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寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(10)
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より 



 □ 寄留商人の社会と古賀善次

 ――当時、寄留商人の社会といいますか、食生活とか、そ
ういうものはヤマト風で?
 古賀 うちなんか、いい方だと言っていましたよ。
 ――というのは、女中さんなんかの食事がですか。
 古賀 ええ、そうです。
 ――食事の内容やら料理の方法とかも、こっちの一般庶民
とは違っていたわけですか。
 古賀 それは少し違うけれども、そんなに違っているわけ
ではありませんから。
  ――作るのは女中さんが?
 古賀 ええ、そうです。使用人もこっちの人ですから、食
事やなんかは沖縄風のチャンプルーとか、そういうものを喜
びますからね。私たちとしてはそれの方がいいわけです。ま
あ、ときどきはおすしやカレー汁なんかしましたけどね。チ
ャンプルーやなんかのときは、ただ主人のだけは余り油っ濃
くしないでくれ、というぐらいでね、同じものでしたよ。お
汁は豚か牛の入ったものの野菜汁やコンブ汁でした。
 ――女中さんとことばなんか、生活習慣の違いやなんかで
苦労されたことはありませんでしたか。
 古賀 いや、ありませんでした。とてもよく働いてくれま
したよ。とても従順とでもいうんですかね、こっちのいうこ
とはみんな呑み込んでくれて、そのとおりにやってくれまし
た。普通語も上手でした。
 うちは、日曜は女中さんも休みにしていたんです。そした
ら近所の商店から文句が出ましてね。古賀さんがそんなこと
(以上−129頁−上段20行〜下段22行)



をすると、うちが困るというわけです。で、隔週休みにした
んです。それでも女中はたまに帰ったりしても、その日のう
ちに戻ってきちゃうんです。自分の家は天井が低くて眠れや
しないとか言って……
 ――お手伝は何人ぐらいいましたか。
 古賀 私が来る頃までは三人いましたそうですが、私がき
てからは一人でした。
 ――女中さんは主に那覇の人?
 古賀 首里、それから西原あたりから来ていました。
 ――辰四郎さんの頃と、善次さんがやってられる頃で、お
店でなにか違っていたようなことはないですか。変化したと
いうか。
 古賀 まあ先代はやたらに手広くやったもんだから、集金
が大変でね。結局みんな貸しになって……あの頃はほとんど
掛け売りでしょう、盆と正月の二回、集金に行くんですがね、
それがなかなか入らなくてね。古賀も面倒くさがって、いち
いち貸家なんかにも集金に行ったりするよりは、ということ
で、取引きするところも、小さなところは整理しちやって、
現金払いでやるようにしていました。
 ――善次さんの方は、その頃いろいろ名誉職なんかをやら
れていたようですが、商売の方は先代のころほどは……
 古賀 他の人がやっていて、古賀はたまに要所要所を見て
いるだけでしたから。
 呈すると番頭みたいな人もいた?
 古賀 一本立ち出来る人が三人いました。
 ――資料によりますと、何か琉球新報のスポーツ記者とし
て活躍されたということですが、商売の方は半分は番頭にま
かせて……
 古賀 記者っていったって、あなた、あまりそんなにしょ
っちゅう用事はありませんもの。大した仕事をしていたわけ
ではありませんよ(笑)。
 ――毎日出掛けられなかった?
 古賀 無給ですからね。月給でももらっていれはそうもい
きませんが。何かがあれは出掛けて行くようなものでね。
 ――すると、まあ趣味みたいなもので、楽しんでやってお
られた……
 古賀 そうですよ。
 !記事はよく番いていたんですか。
 古賀 それはもう、ずいぶん。
 ――運動部記者になられるきっかけは何でした。
 古賀 古賀はビンポンが好きで。上手でもなかったんです
がね、沖縄でピンポンしようにもルールを知っている人がい
ない、それにテニスもそうだったらしいですね。それで当間
重剛さんやなんかといっしょに、そういうものをしていたよ
うです。
 ビンポンといえは、日本語で卓球というでしょう。あの卓
(以上−130頁−)

球ということばは、古賀が最初に使ったらしいんです。とい
うのは、記者をしているとき、割り付けの関係でね、ピンポ
ンじゃ字が入り切らなくなって、それで卓球ということばを
新報の記事で使った、それが東京へ行って広がったと言って
ました。東京の協会へ照会したら、古賀の方が六年早く使っ
ていたというんでね。
 ――ベルリン・オリンピックにも取材に行かれたそうです
が。
 古賀 ええ、ちょっと家をあけるからというもんですから、
九州あたりにでも行くのかと思っていたら、ベルリンだった
んですね。当時はシベリア鉄道で行ったそうです。それだっ
て自費ですよ。
 ――すると、まあ古賀さんは、一代めはあちこち開拓して
歩いて、善次さんの代には名誉職なんかが増えてきて、その
間、記者は趣味でやってる……そういう感じですかね。
 古賀 まあ、そういうことでしょうね。古賀が残したメモ
帳があるんですが、それを読んでいますと、親爺は開拓して
あっちこっち歩き廻っているが、ばくはからだが丈夫でない
から、ユースホステルをリュックを背負って渡り歩いている
ようなもんだ(笑)。しかし、もしからだが丈夫であったら、
その素質はあるだろうから、あっちこっち開拓して歩いてい
たかもしれない、なんて書いてありますね。
 ――当時の寄留商人の社会と、沖絶の一般の人たちとの付
き合いは、どうでした。あまりなかった?
 古賀 そうですね、辰四郎お父様は尚順男爵などとは相当
お近くて、別荘の集まりなどには善次も幼いころから連れて
ゆかれたようです。
 ――寄留商人の子どもたちが、沖縄の人と結婚するとかい
うものも、ほとんどなかったんですか。
 古賀 そうですね。あるにはありましたけれど、まあそれ
は恋愛でお互いが好き同士でというような例外的な場合で、
普通は本土の人同士で結婚するのがほとんどだったのではな
いでしょうか。
 ――寄留商人の二代め同士の結婚とかは?
 古賀 ええ、それはありましたよ。
 ――ご婦人方の社交界みたいなものはなかったんですか。
 古賀 愛国婦人会、国防婦人会、キリスト教婦人会、女子
警防団などなかなかお付き合いは多うございました。こちら
の女子青年団をつれて古仁尾に慰問に行ったこともありまし
た。
 ――こちらの方との交際は?
 古賀 そうですねえ……新嘉喜さんとか、当間さんとか、
金城さんとか、そういう方とはお付き合いしていましたよ。
要するに古賀は寄留商人とはよく付き合っていましたけれど
も、ほんとうに腹を割って話し合える友だちというのは、そ
ういう沖縄の友だちだった、そういっていましたね。
(以上−131頁−)

 ――金城さんといいますと?
 古賀 ほら、いま一番の踊りの先生……真境名佳子さんの
お父さん。
 ――よくお知り合いだった当間重剛さんなんかは、戦前那
覇市長をされたりしていますが、県議会とか選挙とか、そう
いうものに対してはどうだったんですか。
 古賀 当間さんとはよく知り合っていましたが、選挙とか
そういうものはやりませんでした。

(以上−132頁−上段1〜8行)


author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 19:50
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