季刊沖縄第63号掲載
明代および清代における尖閣列島の法的地位
奥原敏雄
序
本稿は、明代および清代(ただし一八九五年以前)において尖閣列島がいかなる国家主権の下にもおかれたことのなかった事実を立証しようとするものである。この事実の立証は同列島の中国領有権を主張する内外の人々によって、日本が尖閣列島を領土編入した一八九五年以前に、すでに同列島が中国領であったと強調されている今日、とりわけ重要であるように思われる。
ところで国際法上からみた場合、列島に対する中国の実効的支配の事実が存在しない以上、一八九五年以前に尖閣列島が中国領であったと考えることは非常に困難であるが、反面中国の領有権を主張する人々が主として歴史的見地からこの問題をとらえているため、かならずしも尖閣列島の領有権をめぐる論争がかみあっていたといい難い面のあったことも事実である。
そこで本稿では、尖閣列島およびこれに関連する歴史的事実をあきらかにすることによって、歴史的観点からも列島が中国の領土として扱われたことのなかったことを立証しようとするものである。それとともに一部の人々によって指摘されている誤った歴史的理解を正し、その真の事実をあきらかにしておく必要があると考え、筆者なりの調査結果を本稿においてまとめてみた。
なお尖閣列島に言及した若干の古文書に対する文言上の解釈についての筆者の見解は、本誌第五十六号にあきらかにしたとおりであって、それは、今日においても、基本的にはかわっていない。ただしその後井上清氏(京都大学教授・日本史)などによっていくつかの古文書の存在があらたに指摘され、中国領有の有力な証拠とされているようであるが、これについての著者の見解は、別の論文で詳述する予定であるので、本稿ではこれに触れない。
一、 隋書の龜鼊嶼は魚釣島か
尖閣列島の島々がはじめて文献上にあらわれるのは、一五三四年に冊封使として琉球へ使いした陳侃の誌した「使琉球録」においてであるとされているが、これらの島々の存在自体は、それよりもかなり以前から、おそらくは十四世紀のはじめ頃には、すでに十分認識されていたものと思われる。
歴史学者の中にはさらに年代をさかのぼって、七世紀のはじめにその存在が知られていたとするものさえある。すなわち藤田元春氏は『隋書』の「東夷列傳流求国」にみられる龜鼊嶼を魚釣島であると主張される。
藤田氏によれば『隋書』の「帝遣武貴郎将陳稜、朝散大夫張鎮州率兵、自義安浮海撃之、至高華嶼又東行二日至龜鼊嶼又一日便至流求……」における龜鼊とは音「クヒ」で「クバ」であり、高華嶼とは台湾の富貴角の北に位する「彭佳嶼」のことであると解されている(藤田元春『日支交通の研究(中近世篇)』昭和十三年)。
もし藤田氏の解釈が正しいとすれば、魚釣島は隋煬帝の大業四年(六〇八年)にすでにその存在を知られていたこととなる。『隋書』の龜鼊嶼と高華嶼の位置については、古くから関心がもたれており、わが国でもさまざまな説がある。冊封使徐葆光や周煌もそれぞれの使録(『中山伝信録』および『琉球国志略』)の中でこれらの島について言及している。もっとも両封使とも、右の島々の存在には壊疑的で、結局実在しないものと断じている。
『中山伝信録』巻之四は、次のようにのべている。
「臣葆光の調べたところによると、古くから伝えられた島嶼には誤謬がとても多い、これは先人の使録で分ったものである。前明一統志では次のようにのべている、龜鼊嶼は国(注 琉球)」の西方にあり、船で一日かかる。高華嶼は国の西方にあり、船で三日かかる。いまこの二つの島嶼を調べてみたら、皆なかった」
鄭舜功は『日本一鑑』「桴海図経」(一五五六年)巻之一において「自澎湖次高華次龜鼊次大琉球亦使程也」とのべるとともに、別の馬歯山(慶良間諸島)を過ぎたところの行程において「南風用正卯(東)鍼或正寅(東北東)鍼、経取華山即高華山、次取七島(注 宝七島のことで日本領)」と説明している。他方同じ著者は本書「桴海図経」巻之二の「滄海津鏡」と題する海道図において、龜鼊嶼を●迤山(注 伊江島)(●は辶に里)と熱壁山(注 伊平屋列島)との中間西側に図示し、華山をその北に描いている。
藤田氏は上述の著書の中で「『日本一鑑』の著者は馬歯山の東に崋山(亀山?)をあげて即高華山とのべたがこれ又違っている」とのべておれれるが、鄭舜巧は「桴海図経」巻之一で、馬歯山の北から東又は東北東へ針路をとると記しているにすぎず、実際この方向へ縫鍼を用い針路をとった場合には、南風を利用しているわけであるから船は北東から北北東の間を北上することとなる。しかも鄭舜巧は藤田氏の指摘した馬歯山の東に崋山を描いてはおらず、さきの「滄海図鏡」によればあきらかに馬歯山を北上したところに位置させている。鄭舜巧が龜鼊嶼と華山(即高華山)を伊平屋列島の一部とみなしていたことが正しいか否かは別として、藤田氏の鄭舜巧についての指摘は誤りであったというべきであろう。
龜鼊嶼を伊平屋列島の一つと考えていた学者として、わが国の新井白石がいる。しかし新井白石は『南島志』(一七一九年)において、高華嶼を台湾、計羅間(おそらくは慶良間と解される。ただし奄美大島の近くにある家刺夢=加計呂麻島も類音である)を龜鼊嶼と解するという非常に誤った仮定の下に、龜鼊嶼の位置を割り出している(この点を批判する歴史学者としては、武藤長平『西南文運史論』「大正十五年」がいる)
このほか秋山謙三氏は、申叔舟『海東諸国記』(一四七一年)の「琉球図」にある「花島去琉球三百里」の花島を高華嶼とみなされている。だが『海東諸国記』における島嶼の位置とか距離はきわめて大雑把であり、仮に花島を高華嶼とになしても、この地図にある花島の位置に、現在の島嶼をあてはめることはとうてい不可能である。『海東諸国記』は慶良間、久米島、花島を東から西へと大体一線上に並べているが、久米島から琉球までの距離を百五十里としているから、花島はこれからさらに久米島―琉球とほぼ同じ距離だけ西方に位置していなければならないが、このような位置にはまったく島嶼は存在しない。
ところで鄭舜巧は澎湖より高華、龜鼊の順に大琉球へ至ることを説明しているが、「滄海図鏡」では、沖縄本島北西海上の北から華嶼=即高華山、龜鼊嶼を続けて図示している。かくしてこの使程は、澎湖諸島を北上して東支那海へ入り、さらにこれを斜に横断して沖縄本島(大琉球)の北西方海上にいたり、次いでそこから南下して、高華、龜鼊各嶼を過ぎ、大琉球の那覇へ入港することとなる。だがこのような航路はあまりにも不自然であるばかりでなく、遠回わり、逆流、逆風となるので実際に利用されたとはとうてい考えられない。
あるいは鄭舜巧が「小琉球」とすべきところを「大琉球」と誤って記したものであったかもしれない。もしそうであれば澎湖諸島から小琉球(台湾)へ至る途中に高華、龜鼊の島々が存在することとなる。そこで林豪総修『澎湖廳志』(一八九三年)をみてみると、同書第一巻「封域」の中で彭湖諸島の各島嶼を説明しているが、「奎壁山」について、次のように記している。
「奎壁山……在大山嶼奎壁澳北寮社後距庁治二十三里原名『雞籠』以形似得名」
『澎湖廳志』から二年後に伊能嘉矩氏は名著『台湾志』(明治二十八年)を公けにされているが、その中でも奎壁嶼をもって龜廳嶼とされている。伊能氏はさらに高華嶼についてものべられ、彭湖八罩島の西にある華嶼であるとされている。
かくして龜廳嶼の位置は、大琉球の南西方海上(魚釣島)か、大琉球の北西方海上(伊平屋列島)あるいは小琉球の西方海上(奎壁嶼)の三説に分れるとみてよいであろう。この中「伊平屋列島」の一部とになす説はたんに位置的に推定しているだけで、これに類音の島嶼をあげているわけではない。またこの場合は東行して大琉球へ至るというよりは、南下して大琉球へ赴くと表現した方が正確である。さらに新井白石のように誤った仮定の下に龜鼊嶼にの位置を算定した結果、伊平屋列島となったにすぎないものもある。すでにのべたごとく鄭舜巧の場合には航路としてあまりにも不自然で実際上にはほとんど考えられない。
次に龜廳嶼=魚釣島説であるが、冊封諸使録その他から、彭佳嶼と魚釣島の航路は『隋書』の水二日を要せず、せいぜい一日(十更)の距離にすぎない。反対に魚釣島から大琉球までは『隋書』の水行一日では、まったく不可能で約三日(魚釣・黄尾四更〜五更、黄尾・赤尾十更、赤尾・大琉球十五更)を要する。徐葆光や周煌が龜鼊嶼などの島々を実在しないものと結論したのも、おそらくこの水行日数を起算しての上であったと思われる。
結局最後に残った澎湖諸島の西に位する奎壁嶼が龜鼊嶼であったと考えるのが、もっとも妥当な結論のように思える。この場合は『隋書』の水行日数とほぼ一致するし、東行すれば小琉球へいたる(魚釣島の場合北上して後東行する)。原名と考えられる島嶼も存在するし、原名の由来もあきらかにされている。
陳稜の遠征した流求が、大琉球(沖縄)ではなく、小琉球(台湾)であったことは、東洋史学者の間でも通説であり、藤田氏も『隋書』の中のかなりの記述が大琉球ではなく、小琉球であることをみとめておられる。ただ藤田氏は『隋書』の中には大琉球とみられる記述も含まれているとして右のような解釈をおこなったわけである。しかし上述したように藤田説は水行日数からも成り立ちえないし、龜鼊嶼の音を「クヒ」あるいは「クバ」と解されるとしても、魚釣島が沖縄において古くからユクン・クバと呼ばれていたことと結び付けることにはかなり問題がある。第一いつ頃から沖縄でユクン・クバと呼ばれるようになったかが不明であり第二に、ユクン・クバは魚釣島と久場島の二島を総称した名称であったかも知れず、少なくとも魚釣島一島の名前であると一方的に断定しえないのである。第三に、島の大きさ、外貌からしてもクバよりもユクンの方が目立つわけであるから(順序としてもクバ・ユクンではない)、ユクンに類音の島名を『隋書』が用いるのが普通であったといえよう。第四に、魚釣島をクバ、黄尾嶼をユクンと錯簡して呼んでいたこともあったが、(実際にもクバ=ビロー樹は、魚釣島の方に圧倒的に多い)これは十八世紀の末以後のことであったにすぎない。以上の検討によって龜鼊嶼を魚釣島と解しえないと結論しうるのである。
二、 尖閣列島航路の歴史
台湾北方の雞籠嶼から花瓶・綿花・彭佳各嶼を経て、尖閣列島、那覇へと至る航路は、夏迅(旧暦五月から六月)の季節風(南風)を利用することによって発達したものである。
この航路をさらに北へ延長すると、八世紀初葉から利用されてきたいわゆる「南路」がある。南路の利用は七〇一年の第六次遺唐使船以後とされており、博多から五島列島、薩摩を経て、種子島、屋久島、沖縄本島へ至り、風を利用して中国の揚子江へ向かうというものであった。
他方遺唐使船が南路を用いたのは季節風を利用するという理由によったものではなく、当時朝鮮の沿岸沖を通って入唐する北路が新羅の妨害にあって思うにまかせないという政治的事情に起因していた。したがってその後筑紫の値嘉島から揚子江口へ赴く海路が開かれるようになると南路の利用も急速に衰微した。
遣唐使船などが当時まだ季節風を効果的に利用するまでにいたらなかったことは、これらが季節風を無視して航海したためしばしば漂流したり、遭難した事例の多かったことからも推測される。たとえば七五〇年の第九次遣唐使船が安南へ漂着したり、八〇四年の第十二次遣唐使船が福州まで流されたりしたなどはその好例である(このほか八一五年には智燈太師が台湾へ漂着している。古くは六五三年に第二次遣唐師船が遭難している。王輯五原著・今井啓一訳『日支交通史』昭和十六年)
このようにみてくると『続日本紀』の和銅七年(七一四年)と霊亀元年(七一五年)の条に「信覚」などの南島人が来朝進貢した記録の存在することを理由に、尖閣列島を経由する航路がすでに奈良朝以前において南島の人々に十分知られ、また利用されていたとする説(藤田元春・前掲書参照)は十分の根拠を有するものでないというべきであろう(ただしここでは『続日本紀』の「信覚」が石垣島であったか否かに関する学説上の対立には触れないこととする)。
季節風を利用する航海技術は、日本においては、十三世紀末頃から発達し、元との通交貿易に用いられていたことがあきらかである(この頃になると日本から中国への渡航時期も大体一定し、遭難などの事故もいちじるしく減少するようになった。王輯五原・前掲書)
また後に和寇が季節風を最大限に利用し、広東、福建などの中国諸省にまで侵寇を極めた。和冦の侵入経路や時期その他については中国でも特に研究され、いくつかの海防に関する著書が公にされている。その中でも鄭若曾『籌海図編』(一五六二年)は代表的なものであるが、同書巻二「倭国事略」は、これを次のように説明している。
「大低倭船のきたる恒に清明の後前にあり。此風候常ならず屈期方に東北風ありて多変ぜざる也。五月を過ぐれば風南より来たる。倭行くに利あらず。重陽後また東北あり十月を過ぐれば風西北より来たる。また倭の利とするところに非ず。故に防春は三・四・五月をもって大汛となし、九・十月をもって小汛となす」
他方琉球も、十四世紀の初めには、季節風を実際に利用するにいたっていた。すなわち洪武五年(一三七二年)琉球が中国との進貢・冊封の関係を開いた最初の頃から、琉球の進貢船載貨に胡椒、蘇木、乳香といった南洋産物資が少なからず含まれていたばかりでなく、それ以前の元延裕四年(一三一七年)、すでに琉球船(宮古船)二隻、乗員六十余人がシンガポール付近で交易をおこなっていた事実を重修『温州府志』(一六〇五年)巻十八はあきらかにしている(藤田豊八『東西交渉史の研究(南海篇)』昭和十八年)。
これら南洋諸地域との交易において琉球人がその帰途に南風の季節風を利用していたことは、いくつかの古文書によっても立証されている。すなわち安里延氏は『日本南方発展史』(昭和十六年)の中で、『おもろそうし』巻十三および『歴代宝案』所収の『南洋諸国宛琉球国王咨文』をあげて、このことを指摘されている。
「南風そよそよと吹きそめ何たれば、鈴鳴丸よ、唐南蛮よりの貢物を満載して我が君に奉れよ、追手のそよそよと吹きそめたれば」(『おもろそうし』巻十三、安里氏訳)
「来人を寛●し、蘇木、胡椒等の物を貿易し、早く風を趁ふて国に回へらしめよ」(『歴代宝案』所収「咨文」)
「仍ち煩はし、聴くらくは、今差去の人員、早に及んで打発し、風を趕ひ趁ふて、迅かに国に回へらしめよ」(同上)
ところで本節の冒頭であきらかにしたように尖閣列島を経由する航路は南風の季節風を利用することによって発達したものである。そうして南風の季節風が吹く時期は、東支那海では、さきの『籌海図編』でもあきらかにされているように、旧暦五月、六月であった。陳侃以後の歴代冊封使録において冊封船の多くが五月(残余も六月)に福州を開洋し、尖閣列島を通って琉球へ赴いているのも、この航路がこの時期にしか利用しえなかったことを示している。それだけではなくこの時期を失した冊封船や琉球の進貢船などは、翌年の同時期まで出港を見合わせるのが常であった。このことは当時において福州から那覇へいたる航路がこれしかなかったことを示唆している。ただし倭船の場合は、倭寇船にかぎらず、東支那海をかなり自由に航行していたようである。むしろ倭船においては、台湾の北にある雞籠嶼から東支那海を斜に横断し『その間に島嶼はない』、宝七島にいたり、さらに「南路」を北上し、薩摩にいたっていたようである(鄭舜功『日本一鑑』「桴海図経」巻一)。
したがって南風の季節風を利用して那覇へ至る場合、その出港先が福州であれ広東であれ、また南洋諸地域からであれ、常に尖閣列島を通っていたと想像される。とりわけ福州からの場合この航路はむしろ迂回するコースであったが(直行コースはその間に目標となる島嶼がまったくないために危険であり、利用されなかった。ただし那覇から福州へ至るときは、西進すれば中国沿岸のどこかに達するから、後は沿岸伝いに福州へ入港すればよいし、場合によっては最初に達した中国沿岸に上陸することもできた。したがって那覇から福州へ赴くときは尖閣列島のコースを通る必要はなかった。なお那覇から尖閣列島を通って、福州へ入港する場合、海流の流れが逆となるためかなりの日数がかかることとなる。ただし、このコースも若干使われていたようである。程順則『指南広義』―一七〇八年―の「針路条記」にはこのコースも誌されている)。南洋諸地域からの帰途の場合、この航路はまさしく最短コースであった。したがってこの航路を利用しない南洋貿易は考えられなかったともいいうるのである。
この事実および南洋諸地域と琉球との交易がすでに一三七二年以前からおこなわれていたであろうことを考慮するならば、尖閣列島およびこの航海ルートは、琉球人によってまず発見され、その後ひんぱんに利用されるようになったと思われる。
それでは琉球船は明代および清代を通じて一体どの程度この航路を利用してきたのであろうか。これをみてみたいと思う。まず進貢船の派遣回数であるが、一三七二年の琉球・中国における冊封関係の開始から一八七九年右の関係廃止までの五百七年間に、進貢船は合計二百四十一回(明代百七十三回、清代六十八回)中国へ派遣されていた。かくして進貢船は、その復路において、同じ回数尖閣列島を経由していたこととなる。次に中国からの冊封使派遣に際して琉球は答礼のため謝恩使を中国へ派遣した。この船を謝恩船という。謝恩船と冊封船の数は一致しなければならないから、冊封船と同回数の二十三回、謝恩船が福州へ赴いていたこととなる。さらに十一人目の冊封使であった陳侃以後のすべての冊封使に対して、琉球中山王府は迎接船を福州まで派遣した。結局迎接船は十四回派遣されたこととなる。これらを合計すると二七八回に達する。しかしこれだけではなくこのほか護送船(注 進貢物資の一部を積載する船)、接貢船(注 北京へ赴いた進貢船一行の帰国のため翌年迎えにくる船)賀正船、賀冬船、賀万寿節船、乞襲爵船、告訃船(琉球国王の崩御を伝える船)探索船(行方不明船の捜索を目的とするもの)などが同様に福州へ赴いた(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』昭和十四年)。これら(進貢・謝恩・迎接の諸船を含む)の派遣回数は、記録の残されているものだけにかぎっても、洪武五年(一三七二年)から万歴十六年(一五八八年)の二百六十年間二百四十回に及んでいる(安里延・前提書)。加えて琉球から安南、シャム、スマトラ、旧港、ジャバ、マラッカなどへ派遣された勘合符船の数は一四一九年〜一五六四年の百四十五年間に、九十回を数えている(安里・前提書)。それ故少く見積っても琉球・中国と冊封関係が続いていた間の琉球船は帰途五百八十回以上も尖閣列島を通っていたこととなる(注 一五八九年以後の進貢船百四十六回、接貢船六十三回、謝恩船・迎接船計二十二回と想定して計算した。その他の諸船については推定が困難なので省略した。したがってこれらの数字の合計数より、実際の数字が下まわることはない。なお進貢船などの詳細な派遣統計表については、小葉田・前提書、また接貢船の制度などに関しては、真境名安巽・島倉竜治『沖縄一千年史』昭和二十七年)。
三、 西洋および御朱印船航海図と尖閣列島
陳侃、郭汝霖両封使が琉球へ赴いた時代(一五三四年―一五六二年)は、東支那海交通史上もっとも重要な時期であった。すなわちポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が一四九八年喜望峰を廻航してインド洋へいたったのを端緒に、西洋諸国による東洋進出が開始され、やがてゴア、マラッカ、香料群島などの占領を経て、南支那海にいたった。この頃(一五一四年)からまずポルトガルが中国との交易を開始し、広東、マカオまで進出することとなる。陳侃渡琉(一五三四年)後まもなくポルトガルはさらに北上し、東支那海へ入り、福建省の漳州、逝江省の寧波にまで交易の範囲を拡大した。また一五四三年には広東から寧波に赴く途中暴風雨に遭ったポルトガル船が種子島へ漂着するとともに、六年後フランシスコ・ザビエルが布教のため来日鹿児島にいたった。同じ頃別のポルトガル人は台湾を望見し、『イラ・フォルモサ』(美しき島)と命名した。
このようにこの時代は、西洋諸国、とりわけポルトガルがはじめて東支那海へ進出し、極東地域に西洋の文化と植民地主義を移入した時代であった。それとともに無人の小島群でしかなかった尖閣列島の島々も次々にかれらに知られるようになり、その存在が十六世紀末以後の西洋諸国海図にもしるされるようになった。他方日本においても豊臣秀吉の天下統一成るや積極的な海外進出政策がとられるようになり、いわゆる御朱印船貿易が開始されるにいたった(一五八六年)。そうしてこれら御朱印船貿易業者によって作成された航海図にも、西洋諸国の海図とほぼ時を同じくして、尖閣列島の存在があきらかにされるようになった。
西洋諸国海図および御朱印船航海図については、今日、中村択氏による綿密周到な調査研究の成果が存する。ここでは中村氏の『御朱印船航海図』(昭和四十年)を借りてこれらの事情を指摘しておきたい。
中村氏によって尖閣列島の島々が示されているとされる『航海図』は、西洋諸国のものが十一枚、御朱印船航海図七枚である。これらを列挙すると次の通りである。
(一) 西洋諸国海図(三枚略す)
(?) 『ドオエッツ海図』(Cornelis Doetszoon 一五九八年ポルトガル図のオランダ製写本)
(?) 『ギズベルツ海図』(Evert Gijsbertz 一五九九年、オランダ)
(?) 『サンセス海図』(Sances 一六二三年、スペイン)
(?) 『ラングレン海図』(A.Langren 一六二〇年、オランダ)
(?) 『コムベルフオド海図』(Comberfod 一六四〇年、ポルトガル)
(?) 『カバリーニ海図』(Cavallini 一六五二年、オランダ)
(?) 『サンチェス海図』(Sanches スペルが異なるが、右のSancesに同じ、一六四一年、スペイン)
(?) 『ダメル海図』(John Damell 一六三七年、オランダ)
(二) 御朱印船航海図(一枚略)
(?)『東亜航図』(一六二〇年代)
(?)『葡海図』(一六二〇年)
(?)『東洋諸国航海図』 (一六一三―一六一六年頃のもの)
(?)『角屋七郎衛図』 (一六三一―一六三六年頃使用のもの)
(?)『小加呂多』 (江戸初期。「加呂多」はオランダ語のKaartで、海図の意味)
(?)『盧草拙』(一六七一―一七二九年頃のもの)
これらの海図においては、尖閣列島の島嶼数は一定していないけれども、二から五個である。なお全体としての島嶼あるいは個々の島の名前を付していないものが大多数であるが、若干の航海図には名称も付されている。すなわち御朱印船海図では『小加呂多』と『廬草拙』が「レイス」、『角屋七郎兵衛図』では「鳥島」と記されている(注雁現地では南・北小島のことを「シマグァー」または、「鳥島」とも呼ばれていた)。また西洋諸国海図においてはDos Reismagos と記されていた。このほか平沢元?『瓊浦偶筆』の「海路記」に「見山正是赤次嶼枯美山開有一更」とあるが、この場合の赤次嶼は枯美山、すなわち久米島から一更とのべているとこらから赤尾嶼ではなく(実際に赤尾嶼から久米島の水行は十五更とされている)むしろ久米鳥島であったと思われる(注 平沢元?は享保十八年生れ寛政三年没であるから、一七三三―一七九一年頃の書である。ただしここに記されている「海路記」は日本人のものでなく、中国人によったもののようである。藤田元春・前掲書)
四、 台湾および付近島嶼の法的地位
上述したように西洋諸国は十六世紀末頃から、尖閣列島の存在そのものを認識するようになっていたが、この列島について西洋諸国が領土的関心を示したことは一度もなかった。植民地獲得のため東漸してきた西洋諸国にしても、これらの島々はいわば水路誌的知見による関心以外の何物でもなかった。このことは時代が下った十九世紀におけるイギリス軍艦「サマラン号」による列島調査(一八四一年)についても、同様である。
西洋諸国が東支那海の島嶼について領土的関心を示したのは、台湾であった。日本もまた同様であった(なおオランダは澎湖諸島についても同様な関心を示した)。
台湾に対する領有意図は西洋諸国の中ではスペインがもっとも早く、一五九七年マニラ総督が台湾占領を提議している。この頃の台湾は嘉靖年間の末頃に威継光に敗退させられた倭寇が雞籠に遁入占拠していた程度であった。一六八三年の『台湾符志』(高拱乾譔)「序」はこれを説明して「台湾孤懸海外歴漢唐宋元所未聞伝自明李天啓間方有倭奴……」と誌している。光緒六年(一八八〇年)『全台與図』でも「台湾海外島與……従古未闢荒地前明始知其地」とのべられている位に、十六世紀中葉までの台湾は、原住民以外に若干の倭寇や海寇がごく一部の地域(雞籠と台南の一部)を占領していた程度で、いかなる国家の支配も及ばざるところであった。台湾と沖縄が地理的に区別されるようになったのも明供武五年(一三七二年。冊封使の渡琉)以後のことであった。それも沖縄が大琉球、台湾が小琉球という名前で呼ばれているごとく、その大小すらまだ不明の地であった。『籌海図編』(一五六二年)巻之一の「與地全図」においても、沖縄の方が台湾より大きく描かれているばかりでなく、台湾自体が一つなのか二つなのか分らないような書き方をしている。もっともこれはさらに一世紀おくれた西洋諸国の海図も同様であって、台湾自体は単一の島として示されていない。
中国人にとって当時台湾は非常に恐しいところとされていた。それは澎湖諸島と台湾との間に「落漈?」と称するところがあって、ここに漂流すると、百に一つも助からないとされていたためであった(『宋史』琉球本伝)。いま一つは、雞籠嶼の付近に「弱水」と称するところがあって、舟がそこに入ると沈没するか、帰ってこれなくなるとして非常に恐れられていた(『裨海紀遊』)。これは「万水朝東」と名付けられたものであったが、これがさきの落漈と異なるものか否かあきらかでない。これらはあるいは弱水、黒水溝、滄水とも呼ばれていた。黒水溝の記述は日本の『元和航海記』にもでており、台湾と澎湖諸島との間を通るときの注意が記されている。清代の台湾に関する古文書をみるとわかるように雞籠とか淡水といった台湾にある同一の名前が澎湖諸島の中にも多くみられる。おそらくこの方が最初に付けられたものであろうと思われる。これは当時としては台湾が一島と考えられていなかったのであるから、無理からぬことでもあった。台湾の雞籠嶼の近くに弱水があるとする説もこれと同様の理由によるものであろう。また後に赤尾嶼と琉球との間に「溝」があるとする説も、台湾と沖縄が区別されず琉球と称されていた時代の「台湾」と澎湖諸島との間の黒水溝をここだと思い違いした結果生じた議論のように思われる。何人かの冊封使や閩人が、赤尾嶼の近くに溝があると信じ、他方陳侃のごとく琉球に関する当時の文献が万が一つも正確なことを伝えていないとして、溝の存在を否定しながら、この「溝」が実は台湾が琉球という名で区別されずに呼ばれていた時代のこの地と澎湖諸島との間に実在することに思いが及ばなかったのもすべて琉球に関する知識の不十分さからであったといえよう。これに対して沖縄の人々が自分たちの体験からこの「溝」の存在を否定したのは当然であったというべきであろう(この「溝」とは黒潮全体の潮流をさすものではなく、特定の水城の異状潮流を指していたと考えられる。ただこの異状潮流が黒潮に起因していたため、黒水溝と名付けられたのであろう。少くとも黒潮の流れているすべての水城を黒水溝とは呼んでいなかった。落漈とか弱水という名称は、まさしくその潮の状態=色ではなく=を指摘していたといってよいであろう)。
ところで翌一五九八年のスペイン艦隊による台湾遠征は失敗に帰し、今度はその五年後(一六〇三年)オランダ艦隊が台風のため澎湖に避難、上陸した。しかしこれは明軍によって退去させられた。澎湖は台湾と異なり、すでに元末(十四世紀後半の至元年間)巡検司がおかれ、福建省同安県に隷属していた。その後この地域が倭寇などの潜入地となっていたこともあって、住民を強制的に退去させ、福建省の漳泉二府の間におくとともに、巡検司制度も廃止した。しかしこのことはかならずしも中国の澎湖諸島放棄を意味するものではなく、巡検司制度の廃止もいわば国内の治安対策上の一つとしてとられたものであって、オランダに対する例にみられるごとく澎湖諸島を第三国が脅かしたようなときには、中国の領土侵害とみなして、積極的にこれを防衛する姿勢を示してきた。この点澎湖諸島と台湾は区別して考えられなければならない。
台湾に対する領有意図はスペインに次いで日本であり、一六〇九年徳川家康は有馬晴信、千々石妥女に命じて、台湾占領を試みたが、原住民(中国大陸人はまだ入っていない)の抵抗によって果せなかったとされている(これ以前の一五九三年秀吉が台湾の入貢を促すべく原田喜右門を現地に遣わしたといわれているが、その信憑性はともかくとして、たんなる入貢要求だけでは領有意図があったということにはならない)。
その後一六一〇年にポルトガル、また一六〇三年オランダが台湾占領の計画を立て、さらに一六一六年再び家康が邑山等安に台湾占領を命じたが、原住民の抵抗にあったりで実行されないままに終っている(台湾原住民の抵抗は激しいものがあったようで、隋および元代における中国の台湾遠征もこの抵抗のためすべて失敗に帰していた。南宋の時代には反対に台湾原住民―毗舎那人―数百人が福建省の泉州を襲っている)。
しかし本格的な台湾攻撃がおこなわれるのは一六一九年以後で、翌年オランダ東印度会社は台湾の占領を指令、また翌々年には澎湖を占領、さらにその翌年台湾の安平に仮城を築くにいたった。もっとも澎湖のオランダ占領には前のときと同様明軍も果敢な反撃をおこない、そのためオランダもこの地の占領を断念し、明朝の同意をとり付けて澎湖を放棄し、台湾へ撤退した。
オランダの台湾占領は一六六一年鄭成功の軍の進攻によって一六六二年には降伏、撤退することを余儀なくされた(鄭成功の軍隊は明朝が清朝に敗退した後の亡命軍であって、清朝からすれば奸軍の徒であった。したがって鄭成功軍の台湾占領をもって、台湾の中国領有の始まりとすることは、正しくない。これらは正当な権限を有せざる者による占拠であって、倭寇や海寇などによる占拠と性格的には同じものであった。清朝もまたそのようにみていた)。
鄭成功の軍は(かれ自身は台湾進攻の年に急逝していたが)結局二十一年間台湾を占拠したにとどまり、一六八三年には水師提督施琅の大軍の前に、無条件降伏することとなった。ここに台湾ははじめて中国(清朝)の版図に帰したわけである。もっとも占領した台湾を清朝の版図とすべきか否かについては意見が分れ、清朝高官の大多数(施琅を除く)は、台湾を征服したのは鄭氏の不逞を夷げようとするためであって、この地を永久の領土とすることには反対であり、たんに澎湖だけを従来どおり領有し、東門の鎖錀とすべきであり、そのため台湾にある中国人はことごとく中国本土に移し、すべからく台湾をあげて版図の外に放棄すべしと主張した(伊能嘉矩・前掲書)。
だが清朝内部における台湾遺棄論は、施琅の熱心な説得により、最終的には撤回され、台湾を清朝の版図に入れることが決定され、翌一六八四年これを福建省に隷属せしめるとともに、一府(台湾府)三県(台湾・鳳山・諸羅)を設けた(注 なお前掲『台湾府志』は「台湾自康熙二十年始入版図」「上二十一年特命靖海将軍俟施公、師率討平之、始入版図、置郡邑」と誌しているが、これは誤りで正確には康熙二十二年に版図編入されたものである。乾隆三十年(一七六五年)の余文儀『続修台湾府志』を含めて、これ以後のものは、すべてこのように訂正されている)。
なお中国の版図へ編入された後の台湾の行政的範囲は、大雞籠嶼までと明示されており、この事実は日清講和条約成立直前まで変更をみていない。綿花、花瓶、彭佳三嶼が行政上台湾の範囲に含められたのは光緒三十五年(明治三十八年、一九〇五年)であった(基隆市文献委員会『基隆市志(既述篇)』一九五四年)。
大雞籠嶼が台湾の北限あるいは北界であったことは、以下の文献があきらかにしている。
周鐘瑄『諸羅懸志』(一七一七年)巻一「疆界」(県治東界大山、西抵大海、南海鳳山県西南界、台湾県北界大雞籠山)
同書巻一「山川」(大雞籠山巍然外界之天半、是台湾郡邑之租山也)
陳培桂『淡水廳志』(一八七一年)巻一「封城志・疆界(加行五里、至大雞籠租山、沿海極北之道止)
『台湾府輿図纂要』(清刊)「台湾府輿図識・淡水廳」(大雞籠山……淡廳極北之区為全台租山)
『台湾道姚瑩禀奏台湾十七国設防状』(道光二十年、一八四〇年)(大雞籠在淡水極北、転東之境、距淡防廳二百五十五里)
以上によって日清講和条約成立以前において、尖閣列島はもとより、台湾と琉球・久米島との間に散在するすべての島嶼(大雞籠嶼とこれより台湾に近い六個の付属島嶼を除く)はいまだ帰属不明のままにおかれていたと結論しうるのである。
【国土館大学助教授・国際法】
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