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寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(8)
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より




  □ 古賀商店と取り扱い商品
 ――古賀さんのところの商品は、主に内地に出荷していた
んですか。
 古賀 そうです。
 ――すると、沖縄の小売店に出すということは余りなくて、
鰹節などを本土へ送り出すという‥…・
 古賀 そうそう。鰹節や夜光貝。夜光貝といえは、平泉の
中尊寺ですか、あそこの建物にも夜光貝が使われているとい
うことですね。それで向うから「京都大学の方で聞いたら古
賀商店にあるはずだといっていたので、取り寄せてほしい」
という依頼が来たんです。十五年はど前ですかね。で、その
(以上−寄留商人の妻として125頁下段12行〜下段22行)


ころは私の所ではやってませんでしたので、もと私の店にい
た南海商会の日高さんに連絡して、なんかいいのを五百個ほ
ど送ったそうですよ。
 ――結婚された頃は、先代の辰四郎さんは健在でしたか。
    ※古賀辰四郎 安政三年、福岡県生。明治十二年那覇
    に開店。同二十八年尖閣列島を探険、同二十九年開拓
    認可、翌年より移民を送りこみ、鳥毛採集、漁業、鰹
    節製造などの事業を開始、大正三年、八重山で真珠養
    殖事業開始。『県史別巻・近代史辞典』『沖縄の首年
    人物編」参照。
 古賀 亡くなられた翌年に椿姫しました。
 ――すると、辰四郎さんのことは、いろいろお聞きになり
ました?
 古賀 ええ。辰四郎さんは、ロンドンやニューヨークの博
覧会なんかにもいろんなものを出品してはもらった賞状など、
たくさんありましたよ。残しておけはよかったんですが、そ
んなものみんな空襲で燃してしまって……
 それに先代は、本土だけじゃなく、中国にも知事なんかと
いっしょに出掛けて、中華料理に使う……イリコみたいなも
のね、それを取引きしていたようだし、貝ボタンやなんかは
インドやドイツにも輸出していたようですよ。私はお店のこ
とはよくわかりませんけど……
 ――それは直接那覇から?
 古賀 いえ、大阪の店からアメリカやなんかに送ってまし
た。
 ――じや、古賀商店の本店は那覇にあって……
 古賀 そうです。
 ――大阪は支店ということで?
 古賀 いや支店というより、辰四郎のお兄さんが大阪の店
にいましてね。そこへ送り付けていました。そのお兄さんと
いう人は、上等の鰹節なな(ママ)んかが入ると、東郷元帥に贈り届
けたりしていたそうですよ。すると執事の名前でお礼状が来
たそうなんです。でもほんとうは執事はいなくて、ご自分で
お書きになってたらしいんです。字を比べてみたら、やっぱ
り東郷元師の字だとか言っていました。
 ――大阪ではお兄さんがみて沖縄は辰四郎さんがみて
……だから物を送るには大変便利であったわけですね、窓口
があって。
 古賀 そうなんですよ。もともと古賀商店の始まりは鹿児
島なんですよ。それで明治十二年の廃藩置県と同時に、辰四
郎さんが沖縄に来られて事業を始められたんです。で、その
お兄さんのお嫁さんも鹿児島のいいところの出の人でしたよ。
 ――当時、扱っていた商品は鰹節と夜光長のほかに何か…
 古賀 昆布頼、天草、貝類がいろいろあったですね。
 ――貝類といいますと、装飾用とかボタンとかに……
 古賀 そうそう。
(以上−寄留商人の妻として126頁−)



  ――外には何に使っていました?
 古賀 塗物の中に嵌めたりして使ってましたが、主にボタ
ンでしょうね。
 ――−海産物の外には何かなかったですか。
 古賀 八重山にゴマとか農産物、お米なんかを奨励して作
らせて、それでできたものを自分で買い取ったりしていまし
た。それにトゥーノチン……あの赤いようなお餅ができるで
しょう、それなんかもやっていましたね。八重山のお米やゴ
マなんかは船から揚げると同時に、すぐこっちの小売店の人
が並んで買っていました。
 それに、お線香の材料になるタブカワですね。タブカワと
いうのは西表で採れたんですが、何か極細のお線香を作るに
は、西表産のものでないとできなかったそうです。
 ――そのお線香というのはヤマトで使うものですか。
 古賀 ええ、ヤマトの線香、細い極上のがあるでしょう、
あれです。西表は国有地がほとんどだったでしょう、それで
入札がありましてね。入札して仕入れていました。
 その外にはカンテンの材料になるテングサですか、そうい
うのも蔵にありました。
 ――真珠なんかはやってなかったんですか。
 古賀 はい、はじめのうちは御木本幸吉さんと組んで、辰
四郎さんがやっていました。限を付けたのは辰四郎の方が先
だったらしいんですがね……それで八重山に照会したり、貝
なんかを提供していたそうです。ところが、出来たものを見
せてくれといっても、ぜんぜん見せてくれなかったそうなん
です。で、善次は、いっしょにやっている仲間だのに、出来
たものも見せないなんてことがあるかといって、手を引いた
らしいですね。最初は辰四郎がずいぶん便宜をはかってあげ
ていたようです。
 ――八重山にも支店があったわけですね。
 古賀 ええ、ありました。八重山といいますと、戦後、古
賀といっしょに行ったことがあるんですがね。あそこの川平
湾の裏側にバイン畑がずっとありますでしょう。それを見て
私が「尖閣よりも八重山にはこんないい所があるんだから、
目をつけておけはよかったのにね」と言ったらですね、古賀
が「おまえ何言ってるんだ、そんなことはちゃんと考えてい
た」と言うんですね。あそこはマラリアがあって戦前はそう
簡単にはいかなかった、台湾から人を呼(ん)だりしてやったこと
もあるらしいですが……戦後になってアメリカがそのマラリ
アを全滅してくれたから、こんなに出来るようになったんだ、
と言っておりました。
(以上−寄留商人の妻として127頁上段1行〜下段18行)


author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 19:38
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