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古賀辰四郎と大阪古賀商店(八)  古賀辰四郎年譜

『南島史学』第35号 南島史学会 1990年
望月雅彦 「古賀辰四郎と大阪古賀商店」

 
  古賀辰四郎年譜

               ※注 ( )は当ブログの管理者が便宜上加筆したもの。
                   行あけや改行もブログで読みやすいように変更した。
                   加えて誤字脱字は管理者の責任である。



(安政三年)
一八五六 一月十八日、福岡県上妻(こうづま)郡山内村平民、古賀門次郎三男に
       生まれる。

(明治10年)
一八七七 二月、西南戦争起る。

(明治12年)
一八七九 二月、辰四郎、沖縄へ来島。
     四月、琉球藩を廃し沖縄県とす。
     五月、那覇に本店を置く。

(明治13年)
一八八〇 二月、八重山に海産物視察を為す。この年、大阪
     古賀商店設立?

(明治14年)
一八八一 九月二十九日付、福岡県上妻郡山内村平民古賀門次郎三男分家。

(明治15年)
一八八二 二月、八重山石垣島に支店を置く。

(明治16年)
一八八三 夜光貝の本格海外輸出始まる。

(明治17年)
一八八四 この年、初めて尖閣列島に人を派遣し探険せしめ、以来、年々労働者を
       派遣し海産物の採収を行う。

(明治20年)
一八八七 十二月二十六日付、京都府上京区福屋町、後藤外次姓よりトメを入籍す。
       この年、御木本幸吉と結んで琉球泡盛を名古屋に特約店をもうけて販売を
       始める。

(明治22年)
一八八九 二月、大日本帝国憲法発布。

(明治24年)
一八九一 十一月、大東島開拓を出願す。

(明治25年)
一八九二 二月、大東島開拓の心得書、命令書が下附される。
       三月、大束島探険を行う。

(明治26年)
一八九三 四月十九日、長男善次誕生。
       九月十五日、『琉球新報』創刊。

(明治27年)
一八九四 十二月、大束島開拓を断念し、出願を取り消す。
       この年、県に尖閣列島の開拓認可を請願するも、同島の所属が未定なりとの
       理由で却下された。この年の前後、大阪古賀商店、西区西長堀北通五丁目
       八番に移転す。

(明治28年)
一八九五 四月十七日、下関条約、日清講和条約および付属議定書調印。
       四月十九日、辰四郎本籍を大阪市西区より沖縄県那覇区字西九十六番地へ
       移す。
       七月、第四回内国勧業博覧会、真珠、貝殻類、鱶鰭(ふかひれ、※ルビは管理者)
       海参(なまこ、※ルビは管理者)
       を出品、有効三等賞を受ける。
       この年、辰四郎自ら、尖閣列島探険を行う。更に尖閣列島開拓認可を内務、
       農商務、両大臣宛に出願し傍ら、上京して視察の状況を具陳し許可を懇願
       すれども許可を与えられず。

(明治29年)
一八九六 七月二十六日、長女志津誕生。
       九月、尖閣列島開拓認可を受ける。

(明治30年)
一八九七 二月、遠洋漁業改良船を大阪商船株式会社へ依頼し二艘を建造し遠洋漁業に
       従事良好なる結果を得る。
             三月、連合共進会(長崎市)に海参を出品し二等褒章を受く。
       三月、初めて八重山より出稼ぎ移民三十五名を尖閣列島へ送る。
       十一月、第二回水産博覧会(神戸)に鼈甲(べっこう、※ルビは管理者)、鮫皮(さめ
        かわ、※ルビは管理者)
、海人草(かいにんそう、※ルビは管理者)、貝類、真珠、鱶鰭
       (ふかひれ、※ルビは管理者)、海参(いりこ=ほしなまこ、※ルビ説明は管理者)を出品し、
       有効一等、三等並びに褒状を受ける。

(明治31年)
一八九八 五月、辰四郎、自から移民五十名を引率し、島内に滞留する。
       八月二十七日、長女志津死亡。この年、大阪商船株式会社と協商し同社所有、
       汽船須磨丸(一六〇余t)を借入し尖閣列島に寄港せしめ、以来、汽船を持って
       交通の便を謀る。

(明治32年)
一八九九 三月、連合共進会(鹿児島市)鱶鰭を出品し三等褒状を受ける。
       六月、商法施行。
       八月、広運株式会社設立。
       十月、沖純糖商同業組合登記完了。
       十一月、奈良原県知事に随行して南清各方面及香港に於ける海産物の状況を
       視察(甥、尾滝延太郎同行)。

(明治33年)
一九〇〇 正月、古賀辰四郎、尾滝延太郎と共に在香港。
       三月、上京し東京帝国大学教授、箕作博士に面談す。
       五月、宮嶋幹之助、黒岩恒ら尖閣列島へ調査探険。
       同月、難破船備前丸救助(尖閣列島・釣魚島事務所)
       この年、パリ万国博覧会に真珠、貝殻類、海参を出品、銅メダルを受ける。

(明治34年)
一九〇一  正月、古賀辰四郎在京。
       五月、汽船仁寿丸(四六〇t)を借入し尖閣列島へ(沖縄県技師・熊倉工学士同行)
       十月、汽船球陽丸沈没す。

(明治35年)
一九〇二 五月刳舟(※くりぶね※)難破漂着救助(尖閣列島・久場島事務所)

(明治36年)
一九〇三 十月二十二日、妻トメと協議離婚この年、辰四上京して製鳥の職人を十数名
       得る。
       この年、第五回内国勧業博覧会、出品、受賞せり、出品真珠二点、
       皇太子殿下御買い上になる。又人類館事件起る。

(明治37年)
一九〇四 七月、広運株式会社取締役に当選就任す。
       この年、「アイサシ(アジサシ)」、「カワヲドリ(カツオドリ)」其他雑禽を剥製
       または羽毛として初めて、横浜、神戸の外商に売り込む。
       この年、米国セントルイス万国博覧会へ海産物を出品、金メダル一個、
       銅メダル二個を受ける。

(明治38年)
一九〇五 一月、沖ノ神島借用認可を得る。
       七月、沖縄興業株式会社監査役に当選就任す。
       八月二十六日、岩手県二戸郡鳥海村大字西法寺十三番戸、播摩伊之松、
       長女むらと再婚
       十二月、沖縄糖商同業組合評議員に当選就任す。
       この年初めて内地において鰹船三隻を建造し同列島へ、鰹節製造人
       数十名を宮崎県下より雇入れ、其業(鰹節製造)につかしめた。

(明治39年)
一九〇六 二月、『琉球新報』に無人島、出稼人及び事務員の募集広告が掲載さる
       (古賀商店という名称を自から用いる。)。
       三月、沖ノ神島開拓に着手する。
       七月、沖ノ神島へ球陽丸を特派す。
       十一月、台湾総督府の所有船三浦丸(一四五t)および附属試験場より
       樟苗三万本木を購入、三浦丸は辰島丸と改称す。
       十二月、辰島丸を木村運送店に客荷の取扱いを委任す。
       この年、更に鰹船五隻を新造す。

(明治40年)
一九〇七 三月、福岡鉱山監督署に尖閣列島における採掘出願書を提出。
       八月、大阪商船株式会社、内航部を新設。
       八月十九日付で採掘許可を得る。
       八月、沖ノ神島に汽船辰島丸を派遣。
       この年、関西九州一府十九県連合水産共進会(長崎)に尖閣列島及び県下に
       於ける製造物を出品し一等賞牌一個、二等賞牌二個を受ける。又
       皇太子殿下買上げに対し功労銀杯を受く。

(明治41年)
一九〇八 二月、上京し農学博士恒藤規隆に商議し尖閣列島の鉱石の検査を依頼す。
       四月、島尻水産学校卒業生一名を同校教諭岩井某に尖閣列島への渡島を
       依頼す。
       五月、恒藤博士、列島を探険す。
       同時に宮城、福島二県より七歳十一歳の貧児十一名を丁年迄の契約にて
       雇入れ渡島せしむ。
       九月二十五日、広運株式会社の大阪沖縄間の航路を大阪商船株式会社
       内航部にて代弁す。

(明治42年)
一九〇九 十一月二十二日、古賀辰四郎に藍綬褒章下賜さる。
       十二月三十一日、風月楼において県有力者、百数名を集め祝宴を催す。

(明治43年)
一九一〇 三月二日、『琉球新報』、砂糖相場欄に古賀商店の記載あり。
       三月二十二日、沖縄水産組合創立総会にて評議員となる。
       三月二十日、『琉球新報』に無人島(「ヨロン」)久場島)行
       四月三日球陽丸にて出発の記載有り。
       四月二十五日、『琉球新報』に尖閣列島(無人島)出稼人募集広告が
       掲載される。(辰四郎自身が初めて尖閣列島という名称を使用して
       広告したものである。)
       六月十六日、『沖縄毎日新開』に百合根買入広告、甘庶専用肥料、
       星印肥料特約販売店及び出稼人募集広告が掲載される。
       七月中旬、この頃、辰島丸を改称三浦丸という名称が汽船発着広告
       に現われる。
       十月十一日、古賀辰四郎所有船、三浦丸沈没す。
       十月二十七日、『琉球新報』に競売広告(沈没船三浦丸の船体)掲載
       される。
       この年、第十三回九州沖縄に県連合共進会(福岡)に海産物を出品。

(明治44年)
一九一一 一月、沖縄肥料株式会社、第九期営業報告に古賀辰四郎、監査役
       として記載有り。
       二月十日、実弟光蔵八重山にて病死。
       四月二十五日、尚昌英国留学送別の園遊会に発起人として名前有り。

(明治45年・7月30日より大正元年)
一九一二 一月、沖縄肥料株式会社、第十期営業報告に監査役として記載有り。
       十二月、沖縄広運株式会社設立。 

(大正2年)
一九一三 二月、広運株式会社清算結了。
       四月、沖縄広運株式会社、第一期営業報告に取締役として、古賀辰
       四郎の記載有り。

(大正3年)
一九一四 三月、大正博覧会に天然真珠を出品し銅牌を受ける。
       五月、沖縄広運株式会社、第三期営業報告に取締役として辰四郎の
       記載有り。

(大正5年)
一九一六 一月二十九日、沖縄肥料株式会社 辰四郎、監査役を重任す。
     二月十日、大阪商船株式会社、内航部廃止。
     三月、沖縄広運株式会社、大阪商船株式会社に買収される。

(大正6年)
一九一七 五月二日、那覇区西本町大火。

(大正7年)
一九一八 一月、沖縄肥料株式会社、第十六期営業報告に辰四郎、監査役
       として記載有り。
       四月十五日、古賀支店では峰岸支配人の監督下で栄螺の貝殻で
       釦を製造していた。
       八月、古賀辰四郎死亡。

 この年譜は、『藍綬褒章資料』・『琉球新報』・『沖縄毎日新聞』を参考にして独自に作成した。

author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀辰四郎, 22:44
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