若正南風、用乙辰針十更取小琉球頭、便是鶏籠山圓尖。又用乙辰五更、花瓶嶼並彭家山。又用単乙七更取釣魚台。離開流水甚緊、北過、用乙卯並単卯針四更烏嶼。前面黄毛嶼。北過、用単卯針十更取赤嶼。北過、用卯針十五更取古米山。北過、用単卯針三更取馬歯山。用甲卯並甲寅三更収入那覇港、大吉。」(32)訳すと、「福州から琉球へ帰帆するには、梅花ないし東沙を出帆し、南風の時、乙辰針(南東112.5°)を用いること十更、小琉球頭を過ぎ、鶏籠嶼の山頂が見える。引き続き乙辰針を用いること五更、花瓶嶼並びに彭家嶼を過る。また、単乙針(南東105°)を用いること七更、釣魚台を過る。......乙卯針(南東97.5°)並びに単卯針(正東90°)を用いること四更、烏嶼、前の黄毛嶼の北を過る。単卯針を用いること十更、赤嶼の北を過る。単卯針を用いること十五更、古米山の北を過る。単卯針を用いること三更、馬歯山を過る。甲卯針(北東82.5°)並びに甲寅針(北東67.5°)を用いること三更、那覇港に入る。」ここで「回琉球」という表現が使われているが、福州に渡った琉球人からすれば、琉球への帰帆は正に「回」(帰る)になる。ちなみに「烏嶼」とは、多分「鳥嶼」の誤字で、場所未詳だ。

 

А嵋堯東湧山開船、北風、甲卯針取彭家山。若南風、用甲卯並乙卯針取釣魚台。北風、用甲卯並乙辰針取太平山、即宮古島。」(33)訳すと、「東湧山を出帆し、北風なら甲卯針(北東82.5°)を用いて彭家山を過る。南風なら甲卯針並びに乙卯針(南東97.5°)を用いて釣魚台を過る。北風なら甲卯針と乙辰針(南東112.5°)を用いて太平山、即ち宮古島を過る。」Δ汎瑛諭◆嵎―2麥圧紂弯墨の一つだが(全部で四本)、東湧山→彭家山→釣魚台→宮古島→那覇というシンプルな直行航路として、他航路にある鶏籠頭・黄尾嶼・赤尾嶼・古米島・馬歯山といった途中の島々を過らず、更数も記されていない。ここから、「琉球―福建」間を行き来する琉球船は複数の航路を利用したことが分かる。

 

─嵋堯釣魚台開船、北風、辰巽針取北木山尾、小琉球頭。又用乙辰針取沙洲門。又用乙卯針取太平山。太平山開船、用艮寅針直取那覇港口大吉。」(34)訳すと、「釣魚台を出帆し、北風なら辰巽針(南東127.5°)を用いて北木山尾(八重山)、小琉球頭を過る。また、乙辰針(南東112.5°)を用いて沙洲門を過る。また、乙卯針(南東97.5°)を用いて太平山(宮古島)を過る。太平山を出帆し、艮寅針(北東52.5°)を用いて真っ直ぐ那覇港を目指す。」「釣魚台開船」というのは他の針経に見られない独自の記述だ。「沙洲門」の場所は不明だが、『按針似看山譜』の「鶏籠山」見取り図には、「小琉球」の手前に「是圭籠  沙門岐頭門」と書き込まれた島図が載っている。もっとも、釣魚台→八重山→小琉球頭→沙洲門→宮古島→那覇という航路記載は迂回が多く、不自然に思える。いずれにせよ、『針簿』から抄録した四本の航路は本家の海道針経に依拠しているとすれば、『三十六姓所伝針本』による十本の航路は、程順則をはじめ琉球進貢使・乗組員たちが自身の航海体験に基づいてアレンジしたものではないかと推察がつく。

ところで、『指南広義』にある「海島図」を見ると、そこに書かれた島嶼の名称と配列が「針路條記」の記述と食い違っている。図面の右から、鶏籠嶼→二林山(未詳)→花瓶嶼(花瓶の形に描かれている)→梅花嶼(台湾綿花嶼、梅花の形)→釣魚台・黄尾嶼・赤尾嶼(三つの島がくっ付いて聳え立つ山容)→古米山→馬歯山→琉球中山......という構図になっているが、「黄麻嶼」は欠如している。また、「海島図」の末尾に地名一覧があり、紙面の下方に「福州五虎門」を中心に福建・浙江・江蘇など中国沿海の島名がずらりと並べられ、上方には「琉球中山」を中心に琉球・九州の島々が書かれている。その右の横に「福建―琉球」航路に点在する島々が斜めに書き込まれ、鶏籠頭→花瓶嶼→梅花嶼→彭家山→釣魚台→黄尾嶼→赤嶼→古米山→馬歯山の順次となっている (35)。複数の海道針経から寄せ集めた情報が入り混じっているように思える。

 

いずれにせよ、『順風相送』と『指南正法』では、尖閣関連の記載がそれぞれ一箇所のみで、しかも往路に限られている。それに対し、『指南広義』の関連記載が八個あり、往路と復路の両方に出ている。それに、前者は「福建→台湾→尖閣諸島→久米島→那覇」という単純な航路しか記していないが、後者の記述は通常航路の他に、「八重山経由」「宮古島経由」「釣魚台開船」と多種多様だ。この事実は、尖閣周辺の海域に関する熟知度といい、渡航の回数といい、琉球船の方が中国船を凌駕していたことを示唆していると言えよう。では、明清時代における中琉海上交流の規模と頻度は、どのようなものだったのだろうか。

 

周知のように、明清王朝は周辺諸国に対して朝貢を促す反面、自国民の海外渡航や貿易を厳禁する海禁令を繰り返し発布した。このため、当時の対外貿易と言えば、基本的には朝貢の形を取って行われる官営貿易に限定されたものである。1372年から1866年までの約五百年の間、明清両朝の琉球冊封使の派遣は計23回に上り、毎回船2隻、五百人前後の規模だった。その他に、「(嘉靖二十一年五月)、漳州人陳貴等私駕大舡下海通番、至琉球」といった密貿易船や漂着船もいただろうが(36)、実態不明だ。片や琉球国から中国に派遣された使節船の隻数と言えば、明代493隻、清代349隻、計842隻に上る。「進貢使」の他にも、「接貢使」「請封使」「謝恩使」「慶賀使」「護送使」など様々な名目を使った中国渡航があって、各種の琉球貢船に搭乗した乗組員の延べ人数は計9万4876人という試算がある(37)。また、琉球外交文書集『歴代宝案』に記録された勘合番号を調べた結果、康熙二年(1663)から同治六年(1867)まで二百余年の間、計454枚の渡航証明書が貢船に発給されたという(38)。これほど頻繁に渡航を繰り返していた琉球側は中国側より豊富な航海経験を有し、尖閣諸島に関して圧倒的な情報量を持っていたとしても、不思議ではあるまい。現に、「琉球針路、其大夫所主者、皆本於『指南広義』」という徐葆光の証言があるのだ(39)

 

上の諸史料を逐一検証すれば分かるように、「釣魚嶼」「黄尾嶼」「赤尾嶼」などの名称は、「福建―琉球」航路の目印として『順風相送』『指南正法』に見られるものの、いずれも片言隻語に止まり、島そのものに関する情報(例えば地形・景観・植物・水深・水産資源など)は皆無に等しい。中国人船員が航行中、針経を片手に甲板の上から釣魚島を眺めたり、メモを取ったりしていたとしても、あくまで自船の位置・航程・距離・方角を確認するためで、上陸や漁業などの行動を伴わない。当たり前のことだが、貿易船・冊封船の乗組員である彼らは漁師でも開拓民でもないので、航海標識以外に島に対して無関心のはずだ。

 

ともあれ、『順風相送』『指南正法』の文面から、領土・領海・領有権などの意識は全く読み取れず、明清朝廷による尖閣諸島占領・支配の動機も可能性も、もとより存在しない。何と言っても、陸地が見えない航海中、羅針盤を頼りに帆走する船乗りたちにとって、島は自船の位置を知るための最も確かな目印なのだ。中台の論客が「中国人は最初、釣魚島を発見、命名、利用した」と言い張るが、実際には、『指南広義』を著し、前後四回も中国へ渡航した程順則をはじめ、琉球の進貢使・船員(中には中国人移民の末裔もいたにせよ)の方が遥かに詳しい尖閣記録を書き残した。つまり、琉球の人も中国人とほぼ同じ時期に「釣魚島を発見、命名、利用した」のである。もちろん、「釣魚島の発見、利用」と言っても、コロンブスによる新大陸の発見とは訳が違い、あくまで航海の目印としての「発見」「利用」である。海道針経の史料を素直に読む限り、領有意思を示す字句も「開発」「経営」「管理」「支配」を示唆する内容も皆無、という事実は否定できまい。

 

 


 

(1)尖閣諸島に関する明清史料は、々匈せ愼扈颪粒て賛坊亅∈封使が著した使琉球録O奏簑从書・海防書ぢ耋冀亙志ジ澱録泙慮渕鑪爐紡臺未任る。本稿は史料研究シリーズの第一弾で、既刊した論考として、「明清史籍における“釣魚嶼”の位置づけについて」(『山陽論叢』第19巻、2012年)、「清代台湾地方志の“釣魚台”記載について」(『山陽論叢』第21巻、2014年)を御参考頂きたい。なお、本稿では、中台側の論点を取り上げるに当たり、煩雑さを避けるために出処を省くことを断っておく。

★(管理人)「明清史籍における“釣魚嶼”の位置づけについて」(『山陽論叢』第19巻、2012年)、
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/cac625dbc7635f27a171992294034a05.pdf

★(管理人)「清代台湾地方志の“釣魚台”記載について」(『山陽論叢』第21巻、2014年)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/860d94c30a77cc579bfcfe376b6ce297.pdf

 

(2)尖閣諸島の中国名が幾つもある。「釣魚島」は主に中国で使用されているのに対し、「釣魚台」ないし「釣魚台列嶼」は専ら台湾・香港・海外華人社会で使われている。一方、明清航海文書における島名表記の傾向として、明代に使用された「釣魚嶼」は清代に入ってから、「釣魚台」に変わり、「黄麻嶼」「黄毛嶼」「黄茅嶼」は「黄尾嶼」、「赤坎嶼」「赤嶼」は「赤尾嶼」に統一されるようになった

 

(21) 向達校注『両種海道針経』中華書局、1961年、96頁。

 

(22) 同上、168頁。

 

(23) もっとも、慎懋賞『四夷広記・東夷広記』を繙くと、「兵庫港回琉球並漳州針位」には「......用辛酉針三更船、取粘米山。開洋、南辺過船、用乾戌四更船、用単乾針六更舡、取赤嶼。用単庚及単酉十更船、取黄麻山。用単酉針四更船、取釣魚嶼。用単酉針十更船、取彭佳山。用単卯針一更船、取鶏籠嶼。用単戌針八更船、取東湧山。用単申針、取牛嶼。用坤申針四更船、取烏坵山。用単坤針七更船、取太武山、是漳州為妙也」という復路も載っている。前掲『渡海方程輯注』、20頁。『四夷広記』デジタル資料:http://www.world10k.com/blog/?p=1643  

 

(24)清朝琉球冊封使汪楫は、『使琉球雑録』(1684年)の中に「在昔番舶時通各国、皆有程図、転相伝写。独琉球無定本、以国貧乏無土産、商賈不往故也」と記す。原田禹雄訳注『汪楫  冊封琉球使録三篇』榕樹書林、1997年、341頁。

 

(25)進貢副使という職業柄、程順則は『指南広義』を編集するに当たり、自ら四回も渡航した「琉球―福建」航路を重要視し、それ以外の針路情報を割愛した。彼は巻末「引言」で次のように述べている。「余留心針法久矣。......今得此巻、実獲我心者。旧本顔曰針簿、嫌其俗也。今改為指南広義。......改正旧本、非出臆見、必参考群書、方敢増減、庶無不根之言。......東西二洋等処、為我国所不到之地。旧本悉有画図、帙頁繁多、今儘略之。惟自我国至福建、一路山形水勢、依様絵之、以備査考。」(訳:私は以前から針経情報に留意していたが、......今回やっと入手できた。もともと『針簿』という題名だが、その俗称を嫌い、『指南広義』と改めた。......古い写本に校訂、編集を加えても、決して恣意的ではなく、関連書物を参考しながら取捨選択をした。根拠ない話など一切載せない。......東洋と西洋は我が国から至らない場所なので、元々あった海図など煩雑な部分を省いたが、福建渡航の針路だけは今後の参考にするため忠実に書き写した。)史料原文:http://www.world10k.com/blog/?p=2059

 

(26) 同上。また、『按針似看山譜』の「福州往琉球針」条(12頁)はこれと類似する。

 

(27) 同上。

 

(28) 同上。また、『按針似看山譜』の「漳洲往琉球併長崎」条(12〜13頁)はこれと類似する。

 

(29) 同上。また、『按針似看山譜』「琉球回福州針」条(12頁)はこれと類似する。

 

(30) 同上。その次の条に「成化二十一年九月二十四日午時、古米山開洋」とあり、『三十六姓所伝針本』の成書年代を示唆している。成化二十一年は1486年に当たり、「遣閩人三十六姓至中山」とされる洪武二十五年(1392年)より約百年後ということになる。従って、『三十六姓所伝針本』の内容は、福建移民が琉球まで持ってきた針本そのままではなく、約一世紀の間、琉球の進貢使・船員として中国に派遣された末裔たちが自らの渡航経験に基づいて加筆した情報も多く含まれる可能性が高い。

 

(31) もちろん、琉球船も帰帆する中国船と同じ北寄り航路を辿ることがあったろう。乾隆十五年頃(1750)に琉球に漂着した山東出身の商人白世泙編集したと思われる『白姓官話』には、琉球通事鄭世道が中国人漂流民の質問に答え、進貢船の渡航ルートを説明する場面がある。「在那覇港開船、収馬歯山。馬歯山的柴火很便、到那裡備辧了柴火、然後開船、過馬歯山去。還有古米山可収。再過古米山去、進了大洋、就没有地方可収了。路上還有四個小島子、也没有抛椗湾船的地方。只等望見那福建的山頭、才収進五虎門去了」という。瀬戸内律子著『白姓官話全訳』明治書院、1995年、146〜147頁。

 

(32)『指南広義』デジタル資料:http://www.world10k.com/blog/?p=2059(33) 同上。

 

(34 ) 同上。

 

(35) 同上。「海島図四」の地名一覧を見ると、「福州五虎門」系列と「琉球中山」系列の間、「釣魚台」などの他に、「彭湖」、「紅荳嶼」(台湾蘭嶼)、「沙馬崎頭」(台湾猫鼻角)、「北木山」(八重山諸島)、「太平山」(宮古島)などの島名も書き記されている。ちなみに、『按針似看山譜』にも尖閣諸島を記した海島図が三枚あり(23頁、43頁、53頁)、『指南広義』「海島図」の構図に似通っている。

 

(36)『明世宗実録』巻二六一、台北中央研究院歴史語言研究所、民国54年、5200頁。

 

(37) 赤嶺誠紀『大航海時代の琉球』沖縄タイムス社、1988年、13〜17頁。

 

(38) 松浦章『清代中国琉球貿易史の研究』榕樹書林、2003年、122頁。

 

(39) 徐葆光『中山伝信録』巻一「前海行日記」、『台湾文献叢刊』第306種、台湾銀行経済研究室編印、民国61年、14頁。

 

 

author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 07:51
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