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古賀辰四郎と大阪古賀商店(六)  二、古賀辰四郎と大阪古賀商店

『南島史学』第35号 南島史学会 1990年
望月雅彦 「古賀辰四郎と大阪古賀商店」


  二、古賀辰四郎と大阪古賀商店

 尖閣列島開拓を含む来島後の沖縄における古賀辰四郎の一連の事業は、辰四郎一人の事業ではなく大阪古賀商店との緊密な連携によるものである。現在までの調査研究では大阪古賀商店との関連において古賀辰四郎をとらえ論じたものを見出すことが出来なかった。しかし大阪の辰四郎の兄の存在を示すものはある。次に引用する二点である。(一)『琉球新報』明治三十三年十月一日付の寄留商人案内の記事によると「古賀辰次郎氏は大分県の人にして実兄与助氏は大阪にあり商業は主に海産物なるを以て久しき以前より糸満人を雇ひ無人島付近に於て漁猟をなさしめ且つ開墾事業を企ち居れり古賀商店の支配人は尾滝円太郎氏にして同氏は此程商業視察の為め古賀辰次郎氏と支部へ渡航し同地に於て英語研究の必要を感じ目下京都に於いて勉強中なりと云う(※24)」とある。(二)新崎盛暉編『沖縄現代史への証言』下、沖縄タイムズ社一九八二年発行、所載の辰四郎の長男善次の妻花子の証言である。

 古賀花子の証言の一部を引用してみたい。

 古賀 いえ、大阪の店からアメリカやなんかに送っていま
    した。
 ―― じゃ、古賀商店の本店は那覇にあって
 古賀 そうです。
 ―― 大阪は支店ということで?
 古賀 いや支店というより、辰四郎のお兄さんが大阪の店
    にいましてね。そこへ送り付けていました。そのお
    兄さんという人は、上等の鰹節なんかが入ると、東
    郷元帥に贈り届けたりしたそうですよ。すると執事
    の名前でお礼状来たそうなんです。でもほんとは執
    事はいなくて、ご自分でお書きになっていたらしい
    んです。字を比べてみたら、やっぱり東郷元帥の字
    だとか言っていました。
 ―― 大阪ではお兄さんがみて沖縄は辰四郎さんがみて・・・
    だから物を送るには大変便利であったわけですね。
          窓口があって(傍点、引用者)

 前出の『琉球新報』寄留商人案内では明治三十三年十月一日、当時大阪には実兄与助がおり、那覇古賀商店には尾滝延太郎が支配人をしていたことがわかるが、実兄与助が大阪のどこにいたのか、尾滝延太郎が辰四郎の甥であるかどうかは不明である。古賀花子の証言では、大阪に辰四郎の兄の店があり、その店より海外輸出をしていたことが解るが、兄の名前も、大阪の店(大阪古賀商店)の所在も知ることはできないのである。

 古賀与助の実在については、明治三十六年(一九〇三)第五回内国勧業博覧会(※25)において古賀辰四郎は海産物を出品し受賞するが、大阪より貝釦を出品、受賞者の中に古賀与助の名前があり、その住所は、古賀辰四郎の大阪における本籍と同一である。そのことにより大阪古賀商店の所在と前出『琉球新報』寄留商人案内の「実兄与助」と記載されていることにより辰四郎の二人の兄のうちの一人であることが確認できるのである。

 さらに大阪古賀商店を遡って調査していくと古賀国太郎という名前が出現する。大阪古賀商店・古賀国太郎・与助の名称は次の資料により見出すことができる。年代順に列記すると左記のようになる。

 〔声F鷭熟伺七月二十一日『大阪経済雑誌』大阪経済雑誌社(東大明治文庫所蔵)
 ¬声F鷭夙年『The TRADE DIRECTORY of KWANSAI』by SHINYEI−SHA、
 L声F鷭酋綰、同右
 ぬ声三十四年十二月『大阪商工人名録』府立大阪商品陳列所
 ヌ声三十五年十月『大阪人士商工銘鑑』大阪五二会館銘鑑発行所
 μ声三十八年四日『大阪商工人名録』府立大阪商品陳列所、
 明治四十年三月同右
 大正十年十二月『大阪営業別電話番号簿』十字屋出版部、(◆銑─国立国会図書館所蔵)
 大正十年『大阪商工名鑑』大阪市役所商工課編
 同大正十二年版、同大正十三年版、
 案餌臉欺集淒版、
 (〜押大阪府立中之島図書館蔵)

 まず古賀国太郎の存在について、,痢愨膾綏从兒┿錙戞別声F鷭熟伺)では営業主は古賀国太郎であり荷受問屋である。(広告,鮖仮函砲修譴◆↓の『The TRADE DIRECTORY of the KWANSAI』では貝穀専門の貿易商を衣替えしている事実である。(広告△鮖仮函砲海譴鰐棲里妨轍戝せ溶此米畴童轍貍ε后砲搬膾絽轍貍ε垢箸力携を示すものである。又明治二十六年には大阪市西区立売堀南通五丁目十二番屋敷にあった所在地が明治二十八年までには、大阪市西区西表堀北通五丁目八番屋敷に移転している点は非常に興味深い。この地区は玉造橋北詰と呼ばれ、広運会社(尚家資本の海運会社)の大阪出張所があり尚家の大阪における拠点の一つであった。

 尚家と古賀辰四郎の関係は、このころ明治二十年代にはすでにあったものと思われる。前述したように、後に古賀辰四郎は広運会社取締役に就任し沖縄の海運業に影響力をもつようになる。

 明治三十年代にはいると、古賀国太郎の名前に変わって、大阪古賀商店の営業主として古賀与助が登場する。この時期、何らかの事情により与助が大阪古賀商店を受け継いだであろうと推定することことができる。

 そして、それらの経緯により古賀国太郎は古賀門次郎の長男、すなわち辰四郎にとって長兄であり、与助は次兄であると考えるのである。

 前出した資料△茲雖までの大阪古賀商店の営業品目(表B膾絽轍貍ε后営業品目一覧表、参照)を見ても解るように、大阪古賀商店は古賀辰四郎(那覇古賀商店)の事業と不可分である。大阪古賀商店はの資料によれば大正未年頃まで商業活動を行なっていたことがわかる。

 次に那覇古賀商店と古賀支店(八重山)とについて述べる。明治十二年五月に古賀辰四郎は郵覇に本店を置いた。この記述から連想すると家印(商標)のついた暖簾が下り、小僧たちが立ち働き、店頭には商品が山と積まれていると考えがちであるが、初期の那覇古賀商店・古賀支店(八重山)共、現地駐在事務所のようなものであったと思われる。

 古賀辰四郎自身が古賀商店という名称を『琉球新報』の広告で使用し初めるのは、明治三十九年(一九〇六)からである。それ以前にも古賀辰四郎は「無人島出稼人募集」の広告を『琉球新報』に掲載するが、その際は古賀辰四郎個人としてであり「拙宅」という表現も散見する。那覇古賀商店が実質的に商店としての体裁が整ったのも、明治三十九年頃からである。八重山(石垣島大川)の古賀支店も明治十五年二月に置かれるが、暖簾すら出していない。その事実は次の記述から間接的に証明することができる。

 喜舎場永─愎慶増補、八重山歴史』によると「当時浜崎商店で印象深いのは、綿製布に■の商標のある「暖簾(ノレン)」を軒下につるしてあった事である。これが八重山に於ける「のれん」の始めである。」(四一五ページ)とある。浜崎商店は明治十八年、古賀支店の近く大川の海岸端に開店された。なお古賀支店(八重山)には附近の離島よ島民が海産を売捌きに来ていたとの調査報告(※26)もある。

 再び古賀花子の証言を引用すると

 ―― で、こちらに来られてお二人で、古賀商店をやられ
    るわけですが、主たるお仕事は陸海産物問屋それに
    海陸保険会社代理店ということですか。

 古賀 そうです。それで私が来たとき母といっしょでした
    が、いきなり来てみますと、店には何もないんです
    ね。で、母が何をしている店か聞くんです。それで
    私もよくわからないと言ったもんだから、母は「ど
    うして知らないところに来たのか、おまえは前にも
    沖縄にいたから、何もかも知っているのかと思って
    自分は信用して何も聞かなかったのに」と、ひどく
    驚いていました。今の人から見れば考えられないこ
    とでしょうけど、そんなものでしたよ。ああゆう所
    は船が入ると全部積んでいってしまって倉庫が空っ
    ぽになりますからね。そういうところへ、いきなり
    来たものですから……

 ―― お店には古賀さんは立たなかったですか。

 古賀 ええ、うちはその主義にしました。(傍点、引用者)


 再度、取り上げたのは大正八年(花子が嫁入りした年、古賀辰四郎死亡の翌年)当時の那覇古賀商店の状況を明らかにしたかった為である。花子は証言の中で嫁入りに来たが那覇古賀商店には何も(商品)なかった。又船が入ると全部積んでいってしまって倉庫が空っぽになると言っている。集荷した沖縄の物産を全部船積みしてしまう。そして大阪古賀商店へ送る。大阪古賀商店との関連で前述したように古賀辰四郎死亡後もそのパターンは基本的には変わっていないのである。



_________________________________________

〔注〕

(※23) 乙竹岩造『伝記御木本幸吉』講談社、昭和二十五年五月二十五日発行

(※24) 『沖縄県史』第十六巻、新聞集成政治経済(二二九ページ)寄留商人案内(三)、傍点を付した部分は、古賀辰次郎は古賀辰四郎の、大分県は福岡県の、尾滝円太郎は尾滝延太郎の誤まりである。

(※25) 『第五回内国勧業博覧会 受賞名鑑全』発行所受賞名鑑出版部によると大阪府の部(四一八ページ)に貝釦各種、同(西区)長堀北通、古賀與助が、沖縄県の部(六二三、六二四、六二八ページ)に鱶鰭(ふかひれ、※ルビ説明は管理者)・海参(いりこ=ほしなまこ、※ルビ説明は管理者)・真珠・貝穀各種、海人草(かいにんそう==回虫駆除薬、※ルビ説明は管理者)、那覇区字西、古賀辰四郎の名前がある。

(※26) 沖縄県教育委員会文化課監修『沖縄の民俗資料』第一集、

author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀辰四郎, 19:52
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