RSS | ATOM | SEARCH
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author:スポンサードリンク, category:-,
-, -, - -
古賀辰四郎と大阪古賀商店(四)  尖閣列島開拓の時代 

『南島史学』第35号 南島史学会 1990年
望月雅彦 「古賀辰四郎と大阪古賀商店」


  (四) 尖閣列島開拓の時代

 この時代は明治二十八年(一八九五)、古賀辰四郎が沖縄県に本籍を移転してより、藍綬褒章が下賜される明治四十二年(一九〇九)までの約十四年間を指す。明治二十八年(一八九五)四月十九日付で前述の大阪市西区より沖縄県那覇区字西九十六番地に移転した。この事実は、那覇寄留の時代にピリオドを打ち、一生涯を沖縄県における事業、すなわち尖閣列島開拓経営を中心とした沖縄県の海陸産物の開発、品質の向上に捧げようという決意の表われと考えられる。『藍綬褒章資料』によると、

  「本人ハ先ヅ無人島探検及ヒ其ノ経営ガ尋常ナル準備ノ下ニ行
 ハルヘキニアラサルヲ知リ其初志ヲ確実ニ貫徹センガ為ニハ永住
 的経営ヲ為スノ必要ヲ認メ明治二十八年四月本籍ヲ此ノ地ニ移シ
 専心斯業ニ従事スルコトトセリ」とある。

 本籍移転の時点では、まだ尖閣列島開拓の認可はおりていない。明治二十七、八年の戦役(日清戦争)が日本側勝利に終り、明治二十八年(一八九五)四月十七日の下関条約日清講和条約及び付属議定書調印の直後に本籍を移転したという事実は非常に興味深い点である。
 『藍綬褒章資料』には尖閣列島開拓認可にいたる経過は次のように記されている。

  「明治二十七年同嶋開拓ノ認可ヲ本県ニ出願シタリ然ルニ当時
 全島ノ所属ガ帝国ノモノナルヤ不確定ナリトノ理由ヲ以テ却下セ
 シニツキ更ニ本人ハ内務農商務両大臣ニ宛テ願書ヲ提出セリ而シ
 テ傍ラ上京シテ視察ノ実況ヲ親シク具陳シ開拓ノ認可ヲ懇願セシ
 モ尚ホ許可ヲ与へラルルニ至ラサリシガ時偶々明治二十七、八年
 戦役ハ終局ヲ告ゲ皇国大捷ノ結果トシテ台湾島ハ帝国ノ版図ニ帰
 シ尖閣列島亦我ガ所属タルコト明治二十九年勅令第十三号ヲ以テ
 公布アリタルニヨリ直チニ重ネテ同島開拓ノ認可ヲ本県ニ出願シ
 同年九月之ガ認可ヲ与へ茲ニ漸ク本人ガ同島ニ対スル多年ノ宿志
 ヲ遂クルコトヲ得タリ」とある。

 日清戦争の勝敗の帰趨によって、尖間列島開拓の認可が受けられるものと事前に察知していたとも考えられる。明治二十九年(一八九六)九月、尖閣列島開拓の認可を受け本格的に開拓に着手することになる。尖閣列島開拓は古賀辰四郎個人の事業でほなく、古賀ファミリーの事業であるすなわち、古賀国太郎・与助(辰四郎の兄)・辰四郎・弟光蔵そして尾滝延太郎(辰四郎の甥)の共同事業である。

 明治二十九年(一八九六)には伊沢矢喜太(※12)を雇い入れ、尖閣列島の本格的開拓に備えた伊沢矢喜太は古賀辰四郎と同時期か、それ以前、尖閣列島に注目し開拓を志していた者である。「沖縄県庁が出雲丸を雇ひ入れ吏員を之に搭乗せしめ実地に探検(ママ)したることありたるより、伊沢某なるもの私かに之れが経営を試みんとして奔走に勉めたることなきにあらずと雖ども、然かも其奔走は強ちに効を奏せざりし(※13)」

 伊沢矢喜太が古賀辰四郎より劣っていたために、尖閣列島開拓に成功を得られず、雇い入れられたのではなく、辰四郎のようにファミリーの支援体制がなかったために、個人での開拓を断念せざるを得なかったのであろう。換言するならば尖閣列島開拓は個人の事業としては手に余るものであることを、伊沢が証明していると言える。尖閣列島渡航の経験もある伊沢の参加はそれ以後の列島開拓に大きな力となったものと思われる。

 尾滝延太郎(辰四郎の甥)も明治三十年前後より辰四郎のもとで尖閣列島開拓に協力していたのである。「其後、明治二十九年に至り古賀辰四郎氏前記伊沢を雇入れ、付するに糸満漁夫十数名を以て同島に派遣し(中略)翌三十一年には大阪商船会社汽船須磨丸を特に黄尾嶼へ寄航せしめ移住労働者二十八名を送れり、同氏の甥、尾滝延太郎氏又渡島し、専ら該島の計画に力めたり、尖閣列島のやや精細なる地図あるは氏力多に居る(※14)」

 古賀辰四郎の尖閣列島開拓は当時の沖縄に在留していた人々の目にどのように写ったのか『藍綬褒章資料』より引用してみたい。

  「県民ノ一部ニハ本人ガ今回ノ計画ヲ以テ軽躁無謀ノ業ナリト
 非難詆笑シ或ハ悪言ヲ流布スルモノサへ現ハルルニ至り」とある。

 当初、成功を危まれていた尖閣列島の開拓も幾多の困難を克服し、年々成果を見るに至るのである。この時代における尖閣列島開拓以外の事業について、特筆すべきものを上げると次のようになる。(一)明治三十二年(一八九九)十一月、奈良原沖縄県知事に随行して南清各方面及び香港等に於ける海産物の状況を視察する(※15)。この南清貿易調査の視察旅行は古賀辰四郎が計画したと思われる節がある。「不馴の土地の失策話位の土産の頂上、知事一行及古賀氏を本役者と見立問の者に出さる我らが当然の職務として(※16)」

 古賀辰四郎自身にとっては、自からがあつかっている海産物を、南清方面へ直輸出する方法を確立するためであったと思われる。(二)明治三十七年(一九〇四 )七月、辰四郎は広運株式会社取締役に選出され就任することとなる(※17)。広運株式会社は尚家資本の海運会社であり、辰四郎は沖縄の海運業界にも影響力を持つこととなる。(三)明治三十八年(一九〇五)七月、沖縄興業株式会社監査役(※18)に就任す。沖縄興業株式会社は貯蔵食品、砂糖の製造販売を目的とする会社である。

 これまでの沖縄県における古賀辰四郎の事業に対し、明治四十二年(一九〇九)、褒章条例第一条に拠って藍綬章が下賜される。『藍綬褒章資料』によると

  「一般水産業ノ進歩ニ資シ漁民ヲ稗補スル事尠カラス洵ニ公衆
 ノ利益ヲ興シ成績著明ナリトス」(傍点、引用者)とある。


______________________________________________

〔注〕

(※12) 伊沢に関しては、高橋庄五郎『尖閣列島ノート』青年出版社、一九七九年十月十五日発行に詳記されている。同著では」伊沢矢喜太ではなく弥喜太であるとしているが、明確な資料の提示がないので、拙論では矢喜太を採用した。

(※13) 『石垣市史』資料編近代四、新聞集成(三五七ページ)上段

(※14) 宮嶋幹之助『地学雑誌』第十二輯第一四四巻、「黄尾島」、明治三十三年。

(※15) 『藍綬褒章資料』履歴書

(※16) 『琉球新報』明治三十二年十二月一日付

(※17) 『藍綬褒章資料』履歴書、古賀辰四郎は明治三十七年、広運株式会社取締役就任以後、大正五年、沖縄広運株式会社が買収されるまで継続して、尚家資本の海運会社に関係し、沖縄の海運業界に影響力を持つわけであるが、尚家資本の海運会社については、『沖縄県史』別巻、沖縄近代史辞典、「沖縄広運株式会社」の項目(一一八ページ)、『那覇市史』通史編第二巻「第七章、第三節広運会社と沖縄銀行」(一八五ページ)に記述されているが、両者共、誤まりがある。
   『沖縄県史』では「再び航路同盟が復活したため、広運会社は経営不振に悩まされつづけた。一九一二年(大正元)一一月には社名を沖縄広運株式会社と変更し」(傍点、引用者)とあるが沖縄広運株式会社は大正元年に新規に設立された法人である。前身の広運株式会社は清算結了と共に法人格を失なってい る。単に社名を変更したのではない。
   『那覇市史』では「一八八七(明治二十)ごろ尚家資本をバックに沖縄広運株式会社を設立した。」「一九一六(大正五)広運会社もついに持株、事業いっさいを大阪商船に譲渡した」とあるが、明治二十年ごろ設立されたのは広運会社であり沖縄広運株式会社ではない。また、大正五年に大阪商船株式会社に譲渡されたのは沖縄広運株式会社である。
   尚家資本及び関連の海運会社の史的経過について誤解があるので、簡略にその経過を記してみたい。
   明治年十九年に尚家東京御邸で海運会社設立の協議がなされ、(『琉球新報』大正六年九月二十四日二十二面「二十五年前の海運界」知花朝章氏談参照)翌二十年ごろより広運会社として活動を始める。明治三十二年には商法が施行され同年八月二十六日にその商法に拠って八月二十八日に、広運株式会社として設立される。(『琉球新報』明治三十九年一月一日」本県会社一覧」参照)そして広運株式会社は大正二年二月に清算結了し法人格を失う。(『琉球新報』大正二年三月六日、広運株式会社清算結了広告参照)。沖縄広運株式会社は広運株式会社の資産を買収するかたちで大正元年に設立されるのである。(『琉球新報』大正二年四月二十六日、広運株式会社第一期営業報告貸借対照表参照)
   広運会社、広運株式会社、沖縄広運株式会社共に尚家関連の海運会社であるが明確に分ける必要がある。

(※18) 『藍綬褒章資料』履歴書





author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀辰四郎, 19:34
comments(0), trackbacks(0), - -
スポンサーサイト
author:スポンサードリンク, category:-, 19:34
-, -, - -
Comment









Trackback
url: http://senkakujapan.jugem.jp/trackback/86