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尖閣諸島に関する中国史料の研究(一) −海道針経の考証を中心に− 四、「尖閣群島」注記に対する改竄

山陽論叢 第24巻 (2017)

 

論文

尖閣諸島に関する中国史料の研究(一)

−海道針経の考証を中心に−

班  偉1)

 

 

四、「尖閣群島」注記に対する改竄

 

  長年、『順風相送』の史料を巡って、中国当局・論客が牽強付会・恣意誇張の言を繰り返してきた。白書『釣魚島是中国的固有領土』をはじめ中国側の主張・論拠・結論は、すべて史料に対する歪曲・隠蔽・改竄の上に立脚したものと言っても過言ではない。事実、1982年と2000年の二度にわたって、中華書局は『両種海道針経』を再刊するに当たり、臆面もなく1961年初刊本にあった「尖閣群島」関連の注記を悉く改竄、抹消した。以下、三つの刊本を比較しながら、書き換えられた箇所(頁数は同じ)を拾い上げて検証する。

 

   愡愼鄒桔 戞嵎―1琉球針」条の注 168頁):初刊本では、「黄尾嶼為今尖閣群島之久場島、枯美即今久米島、馬歯即慶良間列島、倶在那覇西、舡至此距琉球国都不過五十海里矣。」(訳:黄尾嶼は今日の尖閣群島の久場島で、枯美は即ち久米島、馬歯は即ち慶良間列島、ともに那覇の西にある。船はここまで来ると琉球国の都まで後50海里と近い)と書いている。再刊本と三刊本では、「黄尾嶼為我国台湾省所属島嶼、枯美即今久米島、馬歯即慶良間列島、倶在那覇西......」(訳:黄尾嶼は我が国台湾省に属する島嶼であり、......)と書き換えられた。

 

  ◆嵒蹇両種海道針経地名索引」「赤坎嶼」条(230頁):初刊本では、「赤坎嶼  即台湾基隆東北尖閣群島中之赤尾嶼。」(訳:赤坎嶼は即ち台湾基隆の東北にある尖閣群島の赤尾嶼である)と書いている。再刊本と三刊本では、「赤坎嶼  即我国台湾省東北海上釣魚島東部之赤尾嶼。」(訳:赤坎嶼は即ち我が国台湾省の東北の海上にある釣魚島の東の赤尾嶼である)と書き換えられた。

 

  「附:両種海道針経地名索引」「花瓶嶼」条(235頁):初刊本では、「花瓶嶼在台湾基隆東北部海上。花瓶、彭佳、綿花三嶼為台湾至琉球必経之地、自此往東為尖閣群島、東南為先島群島。」(訳:花瓶嶼は台湾基隆の東北の海上にある。花瓶・彭佳・綿花三嶼が台湾から琉球に渡る途中必ず通る島で、ここより東は尖閣群島、東南は先島群島である)と書いている。再刊本と三刊本では、「花瓶、彭佳、綿花三嶼為台湾至琉球必経之地、與東面的釣魚嶼、赤尾嶼均為我国台湾省附属島嶼。」(訳:花瓶・彭佳・綿花三嶼は台湾から琉球に渡る途中必ず通る島であり、東の釣魚嶼・赤尾嶼とともに、我が国台湾省の附属島嶼である)と書き換えられた。

 

ぁ嵒蹇両種海道針経地名索引」「釣魚嶼」条(253頁):初刊本では、「釣魚嶼為自台湾基隆至琉球途中尖閣群島中之一島、今名魚釣島、亦名釣魚島。」(訳:釣魚嶼は台湾基隆から琉球へ渡る途中の尖閣群島の島であり、今は魚釣島と呼ばれ、また釣魚島とも呼ばれる。)と書いている。再刊本と三刊本では、「釣魚嶼在台湾基隆東北海中、為我国台湾省附属島嶼、今名魚釣島、亦名釣魚島。」(訳:釣魚嶼は台湾基隆の東北の海中にあり、我が国台湾省の附属島嶼である)と書き換えられたが、再刊本と三刊本に残る「今名魚釣島」という表現を見逃してはならない。中国では普通、「魚釣島」という日本名を使わないので、思わぬところに作為の跡が見える。

 

  ァ嵒蹇両種海道針経地名索引」「釣魚台」条(253頁):初刊本では、「此指琉球群島中尖閣群島之魚釣島、一般作釣魚嶼、亦作釣魚台。」(訳:これは琉球群島にある尖閣群島の魚釣島を指している。一般に釣魚嶼、また釣魚台となす)と書いている。再刊本と三刊本では、「此指台湾基隆東北海上之釣魚島、一般作釣魚嶼、亦作釣魚台。」(訳:これは台湾基隆東北の海上にある釣魚島を指す。一般に釣魚嶼、また釣魚台となす)と書き換えられた。

 

Α嵒蹇両種海道針経地名索引」「黄尾嶼」条(259頁):初刊本では、「黄尾嶼在台湾至琉球間之尖閣群島内、一名久場島。」(訳:黄尾嶼は台湾と琉球の間の尖閣群島の内にあり、久場島とも名付けられている)と書いている。再刊本と三刊本では、「黄尾嶼在我国台湾東北海上、為台湾附属島嶼。」(訳:黄尾嶼は我が国台湾の東北の海上にあり、台湾の附属島嶼である)と書き換えられた。

 

直接尖閣諸島に関する注記ではないが、「附:両種海道針経地名索引」「彭家山」条(256頁):初刊本では、「花瓶・彭家・綿花三嶼、為由基隆去琉球所必経。」(訳:花瓶・彭家・綿花三島は、基隆から琉球へ向かう時に必ず通る場所だ)と書いている。再刊本と三刊本では、「花瓶・彭家・綿花三嶼、均為我国台湾省附属島嶼。」(花瓶・彭家・綿花三島は、いずれも我が国台湾省の附属島嶼である)と書き換えられた。

 

強調したいのは、「釣魚嶼」「黄尾嶼」「赤坎嶼」のいずれも尖閣群島に属するという初版本の注記が決して向達の個人的見解ではなく、当時では中国当局の公式見解、ひいては学界・出版界での常識だった(40)。一介の学究として、向達と雖も領土問題について迂闊なことが言えまい。むしろ、彼は「両種海道針経・序言」の中で、次のように書き立てる。「『順風相送』『指南正法』の山形水勢・針路記載には、江蘇・浙江・福建・広東・台湾など各省沿海の多くの島嶼を詳しく記しており、中国人民が三百年前の昔からすでにこれらの島との間を行き来していたことを物語っている。これらの島は我が国の不可分領土であることを疑う余地はない。中華人民共和国政府が1958年9月4日に発表した領海声明の中に列挙している東椗・大小担・大小金門・烏坵・白犬・馬祖・高登・東引などの島嶼及び台湾・澎湖は、すべて『順風相送』『指南正法』に見られるので、これらの島々は歴史上、一貫として我が国に属することが分かる」と(41)。それだけでなく、該当の島名が「地名索引」に出る度に、政府の領海声明を引き合いに出して再度強調している。それにも拘らず、「釣魚嶼」「黄尾嶼」「赤坎嶼」に関しては、「尖閣群島に属する」と明言したのは、上記の島々の他に東沙・西沙・中沙・南沙など南海諸島まで領有権を主張する中国政府のこの領海声明文が、実は尖閣諸島に全く触れていないからである(42)。それより、向達が『鄭和航海図』を編集する際に参考した1958年版『世界地図集』を見ると、「日本」地図では、なんと釣魚島は「魚釣島・尖閣群島」と表記した上、「琉球群島」に属すると扱われている(43)。

 

このように、中華書局の編集者が初版本の注記を改竄、抹消したのは、上の指示に従った行為なのか、それとも愛国心による自己検閲なのかは定かでないが、「歴史の隠蔽・捏造」も甚だしい。しかも何の断りもなく、一般の読者に「最初から向達が付けた注記はこうだ」と見誤らせる大きな原因ともなる。中国論客の遣り口の常として、証拠を捻じ曲げ、史料を文脈から外して部分的に抜き出し、自分の主張と矛盾する証拠の山を切り捨てる。それに加えて、わざと間違って引用したり、一部分だけ引用したりして、結論を彼らの都合のよい方向に持っていくように小細工を弄する。その目論見は「歴史研究」「史を以って鑑と為す」を装って事実を歪めることだ。

 

 

おわりに  

 

検証の結論は単純だ。『順風相送』『指南正法』などの海道針経において、「釣魚嶼」「釣魚台」「黄尾嶼」「赤尾嶼」といった島は、あくまでも「福建―琉球」航路の目印として記されているに過ぎず、原典から読み取れる史実はそれ以上でも以下でもない。中台側の領有権主張は歴史の真実とは程遠いものばかりだ。第一に、『順風相送』には三十余りの外国名、数百に上る外国地名・島名が載っている。だからと言って、そのすべてが「中国固有の領土」とは言えまい。第二に、尖閣諸島を「発見、命名、利用」したのは、中国人船員だけではない。琉球文書『指南広義』にはもっと詳しい記録が残っている。そして第三に、明清の版図・領域を記載した正史・一統志・会典・実録には釣魚島に関する記載が皆無で、中国の歴代王朝が尖閣諸島を実行支配した事実はもとより存在しない。

 

考えてみれば、「領土」「領海」といった概念は、近代国家の枠組みができて初めて地球上の各海域に持ち込まれたものだと思う。明清時代において、中国周辺の海域はもともと国境線など存在せず、尖閣諸島も南海諸島も無主地で、どの国の領土でもなかったはずだ。そもそも、海洋調査・測量の技術、器材、動力船が欠如した古代において、海上で線引きすること自体は物理的に不可能で、その発想もなかったに違いない。中国当局は本当に自らの領有権主張に自信を持つなら、国際海洋法裁判所か常設仲裁裁判所に提訴しても良さそうだが、持ち込んだところで、再度不面目な結果を招くのが落ちであろう。

 

 

 


(40) 例えば、1953年1月8日付『人民日報』に掲載された「琉球群島人民反対美国占領的闘争」という論評には、「琉球群島......、包括尖閣諸島......等七組島嶼」と明記している。呉壮達著『台湾地理』(商務印書館、1959年9月)では、第一章「形勢概要」(2頁)において、「全区島嶼的分布:最東、是本島東北的棉花嶼、......最北、是本島東北的澎佳嶼、......与琉球群島内側的尖閣諸島遥対」と記す(訳:台湾全域の島嶼分布として、東端は本島東北の棉花嶼、......北端は本島東北の澎佳嶼、......琉球群島内側の尖閣諸島と向き合う)。第二章「地形与砿藏」の脚注(7頁)において、「台湾的北端、実以基隆東北的彭佳嶼等島与琉球弧的“内帯”−−即先島群島以北的尖閣諸島(一般地図多不載此群島)相接」と記す(訳:台湾の北端、即ち基隆東北の彭佳嶼などの島嶼は、琉球弧の内側に位置する先島群島北の尖閣諸島〔普通の地図は先ずこの群島を載せない〕と隣接している)。表一「台湾全区的経緯位置」(2頁)と附図「台湾省全図」も、「極東」に「棉花嶼  東経122°6’25”」、「極北」に「彭佳嶼  北緯25°37’53”」と明記している。

 

(41) 向達校注『両種海道針経・序言』中華書局、1961年、8〜9頁。

 

(42)「中華人民共和国政府関于領海的声明」『人民日報』1958年9月5日。

 

(43)『世界地図集』甲種本25−26、乙種本16−17(地図出版社、1958年11月第1版)、及び『世界地図集』甲種本25−26(地図出版社、1960年4月第1版)を参照。なお、甲種本「地名索引」を見ると、御丁寧に「Jian 尖閣群島25−26 Q14」(183頁)、「Yu  魚釣島25−26 Q14」(231頁)の項目まで挙げている。ところが、改訂版『世界地図集』(地図出版社、1972年12月第1版)では、「14日本」に「魚釣島・尖閣群島」の表記が消え、代わりに「9中国東南部」地図の下端には…犁島∪嵌嶼との脚注が付けられている。「台湾」の説明文には「......包括台湾島、澎湖列島、釣魚島、赤尾嶼、彭佳嶼、蘭嶼、火焼島等島嶼」と記す。

 

 

author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 08:00
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尖閣諸島に関する中国史料の研究(一) −海道針経の考証を中心に− 三、「福建―琉球」針路記述の読み方

(※管理人 「山陽論叢」は山陽学園大学・山陽学園短期大学紀要委員が毎年編集・刊行している学術論文集で「尖閣諸島に関する中国史料の研究」については第24巻2017年〜第26巻2019年に掲載されている。)

 

「尖閣諸島に関する中国史料の研究」(1)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/e0c593ab2ef537fd893cdbe7bc68de30.pdf

「尖閣諸島に関する中国史料の研究」(2)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/9af11f1fcf7b9bc73310ebde99666403.pdf

「尖閣諸島に関する中国史料の研究」(3)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/1c9ed713db6f1e651a7d25fb2ce377fa.pdf

 

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山陽論叢 第24巻 (2017)

論文

尖閣諸島に関する中国史料の研究(一)

−海道針経の考証を中心に−

班  偉1)


三、「福建―琉球」針路記述の読み方

 

さて、『順風相送』『指南正法』『指南広義』といった海道針経には、「福建―琉球」針路が記されており、そこに登場する尖閣諸島関連の記述をどう読み解くかは、中台側の領有権主張の当否を考える上で重要な判断材料となる。以下、史料の原文を列挙、解析した上で若干の考証を加え、中琉航海史における尖閣諸島の位置づけを究明していきたい。

 

先ず、『順風相送』「福建往琉球」条から見てみよう。「北風東湧開洋、用甲卯取彭家山。用甲卯及単卯取釣魚嶼。......正南風梅花開洋、用乙辰取小琉球。用単乙取釣魚嶼南辺。用卯針取赤坎嶼。用艮針取枯美山。南風用単辰四更、看好風単甲十一更取古巴山、即馬歯山、是麻山赤嶼。用甲卯針取琉球国為妙。」(21)原文を訳すと、

 

「北風の時、東湧(福建東引島)を出帆し、甲卯針(北東82.5°)を用いて彭家山(台湾彭佳嶼)を過る。甲卯針及び単卯針(正東90°)を用いて釣魚嶼を過る。......南風の時、梅花(福建長楽)を出帆し、乙辰針(南東112.5°)を用いて小琉球(台湾島)を過る。次いで単乙針(南東105°)を用いて釣魚嶼の南を過る。単卯針を用いて赤坎嶼を過る。艮針(北東45°)を用いて枯美山(沖縄久米島)を過る。南風の時、単辰針(南東120°)を用いて四更、順風を見て単甲針(北東75°)を用いて十一更、古巴山を過ぎ、即ち馬歯山・麻山赤嶼(慶良間諸島)に至る。更に甲卯針を用いて琉球国へ渡るが良い。」

 

このように、海道針経の航路記述には出発する港から目的地まで辿り着くための様々な情報が盛り込まれているが、基本的に島嶼・針位・更数の三要素から構成される。航海中、通過する島は船の位置を確認し、航行の方角・航程を推算する目印となり、福建から琉球へ渡る場合、東湧(又は梅花)→彭佳嶼(又は小琉球)→釣魚嶼→赤尾嶼→久米島→慶良間諸島→那覇の六区間を島伝いして進んでいく順次になる。文中、古い地名や航海術の専門用語が多用されているが、「○○針」とは、「甲乙丙丁」「子丑寅卯」といった干支の文字を組み合わせて航行の方位・方角を示す羅針盤の目盛である(すなわち、地球の周囲を360°とし、水平線を48等分して7.5°おきに盤面の縁に付けた刻み)。「○○更」とは、航程・距離を測る単位で、「一更六十里」「一昼夜十更」など幾つかの測定法がある。「取」とは「目指す」「過る」といった意味だ。上の史料を見れば分かるように、「釣魚嶼」「赤坎嶼」の記載は、航海の目印として「福建―琉球」航路に点在する飛石のような島々を書き記したものに外ならず、「彭家山」「小琉球」「枯美山」「馬歯山」への言及と同様、領土領海の意識など微塵もない。それもそのはずで、当時台湾(文中の「小琉球」)でさえ、明朝から「化外之地」と見なされ、清朝の版図に併合されたのは1684年のことだった。

 

  次いで、『指南正法』「福州往琉球針」条も検討してみよう。「梅花開舡、用乙辰七更取圭籠長。用辰巽三更取花矸嶼。単卯六更取釣魚台北辺過。用単卯四更取黄尾嶼北辺。甲卯十更取枯美山。看風沉南北用甲寅、臨時機変。用乙卯七更取馬歯北辺過。用甲卯寅取濠㶚港、即琉球也。」(22)原文を訳すと、「梅花を出帆し、乙辰針(南東112.5°)を用いること七更、圭籠長(台湾基隆嶼)を過る。辰巽針(南東127.5°)を用いること三更、花矸嶼(台湾花瓶嶼)を過る。単卯針(正東90°)を用いること六更、釣魚台の北を通り過る。単卯針を用いること四更、黄尾嶼の北を過る。甲卯針(北東82.5°)を用いること十更、枯美山を過る。南北の風が静まるのを見て甲寅針(北東67.5°)を用い、臨機応変に対処する。乙卯針(南東97.5°)を用いること七更、馬歯山の北を過る。甲卯寅針(北東60〜90°)を用いて濠㶚(那覇)港に着けば、即ち琉球だ。」

 

『順風相送』の記述と比べて、福建の海岸から出発して那覇まで一続きの六つの区間を進む順次が同じで、経過する島や二地点間の針位の記述もさほど変わらない。ただし、風向の表記が省かれ、「更数」がより詳しく記されている。「釣魚嶼」の名称が「釣魚台」に変わり、「赤坎嶼」の代わりに「黄尾嶼」が登場していることが目を引く。

 

なお、『順風相送』には「琉球回福建」条、『指南正法』には「琉球回福州針」条があり、「福建―琉球」航路の復路も併記している。もっとも季節風と海流の影響で、復路は往路より北寄りの海域を横断することになり、尖閣諸島の周辺を通らない。那覇→慶良間諸島→久米島→南杞山(浙江温州沖合の島)→台山(福建福鼎沖合の島)→官塘(福建馬祖列島)→定海(福建閩江口)へと航行するのが定番ルートだったが、久米島を離れると、中国沿岸の島嶼が現われるまで果てしない荒海をひたすら渡るだけで、目印になる島は見当たらない(23)。このように、『順風相送』『指南正法』において、「福建―琉球」航路の記載がそれぞれ往復一組のみで、尖閣諸島への言及も往路の二箇所しかない。情報量が少ないということは当時、渡琉の中国船がそれほど多くなかったことを物語っている(24)。

 

  それに対し、琉球文書『指南広義』には尖閣関連の記載が八個に上り、バラエティーに富んでいる。というより、『指南広義』の針路記載は専ら「琉球―福建」ルートに限定され、いわば「琉球―福建」航路の専門案内書と言ってよい(25)。『指南広義』を「中国史料」と呼ぶのは語弊があるかもしれないが、『針簿』など明清の海道針経を基に編集した後、1708年に福州琉球館で上梓された経緯に鑑みて、一顧の値が存すると思う。先ず、「針路條記」を見ると、『針簿』から抄録した四航路のうち、三条には「釣魚台」が登場する。

 

 嵎―1琉球:東沙外開船、用単辰針十更取鶏籠頭、北過花瓶嶼並彭家山。用乙卯並単卯針十更取釣魚台、北過前面黄麻嶼。北過用単卯針四更黄尾嶼。北過用甲卯針十更赤尾嶼。用乙卯針六更古米山。北過用単卯針馬歯山。北過用甲卯及甲寅針収入那覇港、大吉。」(26)訳すと、「福州から琉球へ渡るには、東沙(福建東沙島)を出帆し、単辰針(南東120°)を用いること十更、鶏籠頭(台湾基隆嶼)を通り過ぎ、花瓶嶼並びに彭佳嶼の北を過る。乙卯針(南東97.5°)並びに単卯針(正東90°)を用いること十更、釣魚台へ向かい、前面の黄麻嶼の北を過る。単卯針を用いること四更、黄尾嶼の北を過る。甲卯針(北東82.5°)を用いること十更、赤尾嶼を過る。乙卯針を用いること六更、古米山(沖縄久米島)を過り、単卯針を用いて馬歯山の北を過り、甲卯針(北東82.5°)と甲寅針(北東67.5°)を用いて那覇港に入れば、大吉。」

 

◆嵋堯五虎門開船、取官塘、東獅。用辰巽針十五更、小琉球頭。北過用乙卯針十五更、釣魚台。北過隴単卯針十更、赤洋。又単卯並甲卯十二更、古米山。用単卯兼乙卯至那覇港。」(27)原文を訳すと、「五虎門(福建閩江口)を出帆し、官塘、東獅(福建馬祖列島)を過る。辰巽針(南東127.5°)を用いて十五更、小琉球頭(台湾基隆嶼)の北を過る。乙卯針(南東97.5°)を用いて十五更、釣魚台の北を過る。単卯針を用いて十更、赤洋を過る。単卯針並びに甲卯針を用いて十二更、古米山を過る。単卯針と乙卯針を用いて那覇港に入港。」


「漳州往琉球:太武開洋、用単艮針七更烏坵。用艮寅針四更牛山。又用艮寅五更東湧山。用単辰針、如西南風用乙辰針、東南風用辰巽針八九更小琉球、鶏籠嶼、外平彭家山。如南風用単卯針、東南風用乙卯針十更釣魚台。北過、南風単卯四更黄麻嶼、赤礁。北過、南風単卯並甲寅針、又用艮寅、東南風用甲卯針十五更古米山。北過、南風単卯及甲卯針四更馬歯山、甲卯三更収入那覇港口。」(28)原文を訳すと、「漳州から琉球へ渡るには、太武(福建太武山)を出帆し、単艮針(北東45°)を用いること七更、烏坵(福建烏丘嶼)を過る。艮寅針(北東52.5°)を用いること四更、牛山(福建平潭牛山島)を過る。また、艮寅針を用いること五更、東湧山を過る。単辰針(南東120°)を用いて、西南風なら乙辰針(南東112.5°)、東南風なら辰巽針(南東127.5°)を用いること八、九更、小琉球、鶏籠嶼、彭家山を通り過ぎる。南風なら単卯針、東南風なら乙卯針を用いて十更、釣魚台の北を過る。南風なら単卯針を用いて四更、黄麻嶼、赤礁の北を過る。南風なら単卯針並びに甲寅針また艮寅針、東南風なら甲卯針を用いて十五更、古米山の北を過る。南風なら単卯針及び甲卯針を用いて四更、馬歯山を過る。甲卯針を用いて三更、那覇港に収める。」

上の三つの史料を読み合わせると、航路途上の島々の名前が出揃い、「福建―琉球」航路に関する最も完備した記録のように思えるが、「黄麻嶼」と「黄尾嶼」、「赤尾嶼」と「赤洋」「赤礁」など、同じ島を指すと思われる異なる名称が混用されており、いささか混乱が生じている。複数の海道針経から寄せ集めた情報を併記したためかもしれない。同じ島でも、船乗りによって違う名前を付けられることがあり得る話だ。なお、『針簿』から抄録したもう一つ「回福州」条も見過ごしてはならない。

 

ぁ崕酬扈銃巳時出那覇港、用申針放洋、用辛酉針一更半、見古米山並姑巴甚麻山。......見南杞山、......取台山、......収入定海。」(29)原文を訳すと、「十月十日十時、申針(南西240°)を用いて那覇港を出帆する。辛酉針(北西227.5°)を用いること一更半、古米山と姑巴甚麻山を見る。......南杞山を過る。......台山を過る。......定海に収める。」ここで、「姑巴甚麻」(クバシマ=久場島)という名称が使用されている。那覇や久米島との間隔・距離から考えれば、「黄尾嶼」(久場島)ではなく、慶良間列島の久場島を指していると思われるが、中国名ではなく、琉球名の音読で表記したことに留意すべきだ。一方、『三十六姓所伝針本』から抄録した十航路のうち、「釣魚台」が四条に登場する。

 

ァ嵶圧絮福州:......又三月、古米山開船、用辛酉針十五更、又用単酉二十更見釣魚台。又単酉針七更取彭家山。又用辛酉針取官塘。」(30)訳すと、「琉球から福州へ渡るには、......三月、古米山を出帆し、辛酉針(北西277.5°)を用いること十五更、単酉針(正西270°)を用いること二十更、釣魚台を見る。また、単酉針を用いること七更、彭家山を過る。辛酉針を用いて官塘を過る。」この史料を含めて、「琉球往福州」の針路が六本もあるが、いずれも「古米山開洋」と書き出し、「二月」「三月」「成化二十一年九月二十四日」といった年月日まで記されているので、琉球貢船の日誌であろう。ここには、「琉球―福州」往路(中国船からすれば復路になる)も尖閣諸島を過ったことが示されている。福建へ帰帆する中国船が北寄りの航路を辿るのに対し、往路も復路も尖閣諸島の周辺を通過する琉球船に関するこの史料は、史実の一端を示唆しているように思えてならない(31)。

 

Α嵎―2麥圧紂梅花及東沙開船。若正南風、用乙辰針十更取小琉球頭、便是鶏籠山圓尖。又用乙辰五更、花瓶嶼並彭家山。又用単乙七更取釣魚台。離開流水甚緊、北過、用乙卯並単卯針四更烏嶼。前面黄毛嶼。北過、用単卯針十更取赤嶼。北過、用卯針十五更取古米山。北過、用単卯針三更取馬歯山。用甲卯並甲寅三更収入那覇港、大吉。」(32)訳すと、「福州から琉球へ帰帆するには、梅花ないし東沙を出帆し、南風の時、乙辰針(南東112.5°)を用いること十更、小琉球頭を過ぎ、鶏籠嶼の山頂が見える。引き続き乙辰針を用いること五更、花瓶嶼並びに彭家嶼を過る。また、単乙針(南東105°)を用いること七更、釣魚台を過る。......乙卯針(南東97.5°)並びに単卯針(正東90°)を用いること四更、烏嶼、前の黄毛嶼の北を過る。単卯針を用いること十更、赤嶼の北を過る。単卯針を用いること十五更、古米山の北を過る。単卯針を用いること三更、馬歯山を過る。甲卯針(北東82.5°)並びに甲寅針(北東67.5°)を用いること三更、那覇港に入る。」ここで「回琉球」という表現が使われているが、福州に渡った琉球人からすれば、琉球への帰帆は正に「回」(帰る)になる。ちなみに「烏嶼」とは、多分「鳥嶼」の誤字で、場所未詳だ。

 

А嵋堯東湧山開船、北風、甲卯針取彭家山。若南風、用甲卯並乙卯針取釣魚台。北風、用甲卯並乙辰針取太平山、即宮古島。」(33)訳すと、「東湧山を出帆し、北風なら甲卯針(北東82.5°)を用いて彭家山を過る。南風なら甲卯針並びに乙卯針(南東97.5°)を用いて釣魚台を過る。北風なら甲卯針と乙辰針(南東112.5°)を用いて太平山、即ち宮古島を過る。」Δ汎瑛諭◆嵎―2麥圧紂弯墨の一つだが(全部で四本)、東湧山→彭家山→釣魚台→宮古島→那覇というシンプルな直行航路として、他航路にある鶏籠頭・黄尾嶼・赤尾嶼・古米島・馬歯山といった途中の島々を過らず、更数も記されていない。ここから、「琉球―福建」間を行き来する琉球船は複数の航路を利用したことが分かる。

 

─嵋堯釣魚台開船、北風、辰巽針取北木山尾、小琉球頭。又用乙辰針取沙洲門。又用乙卯針取太平山。太平山開船、用艮寅針直取那覇港口大吉。」(34)訳すと、「釣魚台を出帆し、北風なら辰巽針(南東127.5°)を用いて北木山尾(八重山)、小琉球頭を過る。また、乙辰針(南東112.5°)を用いて沙洲門を過る。また、乙卯針(南東97.5°)を用いて太平山(宮古島)を過る。太平山を出帆し、艮寅針(北東52.5°)を用いて真っ直ぐ那覇港を目指す。」「釣魚台開船」というのは他の針経に見られない独自の記述だ。「沙洲門」の場所は不明だが、『按針似看山譜』の「鶏籠山」見取り図には、「小琉球」の手前に「是圭籠  沙門岐頭門」と書き込まれた島図が載っている。もっとも、釣魚台→八重山→小琉球頭→沙洲門→宮古島→那覇という航路記載は迂回が多く、不自然に思える。いずれにせよ、『針簿』から抄録した四本の航路は本家の海道針経に依拠しているとすれば、『三十六姓所伝針本』による十本の航路は、程順則をはじめ琉球進貢使・乗組員たちが自身の航海体験に基づいてアレンジしたものではないかと推察がつく。

ところで、『指南広義』にある「海島図」を見ると、そこに書かれた島嶼の名称と配列が「針路條記」の記述と食い違っている。図面の右から、鶏籠嶼→二林山(未詳)→花瓶嶼(花瓶の形に描かれている)→梅花嶼(台湾綿花嶼、梅花の形)→釣魚台・黄尾嶼・赤尾嶼(三つの島がくっ付いて聳え立つ山容)→古米山→馬歯山→琉球中山......という構図になっているが、「黄麻嶼」は欠如している。また、「海島図」の末尾に地名一覧があり、紙面の下方に「福州五虎門」を中心に福建・浙江・江蘇など中国沿海の島名がずらりと並べられ、上方には「琉球中山」を中心に琉球・九州の島々が書かれている。その右の横に「福建―琉球」航路に点在する島々が斜めに書き込まれ、鶏籠頭→花瓶嶼→梅花嶼→彭家山→釣魚台→黄尾嶼→赤嶼→古米山→馬歯山の順次となっている (35)。複数の海道針経から寄せ集めた情報が入り混じっているように思える。

 

いずれにせよ、『順風相送』と『指南正法』では、尖閣関連の記載がそれぞれ一箇所のみで、しかも往路に限られている。それに対し、『指南広義』の関連記載が八個あり、往路と復路の両方に出ている。それに、前者は「福建→台湾→尖閣諸島→久米島→那覇」という単純な航路しか記していないが、後者の記述は通常航路の他に、「八重山経由」「宮古島経由」「釣魚台開船」と多種多様だ。この事実は、尖閣周辺の海域に関する熟知度といい、渡航の回数といい、琉球船の方が中国船を凌駕していたことを示唆していると言えよう。では、明清時代における中琉海上交流の規模と頻度は、どのようなものだったのだろうか。

 

周知のように、明清王朝は周辺諸国に対して朝貢を促す反面、自国民の海外渡航や貿易を厳禁する海禁令を繰り返し発布した。このため、当時の対外貿易と言えば、基本的には朝貢の形を取って行われる官営貿易に限定されたものである。1372年から1866年までの約五百年の間、明清両朝の琉球冊封使の派遣は計23回に上り、毎回船2隻、五百人前後の規模だった。その他に、「(嘉靖二十一年五月)、漳州人陳貴等私駕大舡下海通番、至琉球」といった密貿易船や漂着船もいただろうが(36)、実態不明だ。片や琉球国から中国に派遣された使節船の隻数と言えば、明代493隻、清代349隻、計842隻に上る。「進貢使」の他にも、「接貢使」「請封使」「謝恩使」「慶賀使」「護送使」など様々な名目を使った中国渡航があって、各種の琉球貢船に搭乗した乗組員の延べ人数は計9万4876人という試算がある(37)。また、琉球外交文書集『歴代宝案』に記録された勘合番号を調べた結果、康熙二年(1663)から同治六年(1867)まで二百余年の間、計454枚の渡航証明書が貢船に発給されたという(38)。これほど頻繁に渡航を繰り返していた琉球側は中国側より豊富な航海経験を有し、尖閣諸島に関して圧倒的な情報量を持っていたとしても、不思議ではあるまい。現に、「琉球針路、其大夫所主者、皆本於『指南広義』」という徐葆光の証言があるのだ(39)

 

上の諸史料を逐一検証すれば分かるように、「釣魚嶼」「黄尾嶼」「赤尾嶼」などの名称は、「福建―琉球」航路の目印として『順風相送』『指南正法』に見られるものの、いずれも片言隻語に止まり、島そのものに関する情報(例えば地形・景観・植物・水深・水産資源など)は皆無に等しい。中国人船員が航行中、針経を片手に甲板の上から釣魚島を眺めたり、メモを取ったりしていたとしても、あくまで自船の位置・航程・距離・方角を確認するためで、上陸や漁業などの行動を伴わない。当たり前のことだが、貿易船・冊封船の乗組員である彼らは漁師でも開拓民でもないので、航海標識以外に島に対して無関心のはずだ。

 

ともあれ、『順風相送』『指南正法』の文面から、領土・領海・領有権などの意識は全く読み取れず、明清朝廷による尖閣諸島占領・支配の動機も可能性も、もとより存在しない。何と言っても、陸地が見えない航海中、羅針盤を頼りに帆走する船乗りたちにとって、島は自船の位置を知るための最も確かな目印なのだ。中台の論客が「中国人は最初、釣魚島を発見、命名、利用した」と言い張るが、実際には、『指南広義』を著し、前後四回も中国へ渡航した程順則をはじめ、琉球の進貢使・船員(中には中国人移民の末裔もいたにせよ)の方が遥かに詳しい尖閣記録を書き残した。つまり、琉球の人も中国人とほぼ同じ時期に「釣魚島を発見、命名、利用した」のである。もちろん、「釣魚島の発見、利用」と言っても、コロンブスによる新大陸の発見とは訳が違い、あくまで航海の目印としての「発見」「利用」である。海道針経の史料を素直に読む限り、領有意思を示す字句も「開発」「経営」「管理」「支配」を示唆する内容も皆無、という事実は否定できまい。

 

 


 

(1)尖閣諸島に関する明清史料は、々匈せ愼扈颪粒て賛坊亅∈封使が著した使琉球録O奏簑从書・海防書ぢ耋冀亙志ジ澱録泙慮渕鑪爐紡臺未任る。本稿は史料研究シリーズの第一弾で、既刊した論考として、「明清史籍における“釣魚嶼”の位置づけについて」(『山陽論叢』第19巻、2012年)、「清代台湾地方志の“釣魚台”記載について」(『山陽論叢』第21巻、2014年)を御参考頂きたい。なお、本稿では、中台側の論点を取り上げるに当たり、煩雑さを避けるために出処を省くことを断っておく。

★(管理人)「明清史籍における“釣魚嶼”の位置づけについて」(『山陽論叢』第19巻、2012年)、
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/cac625dbc7635f27a171992294034a05.pdf

★(管理人)「清代台湾地方志の“釣魚台”記載について」(『山陽論叢』第21巻、2014年)
http://www.sguc.ac.jp/uploads/page/unit/files/860d94c30a77cc579bfcfe376b6ce297.pdf

 

(2)尖閣諸島の中国名が幾つもある。「釣魚島」は主に中国で使用されているのに対し、「釣魚台」ないし「釣魚台列嶼」は専ら台湾・香港・海外華人社会で使われている。一方、明清航海文書における島名表記の傾向として、明代に使用された「釣魚嶼」は清代に入ってから、「釣魚台」に変わり、「黄麻嶼」「黄毛嶼」「黄茅嶼」は「黄尾嶼」、「赤坎嶼」「赤嶼」は「赤尾嶼」に統一されるようになった

 

(21) 向達校注『両種海道針経』中華書局、1961年、96頁。

 

(22) 同上、168頁。

 

(23) もっとも、慎懋賞『四夷広記・東夷広記』を繙くと、「兵庫港回琉球並漳州針位」には「......用辛酉針三更船、取粘米山。開洋、南辺過船、用乾戌四更船、用単乾針六更舡、取赤嶼。用単庚及単酉十更船、取黄麻山。用単酉針四更船、取釣魚嶼。用単酉針十更船、取彭佳山。用単卯針一更船、取鶏籠嶼。用単戌針八更船、取東湧山。用単申針、取牛嶼。用坤申針四更船、取烏坵山。用単坤針七更船、取太武山、是漳州為妙也」という復路も載っている。前掲『渡海方程輯注』、20頁。『四夷広記』デジタル資料:http://www.world10k.com/blog/?p=1643  

 

(24)清朝琉球冊封使汪楫は、『使琉球雑録』(1684年)の中に「在昔番舶時通各国、皆有程図、転相伝写。独琉球無定本、以国貧乏無土産、商賈不往故也」と記す。原田禹雄訳注『汪楫  冊封琉球使録三篇』榕樹書林、1997年、341頁。

 

(25)進貢副使という職業柄、程順則は『指南広義』を編集するに当たり、自ら四回も渡航した「琉球―福建」航路を重要視し、それ以外の針路情報を割愛した。彼は巻末「引言」で次のように述べている。「余留心針法久矣。......今得此巻、実獲我心者。旧本顔曰針簿、嫌其俗也。今改為指南広義。......改正旧本、非出臆見、必参考群書、方敢増減、庶無不根之言。......東西二洋等処、為我国所不到之地。旧本悉有画図、帙頁繁多、今儘略之。惟自我国至福建、一路山形水勢、依様絵之、以備査考。」(訳:私は以前から針経情報に留意していたが、......今回やっと入手できた。もともと『針簿』という題名だが、その俗称を嫌い、『指南広義』と改めた。......古い写本に校訂、編集を加えても、決して恣意的ではなく、関連書物を参考しながら取捨選択をした。根拠ない話など一切載せない。......東洋と西洋は我が国から至らない場所なので、元々あった海図など煩雑な部分を省いたが、福建渡航の針路だけは今後の参考にするため忠実に書き写した。)史料原文:http://www.world10k.com/blog/?p=2059

 

(26) 同上。また、『按針似看山譜』の「福州往琉球針」条(12頁)はこれと類似する。

 

(27) 同上。

 

(28) 同上。また、『按針似看山譜』の「漳洲往琉球併長崎」条(12〜13頁)はこれと類似する。

 

(29) 同上。また、『按針似看山譜』「琉球回福州針」条(12頁)はこれと類似する。

 

(30) 同上。その次の条に「成化二十一年九月二十四日午時、古米山開洋」とあり、『三十六姓所伝針本』の成書年代を示唆している。成化二十一年は1486年に当たり、「遣閩人三十六姓至中山」とされる洪武二十五年(1392年)より約百年後ということになる。従って、『三十六姓所伝針本』の内容は、福建移民が琉球まで持ってきた針本そのままではなく、約一世紀の間、琉球の進貢使・船員として中国に派遣された末裔たちが自らの渡航経験に基づいて加筆した情報も多く含まれる可能性が高い。

 

(31) もちろん、琉球船も帰帆する中国船と同じ北寄り航路を辿ることがあったろう。乾隆十五年頃(1750)に琉球に漂着した山東出身の商人白世泙編集したと思われる『白姓官話』には、琉球通事鄭世道が中国人漂流民の質問に答え、進貢船の渡航ルートを説明する場面がある。「在那覇港開船、収馬歯山。馬歯山的柴火很便、到那裡備辧了柴火、然後開船、過馬歯山去。還有古米山可収。再過古米山去、進了大洋、就没有地方可収了。路上還有四個小島子、也没有抛椗湾船的地方。只等望見那福建的山頭、才収進五虎門去了」という。瀬戸内律子著『白姓官話全訳』明治書院、1995年、146〜147頁。

 

(32)『指南広義』デジタル資料:http://www.world10k.com/blog/?p=2059(33) 同上。

 

(34 ) 同上。

 

(35) 同上。「海島図四」の地名一覧を見ると、「福州五虎門」系列と「琉球中山」系列の間、「釣魚台」などの他に、「彭湖」、「紅荳嶼」(台湾蘭嶼)、「沙馬崎頭」(台湾猫鼻角)、「北木山」(八重山諸島)、「太平山」(宮古島)などの島名も書き記されている。ちなみに、『按針似看山譜』にも尖閣諸島を記した海島図が三枚あり(23頁、43頁、53頁)、『指南広義』「海島図」の構図に似通っている。

 

(36)『明世宗実録』巻二六一、台北中央研究院歴史語言研究所、民国54年、5200頁。

 

(37) 赤嶺誠紀『大航海時代の琉球』沖縄タイムス社、1988年、13〜17頁。

 

(38) 松浦章『清代中国琉球貿易史の研究』榕樹書林、2003年、122頁。

 

(39) 徐葆光『中山伝信録』巻一「前海行日記」、『台湾文献叢刊』第306種、台湾銀行経済研究室編印、民国61年、14頁。

 

 

author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 07:51
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古賀花子へのインタビュー in 1979

 

古賀花子へのインタビュー in 1979


 

古賀商店と取り扱い商品

 

記者: 結婚された頃は、先代の辰四郎さんは健在でしたか。
 
古賀: 亡くなられた翌年に結婚しました。  

 

記者: すると、辰四郎さんのことは、いろいろお聞きになりました?  

 

古賀: ええ。辰四郎さんは、ロンドンやニューヨークの博覧会なんかにもいろんなものを出品してはもらった賞状など、たくさんありましたよ。残しておけばよかったんですが、そんなものみんな空襲で燃してしまって・・・。それに先代は、本土だけじゃなく、中国にも知事なんかといっしょに出掛けて、中華料理に使う・・・イリコみたいなものね、それを取引きしていたようだし、貝ボタンやなんかはインドやドイツにも輸出していたようですよ。私はお店のことはよくわかりませんけど・・・。  

 

記者: それは直接那覇から?  

 

古賀: いえ、大阪の店からアメリカやなんかに送ってました。

 

記者: じゃ、古賀商店の本店は那覇にあって・・・  

 

古賀: そうです。  

 

記者: 大阪は支店ということで?  

 

古賀: いや支店というより、辰四郎のお兄さんが大阪の店にいましてね。そこへ送り付けていました。そのお兄さんという人は、上等の鰹節なんかが入ると、東郷元帥に贈り届けたりしていたそうですよ。すると執事の名前でお礼状が来たそうなんです。でもほんとうは執事はいなくて、ご自分でお書きになってたらしいんです。字を比べてみたら、やっぱり東郷元帥の字だとか言ってしました。  

 

記者: 大阪ではお兄さんがみて沖縄は辰四郎さんがみて・・・だから物を送るには大変便利であったわけですね、窓口があって。  

 

古賀: そうなんですよ。もともと古賀商店の始まりは鹿児島なんですよ。それで明治十二年の廃藩置県と同時に、辰四郎さんが沖縄に来られて事業を始められたんです。で、そのお兄さんのお嫁さんも鹿児島のいいところの出の人でしたよ。  

 

 

尖閣列島と古賀辰四郎

 

記者: 当時、尖閣列島でも工場をやっていたわけですね。

 

古賀: ええ、昭和十六年までですね。その頃になると油の配給がなくなったもんだから・・・。それで、石垣の登野城に鰹節工場を建てていたんです。七〇〇坪ぐらいありましたがね。戦後戻ってみると、工場の機械なんか全部なくなっていて、民家なんかも建て込んじゃって、立ち退いてもらえないものだから、結局、安くてお譲りしたんですがね。  

 

記者: すると、燃料の油の配給がなくなって・・・  

 

古賀: 配給がなくなった。魚釣島は、味噌・醤油やなんかの食料を送らないといけないわけでしょう、働いている人たちの・・・。そうそう、それでね、向うで働いている人は、鰹なんかもいいところばから食べるもんですからね、脚気になるのが出てきてね、大病でもして責任問題になったら大変だしということで、組合を作ったんです。沖縄では始めて作ったんです。  

 

記者: 組合というのは、産業組合、船主たちの組合ですか。  

 

古賀: いえ、乗組員のですね。乗組員が組合を作って、自分たちの健康も白分たちで気をつけるようになる。それに、みながよけいに魚を採れば、それだけ収入も多くもらえるという仕組ですね。食費なんかも組合にした方が経費が安くつということで・・・  

 

記者: すると、その組合を通して古賀さんが買い取られるわけですか。  

 

古賀: ええ、そうです。ともかく組合の第一号だったそうですよ。  

 

記者: それは国からの指導があってやったんですか。  

 

古賀: いえいえ、どこからも指導はなくて、自分で考えてやったんです、自発的に。私の聞いたところではそういうことです。  

 

記者: 工場で働いてた人たちは、どこの出身が多かったんですか。  

 

古賀: はじめは大分から来ていました。後には八重山付近です。で、慶良間の松田和三部さんが鰹節工場のことで顕彰されたりしていますが、あれは松田さんが地元の人を使ってやったからなんで、始めたのは古賀の方が一年早いそうなんですね。ただ職人が他県から来た人だということですね。藍綬褒章は翌年になったそうです。それで、思い出しましたが、辰四部さんが亡くなられるときに「おれは考え違いをしていた。大東島を手離したのはおれの失敗だった」とおっしゃっていたと、善次は話をしておりました。やっぱり拝借願いを出す前に探検するとき随分苦労されて、糸満の漁夫でも恐れをなしてへたばるというような嵐の中を、自分が頑張ったからなんでしょうね。  

 

記者: 辰四郎さんが亡くなられたのは?  

 

古賀: 昭和七年です。  

 

古賀: あんまりたくさんはいませんでした。戦争になってからはわずかで、若いのが三人と年守りが三人、あとは船が入って忙しいときに仲仕を三人、臨時で雇っていました。  

 

記者: 使用人は通いで?  

 

古賀: 住込みは二人でした。  

 

記者: 主に沖縄の人ですか、使用人は?  

 

古賀: ええ、八重山で仕込んで来た人がいましたね。  

 

記者: 沖縄県出身以外の使用人は?  

 

古賀: 山口県から一人来ていました。その人だけですね。  

 

記者: 八重山の支店をやっていた人は?  

 

古賀: 照屋という人です。  

 

記者: 八重山のかたですか。  

 

古賀: いいえ、那覇の牧志の人で、商業の頃、古賀(善次)と同級だったそうです。  

 

記者: 古賀さんは東京の大倉高商のご出身でしよう。  

 

古賀: 古賀は一学期は那覇商業に通っていたらしいんですがね、そのときの同級生です。その頃、御木本さんがおれのところはみんな大倉高商出を使っている、優秀だからそっちに行かしたら、ということで、移ったらしいんです。  

 

 

 

尖閣列島の処分

 

記者: 黄尾嶼は米軍の演習場になっていますね。あれは最初から、まだ本土におられるときから、軍用地料は入っていたんですか。  

古賀: あれはね、初めはぜんぜん入らなかった。それで、古賀の友人に三井物産の砂糖部の頭をやっている人がおりました。その人に頼んで書類を書いてもらって申請したんですよ。そしたら、すぐにその月から出ました。驚くほど早かったですよ。  

 

記者: 尖閣を処分されようと思ったのは?  

 

古賀: あれはね、栗原さんが、私どもがまだ国場ビル隣りにいる頃、二度ほどお頼みに来られたんですが、古賀はそっけない返事をして「売らない」としか言わなかったそうです。 そしたら、その後、三年ほどしてから、何度も見えられましてね。で、あんまり言うもんだから、南小島と北小島、あれはいま何かしようと思っても何も出来ない島だけど、それでもよかったら、その二つはお譲りしましょうと言ったんです。 そしたら、結構です、その代わり、魚釣島をお売りになるときの証文代わりに頂いておくというわけなんです。で、その二つはお売りしたんです。そしたら、一昨年(注意1)の八月、十月にも見えられた。そのとき主人の具合が悪かったんで、そのままだったんですが、去年の二月にもまた見えられたんです。そのとき古賀は、はっきり言わなかったんですが、それだけおっしゃられるんなら、まあ、へんなことにお使いになられないんだったら・・・・というような意味のことを言ったんです。そのあと三月五日に古賀は亡くなりましてね。で、亡くなったあと四月にまた来られたんで、まあ、古賀もああ言っていたし、私もいつなんどきお参りするかわからないいし、古賀の言うところを含んで下されば、ということでお譲りしたんです。  

 

記者: 何に使うということはお聞きになりましたか。  

 

古賀: 純粋の金儲けというか、人に転売するようなことは絶対にしないということでした。まあ、あの頃から石油の話はすでに出ていましたしね、石油が出ることは確かなんですから。それはどういうふうになるかはわかりませんけれど・・・。


(注意1):1977年


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<解説>
上記は『沖縄現代史への証言・下』(1982年2月発刊)の古賀善次の妻、花子へのインタビュー記事の一部を抜粋したものである。花子は長野県飯山の出身で明治31年生まれ(1898年?月?日 - 1988年1月1日)。旧姓は八田。東大病院看護婦養成所卒業(大正5年6月卒)。東京で看護婦をして体調を崩して静養していたときに、沖縄県立病院の院長をしていた橋本が、学会で東京に来ていたときに沖縄で働くことを勧められ沖縄へ。数年間働いた後、東京に戻って新しい病院で働いていたときに、入院していた芹沢浩牧師(沖縄へ伝道に行ったが結核で東京に戻って入院していた)から古賀善次とのお見合い話を持ちかけられる。花子は以前から善次の顔は知っていたが、何をしている人かは当時まだ分からなかったという(花子談)。

author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 19:14
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明代および清代における尖閣列島の法的地位

季刊沖縄第63号掲載


明代および清代における尖閣列島の法的地位

 

奥原敏雄     

 

  序

 

本稿は、明代および清代(ただし一八九五年以前)において尖閣列島がいかなる国家主権の下にもおかれたことのなかった事実を立証しようとするものである。この事実の立証は同列島の中国領有権を主張する内外の人々によって、日本が尖閣列島を領土編入した一八九五年以前に、すでに同列島が中国領であったと強調されている今日、とりわけ重要であるように思われる。

 

ところで国際法上からみた場合、列島に対する中国の実効的支配の事実が存在しない以上、一八九五年以前に尖閣列島が中国領であったと考えることは非常に困難であるが、反面中国の領有権を主張する人々が主として歴史的見地からこの問題をとらえているため、かならずしも尖閣列島の領有権をめぐる論争がかみあっていたといい難い面のあったことも事実である。

 

そこで本稿では、尖閣列島およびこれに関連する歴史的事実をあきらかにすることによって、歴史的観点からも列島が中国の領土として扱われたことのなかったことを立証しようとするものである。それとともに一部の人々によって指摘されている誤った歴史的理解を正し、その真の事実をあきらかにしておく必要があると考え、筆者なりの調査結果を本稿においてまとめてみた。

 

なお尖閣列島に言及した若干の古文書に対する文言上の解釈についての筆者の見解は、本誌第五十六号にあきらかにしたとおりであって、それは、今日においても、基本的にはかわっていない。ただしその後井上清氏(京都大学教授・日本史)などによっていくつかの古文書の存在があらたに指摘され、中国領有の有力な証拠とされているようであるが、これについての著者の見解は、別の論文で詳述する予定であるので、本稿ではこれに触れない。

 

  一、 隋書の龜鼊嶼は魚釣島か

 

尖閣列島の島々がはじめて文献上にあらわれるのは、一五三四年に冊封使として琉球へ使いした陳侃の誌した「使琉球録」においてであるとされているが、これらの島々の存在自体は、それよりもかなり以前から、おそらくは十四世紀のはじめ頃には、すでに十分認識されていたものと思われる。

 

歴史学者の中にはさらに年代をさかのぼって、七世紀のはじめにその存在が知られていたとするものさえある。すなわち藤田元春氏は『隋書』の「東夷列傳流求国」にみられる龜鼊嶼を魚釣島であると主張される。

 

藤田氏によれば『隋書』の「帝遣武貴郎将陳稜、朝散大夫張鎮州率兵、自義安浮海撃之、至高華嶼又東行二日至龜鼊嶼又一日便至流求……」における龜鼊とは音「クヒ」で「クバ」であり、高華嶼とは台湾の富貴角の北に位する「彭佳嶼」のことであると解されている(藤田元春『日支交通の研究(中近世篇)』昭和十三年)。

 

もし藤田氏の解釈が正しいとすれば、魚釣島は隋煬帝の大業四年(六〇八年)にすでにその存在を知られていたこととなる。『隋書』の龜鼊嶼と高華嶼の位置については、古くから関心がもたれており、わが国でもさまざまな説がある。冊封使徐葆光や周煌もそれぞれの使録(『中山伝信録』および『琉球国志略』)の中でこれらの島について言及している。もっとも両封使とも、右の島々の存在には壊疑的で、結局実在しないものと断じている。

 

『中山伝信録』巻之四は、次のようにのべている。

 

「臣葆光の調べたところによると、古くから伝えられた島嶼には誤謬がとても多い、これは先人の使録で分ったものである。前明一統志では次のようにのべている、龜鼊嶼は国(注 琉球)」の西方にあり、船で一日かかる。高華嶼は国の西方にあり、船で三日かかる。いまこの二つの島嶼を調べてみたら、皆なかった」

 

鄭舜功は『日本一鑑』「桴海図経」(一五五六年)巻之一において「自澎湖次高華次龜鼊次大琉球亦使程也」とのべるとともに、別の馬歯山(慶良間諸島)を過ぎたところの行程において「南風用正卯(東)鍼或正寅(東北東)鍼、経取華山即高華山、次取七島(注 宝七島のことで日本領)」と説明している。他方同じ著者は本書「桴海図経」巻之二の「滄海津鏡」と題する海道図において、龜鼊嶼を●迤山(注 伊江島)(●は辶に里)と熱壁山(注 伊平屋列島)との中間西側に図示し、華山をその北に描いている。

 

藤田氏は上述の著書の中で「『日本一鑑』の著者は馬歯山の東に崋山(亀山?)をあげて即高華山とのべたがこれ又違っている」とのべておれれるが、鄭舜巧は「桴海図経」巻之一で、馬歯山の北から東又は東北東へ針路をとると記しているにすぎず、実際この方向へ縫鍼を用い針路をとった場合には、南風を利用しているわけであるから船は北東から北北東の間を北上することとなる。しかも鄭舜巧は藤田氏の指摘した馬歯山の東に崋山を描いてはおらず、さきの「滄海図鏡」によればあきらかに馬歯山を北上したところに位置させている。鄭舜巧が龜鼊嶼と華山(即高華山)を伊平屋列島の一部とみなしていたことが正しいか否かは別として、藤田氏の鄭舜巧についての指摘は誤りであったというべきであろう。

 

龜鼊嶼を伊平屋列島の一つと考えていた学者として、わが国の新井白石がいる。しかし新井白石は『南島志』(一七一九年)において、高華嶼を台湾、計羅間(おそらくは慶良間と解される。ただし奄美大島の近くにある家刺夢=加計呂麻島も類音である)を龜鼊嶼と解するという非常に誤った仮定の下に、龜鼊嶼の位置を割り出している(この点を批判する歴史学者としては、武藤長平『西南文運史論』「大正十五年」がいる)

 

このほか秋山謙三氏は、申叔舟『海東諸国記』(一四七一年)の「琉球図」にある「花島去琉球三百里」の花島を高華嶼とみなされている。だが『海東諸国記』における島嶼の位置とか距離はきわめて大雑把であり、仮に花島を高華嶼とになしても、この地図にある花島の位置に、現在の島嶼をあてはめることはとうてい不可能である。『海東諸国記』は慶良間、久米島、花島を東から西へと大体一線上に並べているが、久米島から琉球までの距離を百五十里としているから、花島はこれからさらに久米島―琉球とほぼ同じ距離だけ西方に位置していなければならないが、このような位置にはまったく島嶼は存在しない。

 

ところで鄭舜巧は澎湖より高華、龜鼊の順に大琉球へ至ることを説明しているが、「滄海図鏡」では、沖縄本島北西海上の北から華嶼=即高華山、龜鼊嶼を続けて図示している。かくしてこの使程は、澎湖諸島を北上して東支那海へ入り、さらにこれを斜に横断して沖縄本島(大琉球)の北西方海上にいたり、次いでそこから南下して、高華、龜鼊各嶼を過ぎ、大琉球の那覇へ入港することとなる。だがこのような航路はあまりにも不自然であるばかりでなく、遠回わり、逆流、逆風となるので実際に利用されたとはとうてい考えられない。

 

あるいは鄭舜巧が「小琉球」とすべきところを「大琉球」と誤って記したものであったかもしれない。もしそうであれば澎湖諸島から小琉球(台湾)へ至る途中に高華、龜鼊の島々が存在することとなる。そこで林豪総修『澎湖廳志』(一八九三年)をみてみると、同書第一巻「封域」の中で彭湖諸島の各島嶼を説明しているが、「奎壁山」について、次のように記している。

 

「奎壁山……在大山嶼奎壁澳北寮社後距庁治二十三里原名『雞籠』以形似得名」

 

『澎湖廳志』から二年後に伊能嘉矩氏は名著『台湾志』(明治二十八年)を公けにされているが、その中でも奎壁嶼をもって龜廳嶼とされている。伊能氏はさらに高華嶼についてものべられ、彭湖八罩島の西にある華嶼であるとされている。

 

かくして龜廳嶼の位置は、大琉球の南西方海上(魚釣島)か、大琉球の北西方海上(伊平屋列島)あるいは小琉球の西方海上(奎壁嶼)の三説に分れるとみてよいであろう。この中「伊平屋列島」の一部とになす説はたんに位置的に推定しているだけで、これに類音の島嶼をあげているわけではない。またこの場合は東行して大琉球へ至るというよりは、南下して大琉球へ赴くと表現した方が正確である。さらに新井白石のように誤った仮定の下に龜鼊嶼にの位置を算定した結果、伊平屋列島となったにすぎないものもある。すでにのべたごとく鄭舜巧の場合には航路としてあまりにも不自然で実際上にはほとんど考えられない。

 

次に龜廳嶼=魚釣島説であるが、冊封諸使録その他から、彭佳嶼と魚釣島の航路は『隋書』の水二日を要せず、せいぜい一日(十更)の距離にすぎない。反対に魚釣島から大琉球までは『隋書』の水行一日では、まったく不可能で約三日(魚釣・黄尾四更〜五更、黄尾・赤尾十更、赤尾・大琉球十五更)を要する。徐葆光や周煌が龜鼊嶼などの島々を実在しないものと結論したのも、おそらくこの水行日数を起算しての上であったと思われる。


結局最後に残った澎湖諸島の西に位する奎壁嶼が龜鼊嶼であったと考えるのが、もっとも妥当な結論のように思える。この場合は『隋書』の水行日数とほぼ一致するし、東行すれば小琉球へいたる(魚釣島の場合北上して後東行する)。原名と考えられる島嶼も存在するし、原名の由来もあきらかにされている。


陳稜の遠征した流求が、大琉球(沖縄)ではなく、小琉球(台湾)であったことは、東洋史学者の間でも通説であり、藤田氏も『隋書』の中のかなりの記述が大琉球ではなく、小琉球であることをみとめておられる。ただ藤田氏は『隋書』の中には大琉球とみられる記述も含まれているとして右のような解釈をおこなったわけである。しかし上述したように藤田説は水行日数からも成り立ちえないし、龜鼊嶼の音を「クヒ」あるいは「クバ」と解されるとしても、魚釣島が沖縄において古くからユクン・クバと呼ばれていたことと結び付けることにはかなり問題がある。第一いつ頃から沖縄でユクン・クバと呼ばれるようになったかが不明であり第二に、ユクン・クバは魚釣島と久場島の二島を総称した名称であったかも知れず、少なくとも魚釣島一島の名前であると一方的に断定しえないのである。第三に、島の大きさ、外貌からしてもクバよりもユクンの方が目立つわけであるから(順序としてもクバ・ユクンではない)、ユクンに類音の島名を『隋書』が用いるのが普通であったといえよう。第四に、魚釣島をクバ、黄尾嶼をユクンと錯簡して呼んでいたこともあったが、(実際にもクバ=ビロー樹は、魚釣島の方に圧倒的に多い)これは十八世紀の末以後のことであったにすぎない。以上の検討によって龜鼊嶼を魚釣島と解しえないと結論しうるのである。

 

  二、  尖閣列島航路の歴史

 

台湾北方の雞籠嶼から花瓶・綿花・彭佳各嶼を経て、尖閣列島、那覇へと至る航路は、夏迅(旧暦五月から六月)の季節風(南風)を利用することによって発達したものである。

 

この航路をさらに北へ延長すると、八世紀初葉から利用されてきたいわゆる「南路」がある。南路の利用は七〇一年の第六次遺唐使船以後とされており、博多から五島列島、薩摩を経て、種子島、屋久島、沖縄本島へ至り、風を利用して中国の揚子江へ向かうというものであった。

 

他方遺唐使船が南路を用いたのは季節風を利用するという理由によったものではなく、当時朝鮮の沿岸沖を通って入唐する北路が新羅の妨害にあって思うにまかせないという政治的事情に起因していた。したがってその後筑紫の値嘉島から揚子江口へ赴く海路が開かれるようになると南路の利用も急速に衰微した。

 

遣唐使船などが当時まだ季節風を効果的に利用するまでにいたらなかったことは、これらが季節風を無視して航海したためしばしば漂流したり、遭難した事例の多かったことからも推測される。たとえば七五〇年の第九次遣唐使船が安南へ漂着したり、八〇四年の第十二次遣唐使船が福州まで流されたりしたなどはその好例である(このほか八一五年には智燈太師が台湾へ漂着している。古くは六五三年に第二次遣唐師船が遭難している。王輯五原著・今井啓一訳『日支交通史』昭和十六年)

 

このようにみてくると『続日本紀』の和銅七年(七一四年)と霊亀元年(七一五年)の条に「信覚」などの南島人が来朝進貢した記録の存在することを理由に、尖閣列島を経由する航路がすでに奈良朝以前において南島の人々に十分知られ、また利用されていたとする説(藤田元春・前掲書参照)は十分の根拠を有するものでないというべきであろう(ただしここでは『続日本紀』の「信覚」が石垣島であったか否かに関する学説上の対立には触れないこととする)。

 

季節風を利用する航海技術は、日本においては、十三世紀末頃から発達し、元との通交貿易に用いられていたことがあきらかである(この頃になると日本から中国への渡航時期も大体一定し、遭難などの事故もいちじるしく減少するようになった。王輯五原・前掲書)

 

また後に和寇が季節風を最大限に利用し、広東、福建などの中国諸省にまで侵寇を極めた。和冦の侵入経路や時期その他については中国でも特に研究され、いくつかの海防に関する著書が公にされている。その中でも鄭若曾『籌海図編』(一五六二年)は代表的なものであるが、同書巻二「倭国事略」は、これを次のように説明している。

 

「大低倭船のきたる恒に清明の後前にあり。此風候常ならず屈期方に東北風ありて多変ぜざる也。五月を過ぐれば風南より来たる。倭行くに利あらず。重陽後また東北あり十月を過ぐれば風西北より来たる。また倭の利とするところに非ず。故に防春は三・四・五月をもって大汛となし、九・十月をもって小汛となす」

 

他方琉球も、十四世紀の初めには、季節風を実際に利用するにいたっていた。すなわち洪武五年(一三七二年)琉球が中国との進貢・冊封の関係を開いた最初の頃から、琉球の進貢船載貨に胡椒、蘇木、乳香といった南洋産物資が少なからず含まれていたばかりでなく、それ以前の元延裕四年(一三一七年)、すでに琉球船(宮古船)二隻、乗員六十余人がシンガポール付近で交易をおこなっていた事実を重修『温州府志』(一六〇五年)巻十八はあきらかにしている(藤田豊八『東西交渉史の研究(南海篇)』昭和十八年)。


これら南洋諸地域との交易において琉球人がその帰途に南風の季節風を利用していたことは、いくつかの古文書によっても立証されている。すなわち安里延氏は『日本南方発展史』(昭和十六年)の中で、『おもろそうし』巻十三および『歴代宝案』所収の『南洋諸国宛琉球国王咨文』をあげて、このことを指摘されている。

 

「南風そよそよと吹きそめ何たれば、鈴鳴丸よ、唐南蛮よりの貢物を満載して我が君に奉れよ、追手のそよそよと吹きそめたれば」(『おもろそうし』巻十三、安里氏訳)

 

「来人を寛●し、蘇木、胡椒等の物を貿易し、早く風を趁ふて国に回へらしめよ」(『歴代宝案』所収「咨文」)

 

「仍ち煩はし、聴くらくは、今差去の人員、早に及んで打発し、風を趕ひ趁ふて、迅かに国に回へらしめよ」(同上)

 

ところで本節の冒頭であきらかにしたように尖閣列島を経由する航路は南風の季節風を利用することによって発達したものである。そうして南風の季節風が吹く時期は、東支那海では、さきの『籌海図編』でもあきらかにされているように、旧暦五月、六月であった。陳侃以後の歴代冊封使録において冊封船の多くが五月(残余も六月)に福州を開洋し、尖閣列島を通って琉球へ赴いているのも、この航路がこの時期にしか利用しえなかったことを示している。それだけではなくこの時期を失した冊封船や琉球の進貢船などは、翌年の同時期まで出港を見合わせるのが常であった。このことは当時において福州から那覇へいたる航路がこれしかなかったことを示唆している。ただし倭船の場合は、倭寇船にかぎらず、東支那海をかなり自由に航行していたようである。むしろ倭船においては、台湾の北にある雞籠嶼から東支那海を斜に横断し『その間に島嶼はない』、宝七島にいたり、さらに「南路」を北上し、薩摩にいたっていたようである(鄭舜功『日本一鑑』「桴海図経」巻一)。

 

したがって南風の季節風を利用して那覇へ至る場合、その出港先が福州であれ広東であれ、また南洋諸地域からであれ、常に尖閣列島を通っていたと想像される。とりわけ福州からの場合この航路はむしろ迂回するコースであったが(直行コースはその間に目標となる島嶼がまったくないために危険であり、利用されなかった。ただし那覇から福州へ至るときは、西進すれば中国沿岸のどこかに達するから、後は沿岸伝いに福州へ入港すればよいし、場合によっては最初に達した中国沿岸に上陸することもできた。したがって那覇から福州へ赴くときは尖閣列島のコースを通る必要はなかった。なお那覇から尖閣列島を通って、福州へ入港する場合、海流の流れが逆となるためかなりの日数がかかることとなる。ただし、このコースも若干使われていたようである。程順則『指南広義』―一七〇八年―の「針路条記」にはこのコースも誌されている)。南洋諸地域からの帰途の場合、この航路はまさしく最短コースであった。したがってこの航路を利用しない南洋貿易は考えられなかったともいいうるのである。

 

この事実および南洋諸地域と琉球との交易がすでに一三七二年以前からおこなわれていたであろうことを考慮するならば、尖閣列島およびこの航海ルートは、琉球人によってまず発見され、その後ひんぱんに利用されるようになったと思われる。


それでは琉球船は明代および清代を通じて一体どの程度この航路を利用してきたのであろうか。これをみてみたいと思う。まず進貢船の派遣回数であるが、一三七二年の琉球・中国における冊封関係の開始から一八七九年右の関係廃止までの五百七年間に、進貢船は合計二百四十一回(明代百七十三回、清代六十八回)中国へ派遣されていた。かくして進貢船は、その復路において、同じ回数尖閣列島を経由していたこととなる。次に中国からの冊封使派遣に際して琉球は答礼のため謝恩使を中国へ派遣した。この船を謝恩船という。謝恩船と冊封船の数は一致しなければならないから、冊封船と同回数の二十三回、謝恩船が福州へ赴いていたこととなる。さらに十一人目の冊封使であった陳侃以後のすべての冊封使に対して、琉球中山王府は迎接船を福州まで派遣した。結局迎接船は十四回派遣されたこととなる。これらを合計すると二七八回に達する。しかしこれだけではなくこのほか護送船(注 進貢物資の一部を積載する船)、接貢船(注 北京へ赴いた進貢船一行の帰国のため翌年迎えにくる船)賀正船、賀冬船、賀万寿節船、乞襲爵船、告訃船(琉球国王の崩御を伝える船)探索船(行方不明船の捜索を目的とするもの)などが同様に福州へ赴いた(小葉田淳『中世南島通交貿易史の研究』昭和十四年)。これら(進貢・謝恩・迎接の諸船を含む)の派遣回数は、記録の残されているものだけにかぎっても、洪武五年(一三七二年)から万歴十六年(一五八八年)の二百六十年間二百四十回に及んでいる(安里延・前提書)。加えて琉球から安南、シャム、スマトラ、旧港、ジャバ、マラッカなどへ派遣された勘合符船の数は一四一九年〜一五六四年の百四十五年間に、九十回を数えている(安里・前提書)。それ故少く見積っても琉球・中国と冊封関係が続いていた間の琉球船は帰途五百八十回以上も尖閣列島を通っていたこととなる(注 一五八九年以後の進貢船百四十六回、接貢船六十三回、謝恩船・迎接船計二十二回と想定して計算した。その他の諸船については推定が困難なので省略した。したがってこれらの数字の合計数より、実際の数字が下まわることはない。なお進貢船などの詳細な派遣統計表については、小葉田・前提書、また接貢船の制度などに関しては、真境名安巽・島倉竜治『沖縄一千年史』昭和二十七年)。

 

  三、  西洋および御朱印船航海図と尖閣列島

 

陳侃、郭汝霖両封使が琉球へ赴いた時代(一五三四年―一五六二年)は、東支那海交通史上もっとも重要な時期であった。すなわちポルトガル人のヴァスコ・ダ・ガマ(Vasco da Gama)が一四九八年喜望峰を廻航してインド洋へいたったのを端緒に、西洋諸国による東洋進出が開始され、やがてゴア、マラッカ、香料群島などの占領を経て、南支那海にいたった。この頃(一五一四年)からまずポルトガルが中国との交易を開始し、広東、マカオまで進出することとなる。陳侃渡琉(一五三四年)後まもなくポルトガルはさらに北上し、東支那海へ入り、福建省の漳州、逝江省の寧波にまで交易の範囲を拡大した。また一五四三年には広東から寧波に赴く途中暴風雨に遭ったポルトガル船が種子島へ漂着するとともに、六年後フランシスコ・ザビエルが布教のため来日鹿児島にいたった。同じ頃別のポルトガル人は台湾を望見し、『イラ・フォルモサ』(美しき島)と命名した。

 

このようにこの時代は、西洋諸国、とりわけポルトガルがはじめて東支那海へ進出し、極東地域に西洋の文化と植民地主義を移入した時代であった。それとともに無人の小島群でしかなかった尖閣列島の島々も次々にかれらに知られるようになり、その存在が十六世紀末以後の西洋諸国海図にもしるされるようになった。他方日本においても豊臣秀吉の天下統一成るや積極的な海外進出政策がとられるようになり、いわゆる御朱印船貿易が開始されるにいたった(一五八六年)。そうしてこれら御朱印船貿易業者によって作成された航海図にも、西洋諸国の海図とほぼ時を同じくして、尖閣列島の存在があきらかにされるようになった。

 

西洋諸国海図および御朱印船航海図については、今日、中村択氏による綿密周到な調査研究の成果が存する。ここでは中村氏の『御朱印船航海図』(昭和四十年)を借りてこれらの事情を指摘しておきたい。

中村氏によって尖閣列島の島々が示されているとされる『航海図』は、西洋諸国のものが十一枚、御朱印船航海図七枚である。これらを列挙すると次の通りである。

 

  (一) 西洋諸国海図(三枚略す)

(顱 『ドオエッツ海図』(Cornelis Doetszoon 一五九八年ポルトガル図のオランダ製写本)
(髻 『ギズベルツ海図』(Evert Gijsbertz 一五九九年、オランダ)
(鵝 『サンセス海図』(Sances 一六二三年、スペイン)
(堯 『ラングレン海図』(A.Langren 一六二〇年、オランダ)
() 『コムベルフオド海図』(Comberfod 一六四〇年、ポルトガル)
() 『カバリーニ海図』(Cavallini 一六五二年、オランダ)
() 『サンチェス海図』(Sanches スペルが異なるが、右のSancesに同じ、一六四一年、スペイン)
() 『ダメル海図』(John Damell 一六三七年、オランダ)

 

  (二) 御朱印船航海図(一枚略)

(顱法愿谿々區沺戞憤賚仔鵝伺代)
(髻法愽魍た沺戞憤賚仔鵝伺)
(鵝法愿賤僚国航海図』 (一六一三―一六一六年頃のもの)
(堯法愕儔絢系艮區沺 (一六三一―一六三六年頃使用のもの)
()『小加呂多』 (江戸初期。「加呂多」はオランダ語のKaartで、海図の意味)
(此法憫坐霎曄戞憤賚纂薫譟衆貅憩鷆綰頃のもの)

 

これらの海図においては、尖閣列島の島嶼数は一定していないけれども、二から五個である。なお全体としての島嶼あるいは個々の島の名前を付していないものが大多数であるが、若干の航海図には名称も付されている。すなわち御朱印船海図では『小加呂多』と『廬草拙』が「レイス」、『角屋七郎兵衛図』では「鳥島」と記されている(注雁現地では南・北小島のことを「シマグァー」または、「鳥島」とも呼ばれていた)。また西洋諸国海図においてはDos Reismagos と記されていた。このほか平沢元『瓊浦偶筆』の「海路記」に「見山正是赤次嶼枯美山開有一更」とあるが、この場合の赤次嶼は枯美山、すなわち久米島から一更とのべているとこらから赤尾嶼ではなく(実際に赤尾嶼から久米島の水行は十五更とされている)むしろ久米鳥島であったと思われる(注 平沢元は享保十八年生れ寛政三年没であるから、一七三三―一七九一年頃の書である。ただしここに記されている「海路記」は日本人のものでなく、中国人によったもののようである。藤田元春・前掲書)


  四、  台湾および付近島嶼の法的地位

 

上述したように西洋諸国は十六世紀末頃から、尖閣列島の存在そのものを認識するようになっていたが、この列島について西洋諸国が領土的関心を示したことは一度もなかった。植民地獲得のため東漸してきた西洋諸国にしても、これらの島々はいわば水路誌的知見による関心以外の何物でもなかった。このことは時代が下った十九世紀におけるイギリス軍艦「サマラン号」による列島調査(一八四一年)についても、同様である。

 

西洋諸国が東支那海の島嶼について領土的関心を示したのは、台湾であった。日本もまた同様であった(なおオランダは澎湖諸島についても同様な関心を示した)。

台湾に対する領有意図は西洋諸国の中ではスペインがもっとも早く、一五九七年マニラ総督が台湾占領を提議している。この頃の台湾は嘉靖年間の末頃に威継光に敗退させられた倭寇が雞籠に遁入占拠していた程度であった。一六八三年の『台湾符志』(高拱乾譔)「序」はこれを説明して「台湾孤懸海外歴漢唐宋元所未聞伝自明李天啓間方有倭奴……」と誌している。光緒六年(一八八〇年)『全台與図』でも「台湾海外島與……従古未闢荒地前明始知其地」とのべられている位に、十六世紀中葉までの台湾は、原住民以外に若干の倭寇や海寇がごく一部の地域(雞籠と台南の一部)を占領していた程度で、いかなる国家の支配も及ばざるところであった。台湾と沖縄が地理的に区別されるようになったのも明供武五年(一三七二年。冊封使の渡琉)以後のことであった。それも沖縄が大琉球、台湾が小琉球という名前で呼ばれているごとく、その大小すらまだ不明の地であった。『籌海図編』(一五六二年)巻之一の「與地全図」においても、沖縄の方が台湾より大きく描かれているばかりでなく、台湾自体が一つなのか二つなのか分らないような書き方をしている。もっともこれはさらに一世紀おくれた西洋諸国の海図も同様であって、台湾自体は単一の島として示されていない。

 

中国人にとって当時台湾は非常に恐しいところとされていた。それは澎湖諸島と台湾との間に「落漈?」と称するところがあって、ここに漂流すると、百に一つも助からないとされていたためであった(『宋史』琉球本伝)。いま一つは、雞籠嶼の付近に「弱水」と称するところがあって、舟がそこに入ると沈没するか、帰ってこれなくなるとして非常に恐れられていた(『裨海紀遊』)。これは「万水朝東」と名付けられたものであったが、これがさきの落漈と異なるものか否かあきらかでない。これらはあるいは弱水、黒水溝、滄水とも呼ばれていた。黒水溝の記述は日本の『元和航海記』にもでており、台湾と澎湖諸島との間を通るときの注意が記されている。清代の台湾に関する古文書をみるとわかるように雞籠とか淡水といった台湾にある同一の名前が澎湖諸島の中にも多くみられる。おそらくこの方が最初に付けられたものであろうと思われる。これは当時としては台湾が一島と考えられていなかったのであるから、無理からぬことでもあった。台湾の雞籠嶼の近くに弱水があるとする説もこれと同様の理由によるものであろう。また後に赤尾嶼と琉球との間に「溝」があるとする説も、台湾と沖縄が区別されず琉球と称されていた時代の「台湾」と澎湖諸島との間の黒水溝をここだと思い違いした結果生じた議論のように思われる。何人かの冊封使や閩人が、赤尾嶼の近くに溝があると信じ、他方陳侃のごとく琉球に関する当時の文献が万が一つも正確なことを伝えていないとして、溝の存在を否定しながら、この「溝」が実は台湾が琉球という名で区別されずに呼ばれていた時代のこの地と澎湖諸島との間に実在することに思いが及ばなかったのもすべて琉球に関する知識の不十分さからであったといえよう。これに対して沖縄の人々が自分たちの体験からこの「溝」の存在を否定したのは当然であったというべきであろう(この「溝」とは黒潮全体の潮流をさすものではなく、特定の水城の異状潮流を指していたと考えられる。ただこの異状潮流が黒潮に起因していたため、黒水溝と名付けられたのであろう。少くとも黒潮の流れているすべての水城を黒水溝とは呼んでいなかった。落漈とか弱水という名称は、まさしくその潮の状態=色ではなく=を指摘していたといってよいであろう)。

 

ところで翌一五九八年のスペイン艦隊による台湾遠征は失敗に帰し、今度はその五年後(一六〇三年)オランダ艦隊が台風のため澎湖に避難、上陸した。しかしこれは明軍によって退去させられた。澎湖は台湾と異なり、すでに元末(十四世紀後半の至元年間)巡検司がおかれ、福建省同安県に隷属していた。その後この地域が倭寇などの潜入地となっていたこともあって、住民を強制的に退去させ、福建省の漳泉二府の間におくとともに、巡検司制度も廃止した。しかしこのことはかならずしも中国の澎湖諸島放棄を意味するものではなく、巡検司制度の廃止もいわば国内の治安対策上の一つとしてとられたものであって、オランダに対する例にみられるごとく澎湖諸島を第三国が脅かしたようなときには、中国の領土侵害とみなして、積極的にこれを防衛する姿勢を示してきた。この点澎湖諸島と台湾は区別して考えられなければならない。

 

台湾に対する領有意図はスペインに次いで日本であり、一六〇九年徳川家康は有馬晴信、千々石妥女に命じて、台湾占領を試みたが、原住民(中国大陸人はまだ入っていない)の抵抗によって果せなかったとされている(これ以前の一五九三年秀吉が台湾の入貢を促すべく原田喜右門を現地に遣わしたといわれているが、その信憑性はともかくとして、たんなる入貢要求だけでは領有意図があったということにはならない)。


その後一六一〇年にポルトガル、また一六〇三年オランダが台湾占領の計画を立て、さらに一六一六年再び家康が邑山等安に台湾占領を命じたが、原住民の抵抗にあったりで実行されないままに終っている(台湾原住民の抵抗は激しいものがあったようで、隋および元代における中国の台湾遠征もこの抵抗のためすべて失敗に帰していた。南宋の時代には反対に台湾原住民―毗舎那人―数百人が福建省の泉州を襲っている)。

 

しかし本格的な台湾攻撃がおこなわれるのは一六一九年以後で、翌年オランダ東印度会社は台湾の占領を指令、また翌々年には澎湖を占領、さらにその翌年台湾の安平に仮城を築くにいたった。もっとも澎湖のオランダ占領には前のときと同様明軍も果敢な反撃をおこない、そのためオランダもこの地の占領を断念し、明朝の同意をとり付けて澎湖を放棄し、台湾へ撤退した。

 

オランダの台湾占領は一六六一年鄭成功の軍の進攻によって一六六二年には降伏、撤退することを余儀なくされた(鄭成功の軍隊は明朝が清朝に敗退した後の亡命軍であって、清朝からすれば奸軍の徒であった。したがって鄭成功軍の台湾占領をもって、台湾の中国領有の始まりとすることは、正しくない。これらは正当な権限を有せざる者による占拠であって、倭寇や海寇などによる占拠と性格的には同じものであった。清朝もまたそのようにみていた)。


鄭成功の軍は(かれ自身は台湾進攻の年に急逝していたが)結局二十一年間台湾を占拠したにとどまり、一六八三年には水師提督施琅の大軍の前に、無条件降伏することとなった。ここに台湾ははじめて中国(清朝)の版図に帰したわけである。もっとも占領した台湾を清朝の版図とすべきか否かについては意見が分れ、清朝高官の大多数(施琅を除く)は、台湾を征服したのは鄭氏の不逞を夷げようとするためであって、この地を永久の領土とすることには反対であり、たんに澎湖だけを従来どおり領有し、東門の鎖錀とすべきであり、そのため台湾にある中国人はことごとく中国本土に移し、すべからく台湾をあげて版図の外に放棄すべしと主張した(伊能嘉矩・前掲書)。

 

だが清朝内部における台湾遺棄論は、施琅の熱心な説得により、最終的には撤回され、台湾を清朝の版図に入れることが決定され、翌一六八四年これを福建省に隷属せしめるとともに、一府(台湾府)三県(台湾・鳳山・諸羅)を設けた(注 なお前掲『台湾府志』は「台湾自康熙二十年始入版図」「上二十一年特命靖海将軍俟施公、師率討平之、始入版図、置郡邑」と誌しているが、これは誤りで正確には康熙二十二年に版図編入されたものである。乾隆三十年(一七六五年)の余文儀『続修台湾府志』を含めて、これ以後のものは、すべてこのように訂正されている)。

 

なお中国の版図へ編入された後の台湾の行政的範囲は、大雞籠嶼までと明示されており、この事実は日清講和条約成立直前まで変更をみていない。綿花、花瓶、彭佳三嶼が行政上台湾の範囲に含められたのは光緒三十五年(明治三十八年、一九〇五年)であった(基隆市文献委員会『基隆市志(既述篇)』一九五四年)。

 

大雞籠嶼が台湾の北限あるいは北界であったことは、以下の文献があきらかにしている。

 

周鐘瑄『諸羅懸志』(一七一七年)巻一「疆界」(県治東界大山、西抵大海、南海鳳山県西南界、台湾県北界大雞籠山)
同書巻一「山川」(大雞籠山巍然外界之天半、是台湾郡邑之租山也)
陳培桂『淡水廳志』(一八七一年)巻一「封城志・疆界(加行五里、至大雞籠租山、沿海極北之道止)
『台湾府輿図纂要』(清刊)「台湾府輿図識・淡水廳」(大雞籠山……淡廳極北之区為全台租山)
『台湾道姚瑩禀奏台湾十七国設防状』(道光二十年、一八四〇年)(大雞籠在淡水極北、転東之境、距淡防廳二百五十五里)

以上によって日清講和条約成立以前において、尖閣列島はもとより、台湾と琉球・久米島との間に散在するすべての島嶼(大雞籠嶼とこれより台湾に近い六個の付属島嶼を除く)はいまだ帰属不明のままにおかれていたと結論しうるのである。


【国土館大学助教授・国際法】  

 

 

author:senkakujapan, category:尖閣諸島, 09:04
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尖閣諸島を売却の地主が受けていた「政府からの恫喝」
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尖閣諸島を売却の地主が受けていた「政府からの恫喝」



http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130517-00010004-jisin-pol


女性自身 5月17日(金)0時0分配信


 国有化から8カ月。尖閣諸島沖の緊張状態が続くなかで、魚釣島や北小島、南小島の3島を国に20億5千万円で売却した栗原家は、その後どうしているのか。

 早くから栗原家に多額の借金があることを報じたジャーナリストの和仁廉夫氏は「石原前都知事の尖閣購入発言を聞き、長男の國起氏の自宅、経営していた菱 屋会館の登記などを調べて、三菱東京UFJ銀行に極度額24億5千万円もの“借金”があることを突き止めた。だから、3島の国有化は、私は栗原家救済では ないのか?そう思いました」と指摘する。

 本誌が、栗原家長男・國起氏の自宅など不動産を調べると、4月になって、極度額24億5千万円の根抵当権が解除されていることがわかった。借入金の全額 がその数字とは限らないが、売却した金で解除したことはほぼ間違いないだろう。栗原家のスポークスマンで、國起氏の弟にあたる弘行氏が事の真相を話してく れた。

「100億円以上あった借金を、兄は当時所有していたビルを100億円で売却して25億円まで借金を減らした。そして今、相続のことを考えると、借金をな くすこと自体がきわめて危険なんです。まだ兄は4千坪以上の土地を持っていますから。万一を考えると返済しちゃってどうするのかのほうが心配で、緊急に返 す必要のない金だった」

 弘行氏はここで思いがけない事実を明らかにした。当時、野田首相の支持のもと、栗原家との交渉には長浜博行官房副長官があたっていたが、それは半ば恫喝だったというのだ。

「国への売却合意は昨年9月のこと。そのころ自民党が離島国境の法案を準備していて、長浜さんらが『自民党はとんでもない法案を出しますよ』と言うんで す。それは、土地収用法の規定を使っての法案でした。自民党の法案は、有人となっていたものが、これからは無人島まで入ることになっていた。つまり、尖閣 諸島も対象となり、強制収容の可能性も出てくる。一般的には素通りしてしまうと思いますが、それは栗原家にとっては大きな問題でした」

 というのも、栗原家には土地収用法に対して苦い記憶が今もあるという。それは25年にわたる裁判の歴史でもあった。

「1961年にさいたま市(現在)の『大栄橋』という大きな陸橋を建設する計画で、たもとの父の土地、建物が引っかかり、立ち退かないという理由で強制収 容執行を受けた経験があります。25年後の1986年に補償金5,500万円で勝訴したものの、その代償はあまりにも大きかった。土地収用法の怖さという ものは経験者じゃないとわかりません。栗原家にはそれはタブーです。トラウマといってもいい」

(週刊FLASH 5月28日号)

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尖閣地主一族が耐える「中国のいやがらせ」30年
  尖閣地主一族が耐える

「中国のいやがらせ」30年

http://jisin.jp/serial/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84/flash/5139



尖閣地主一族が耐える「中国のいやがらせ」30年(今週の週刊FLASH) - 女性自身

2012年07月20日 00:00


4月16日、石原慎太郎都知事がワシントンでの講演で、まるで中国を煽るかのように、尖閣諸島のうち個人が所有する魚釣島、北小島、南小島の3島を東京都 で購入するとぶちあげた。それに対し、今月11日の日中外相会談の朝、中国の漁業監視船3隻が尖閣沖の領海内に侵入し、日本を挑発する行動に出た。


「じつは、島の所有者である栗原一族は30年以上にわたって、さまざまな手口で中国からいやがらせを受けてきたんですよ。そのため、今では自宅(さいたま市)のお屋敷はまるで要塞のようになっています」


そう語るのは20年来の知人だ。確かに自宅の周囲は高い塀で囲まれ、その塀には鋭く尖った矢や釘が並び、電線と「高圧危険」の文字が見える。監視カメラが常時作動し「録画中」の文字も。

「前所有者の古賀一族から島を譲り受けて以来、中国政府の商務部(日本の経済産業省にあたる)人間が何回も島を買いに来ました。ときにはその代理人と思し きヤクザ風の人間が『売らんかい』と凄んできたり、中国系のリゾート会社の名刺を持った人間が一緒にリゾート開発をやらないかと勧誘に来たり、とにかくわ けのわからない人間が次々と訪ねてきたそうです」(前出・知人)

中国側が350億円で買いに来たという話も、そのリゾート開発の話のときだという。業者が勝手に金を置いていってしまい警察に届けたことも。やがて断り続ける栗原一族に、陰湿ないやがらせが降りかかるようになった。

「栗原兄弟の次男である國起さんの息子さんが小学生のとき、下校中に見知らぬ男から声をかけられたことがありました。大きくなっての結婚式の際には『式を めちゃくちゃにするぞ』と脅しの電話があったとも聞きます。また、家の中に動物の死骸かと思いますが、異物を投げ込まれたこともあったそうです。脅迫電話 もたびたびで『売らないと大変なことになる』と真夜中に電話がかかってくることもありました。島を売るのを断るたびにです」(同前)

現在、栗原一族では兄弟の三男である弘行氏だけがマスコミの取材を受けるが、島の所有権を実質的に持つ次男・國起氏はけっして姿を見せない。その理由は30年以上にわたるいやがらせにあったのだ。

「いやがらせにも負けず、栗原一族はつねづね『日本を守る』と言っておられた。しかし一昨年の漁船衝突事件をきっかけに、もう個人じゃ守りきれないと思わ れたのでは。栗原さんは20年も前から、島に避難港を造り、自然を保護し、誰もが行けるようにと話しておられた。しかし、国は賃貸契約しているにもかかわ らず何もしていない。だから石原さんだったんです」(同前)

(週刊FLASH 7月31日号)


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大気汚染は「日本が元凶」
 


  http://sankei.jp.msn.com/world/news/130207/chn13020720110006-n1.htm


【中国大気汚染】


「日本に元凶」中国ネットメディアが“責任転嫁”

2013.2.7 20:08 [中国]6日、すさまじい大気汚染でかすむ朝日=中国・北京(ロイター)


 【上海=河崎真澄】中国で深刻化している大気汚染について「日本に元凶がある」との論調が出回り始めている。中国のニュースサイトには「日本から汚染物質が飛来した」「中国で操業している日系企業の工場排気が汚染源だ」などとする論評が掲載されている。

  いずれの論評も反日的な論調で知られる評論員によるもので、飛来説を唱える中国経済網の張捷氏は「日本は原発事故後に火力発電所やゴミ焼却施設から有害な 排気が増えた」と主張。華竜網の謝偉鋒氏は「30年も前から労働力を求めて中国に工場進出してきた多数の日系企業に環境汚染の責任がある」と批判した。

 これに対し日系企業関係者は「中国の工場で環境基準や関連法規を徹底順守しているのは日系や欧米系など外資系ばかりで批判は当たらない」と反論。ネット上でも中国国内から「日本を非難する前に、自分たちの汚染源を止めろ」と冷静にみる声が上がっている。

 だが、日系企業の一部工場が大気汚染を理由に、周辺工場と合わせて地元当局から一斉に操業停止を命じられたケースがあった。尖閣問題で強硬論が渦巻くネット世論が今後、大気汚染でも日本に“責任転嫁”する可能性があり、日系企業では懸念を強めている。







http://sankei.jp.msn.com/world/news/130201/chn13020117040002-n1.htm


 
 
日系企業にも影響拡大

 中国大気汚染、操業停止も


2013.2.1 17:02 中国
 

有害物質を含む濃霧に包まれた北京の天壇公園を訪れる観光客ら=1月31日(共同)

 中国の大気汚染の影響が日系企業にも広がっている。操業停止の指示を当局から受けたり、従業員の健康を守る自衛策に追われたりしており、環境悪化は中国進出のリスクを高めている。

 北京市当局は汚染対策のため1月29日、TOTO(北九州市)など市内約100社に工場の操業停止を指示した。

  TOTOは日本の環境基準で操業していたが、市当局は一定規模の工場に一律に操業停止を指示したとみられ、31日までの3日間、水洗便器など衛生陶器の生 産工場の操業を停止した。当初は2月1日まで停止する予定だったが、1日は強風の影響などで大気汚染が改善されたため、この日の操業再開が認められた。

 市当局は今後も汚染が悪化すれば企業に生産停止を求める構え。日系企業関係者は「北京以外でも当局が生産調整を求める動きが広がる可能性がある」と警戒する。(共同)



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中華圏メディア、中国が“制圧”へ 台湾、香港で強まる親中色
http://sankei.jp.msn.com/world/news/130326/chn13032608200002-n1.htm

 

中華圏メディア、中国が“制圧”へ


   台湾、香港で強まる親中色


2013.3.26 08:19
(1/2ページ)中国


 中国の対外宣伝工作が、最近とみに激しくなっている。中国外交の内情に詳しい消息筋によれば、尖閣問題をめぐる対外宣伝のため中国当局が昨年使った予算は80億元(約1200億円)にのぼるという。(フジサンケイビジネスアイ

 最近は日本のホテルでも、中国政府系の英字紙が無料で提供されていることがある。これも、広義の宣伝工作の一環なのかもしれない。

 中国の影響力行使は、こうした直接的なものに限らない。より間接的な手法で、中華圏のメディアや言論のあり方に大きな変化を起こしている。

 それが露骨に表れているのが台湾だ。大陸ビジネスで成功した台湾企業がメディア事業に進出し、中国当局の意を体した記事を流すようになっている。

 その主役が、製菓大手の旺旺(ワンワン)集団だ。旺旺の主力製品は日本企業から技術を学んだ菓子で、1990年代に大陸に進出。いまや大陸に100カ所以上の工場を持ち、グループ全体の従業員数は5万人を超える。

 オーナーの蔡衍明(さいえんめい)氏は、2008年に新聞やテレビ局を傘下に持つ中時集団を個人で買収。さらに翌年には香港のテレビ局も買収して中華圏におけるメディア王となった。

  蔡氏の言動は極めて中国寄りだ。昨年9月に台湾の漁船団が尖閣周辺海域に向かった際にはスポンサーとなり、漁船は「旺旺中時」の横断幕を掲げた。蔡氏が買 収したメディアの報道姿勢は親中国色を強められた。こうした動きへの反対運動が組織されると、傘下のメディアは運動のリーダーに執拗(しつよう)な個人攻 撃を加えた。

 昨年11月には、旺旺のメディア買収に批判的で「宿敵」とされてきた「りんご日報」をも買収。これによって台湾での旺旺グループ傘下の日刊紙のシェアは5割に達した(朝刊ベース)。

 旺旺はケーブルテレビ局買収にも名乗りをあげている。その動きを止めるべく、台湾では「メディア独占禁止法」制定を求める声が高まっており、関係当局が法案をとりまとめ中だ。

  オーナーによる中国への「配慮」が目立つのは台湾だけではない。中国本土との経済関係が緊密化している香港でも、中国政府に批判的なメディアは少なくなり つつある。中華圏のメディアに詳しいNHK放送文化研究所の山田賢一主任研究員は「台湾が親中派メディア膨張の“迎合型”なのに対し、香港は自主規制強化 の“遠慮型”」だと分析する。

 情報統制が厳しい中国の内情に関する報道では、さまざまな人的ネットワークが頼りだ。そこで圧倒的な強みを持つのが香港や台湾などのメディアである。

  彼らには、民主主義や人権といった価値観に立つ報道によって、チェック・アンド・バランス機能を果たしてきた面もある。共産党一党支配の中国に、決定的に 欠けている役割だ。翼賛メディアを内外で抱えても中国の安定にはつながるまいと思うが、どうだろうか。(「週刊東洋経済」副編集長 西村豪太)


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伝統の「遠交近攻」戦略も通じず… アフリカ「中国愛から目を覚ませ」
 http://sankei.jp.msn.com/world/news/130327/chn13032703410001-n1.htm


伝統の「遠交近攻」戦略も通じず…


  アフリカ「中国愛から目を覚ませ」(3月27日)


2013.3.27 03:40
(1/2ページ)産経抄
24日、タンザニア・ダルエスサラームでキクウェテ大統領(右)と会談した中国の習近平国家主席(ロイター)


 中国で北朝鮮がほされ始めたらしい。北京発の韓国メディアによれば、習近平国家主席の就任を祝う各国首脳からの祝電で金正恩第1書記のものが4番目に紹介された。これまでの外国首脳からの祝電では常にいの一番だったのが、一気に「格下げ」になったという。

 ▼核実験強行に中国が本気で怒っていることを示したのだろう。大国ぶるのが好きな北にはお気の毒というしかない。だがそれより気になるのは、北を追い抜いて先に紹介された3つの国である。順にロシア、パキスタン、ナミビアだそうだ。

 ▼ロシアの1位は日本を牽制(けんせい)する「中露蜜月」を見せつける意味だろう。パキスタンもインドへの対抗と見ればわかる。ただアフリカのナミビアが3位というのは事実とすれば意外な気もする。ウランやダイヤモンドを産出するが、人口200万人余りの国である。

 ▼むろん中国がアフリカの国々を大事にするのは今に始まったことではない。日本や東南アジアには攻撃的に出てアフリカ諸国と親しくする。この国伝統の「遠交近攻」戦略だ。習主席もロシアに次いで今、タンザニアなどを歴訪している。

 ▼だがこの中国外交に対し、当のアフリカ内部から批判が強まっている。資源をあさるだけで何も与えないというのである。「中国への愛から目を覚ませ」というナイジェリア中央銀行総裁の英紙への寄稿もあったそうだ。最近のアフリカ優遇はその修復ねらいと見てもいい。

 ▼タンザニアの大統領は習主席の訪問を聞いて「耳を疑った」という。これまで中国とはむしろ疎遠だったからだ。まずそんな国から「落として」いくという意図がありありである。「近攻」される国からは目を離せない「遠交」だ。



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20年間判断を過ち日本国民をミスリードするマスコミ
この記事から20年経過した。毎日新聞の判断が間違っていたことは明らかである。にも関わらず毎日新聞はその姿勢を改めない。ここに毎日新聞の抜きがたき植民地根性がある。てはその植民地根性はどこを宗主国と仰ぐのか。曰く、支那である。曰く、米である。曰く、ロシアである。曰く、韓国である。曰く、北朝鮮である。曰く、フランスである。曰く、イギリスである。

つまり、毎日新聞は憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」に隷属し、日本という主体を放棄しているのである。

日本が尊いのか、それとも日本国憲法が尊いのか。答えは考えるまでもない。日本国である。我らの生存にとって一番肝心な、日本が抜けている。毎日新聞が植民地根性、奴隷根性から脱せない理由である。我らは日本人として生きる。そのための自由を要求する。日本国憲法は占領基本法であって、その根本原理は憎しみと報復である。それらに支配されることは我ら日本国民にとって堕落である。人間としての堕落である。

愛と真実こそが人間を支配する最高の理念だ。その愛と真実は世界の国だけその形がある。我らの祖国日本は信頼と尊敬を基本とする国である。そのことに何故に絶対的自信と誇りを持てないのか。

日本国民としての魂を取り返す。

毎日が判断を謬り続けている原因はここだ。日本の魂を取り戻すことが現代日本の喫緊で最大の課題である。自らを卑しむところに「崇高な理想と目的」(憲法前文)など存在しない。人間としてと言うが、祖国と先人への誇りと敬いがない者に人間たるの資格はないことは洋の東西を問わぬ。

人類史の上でこれ以上ない殺戮虐殺をなしたのはソ連であり、支那であり、ポルポトである。皆社会主義の徒輩である。社会主義とは何か。唯物主義である。国家否定である。心なきイデオロギーである。我のみ尊く、他は全て間違いの不信の徒である。そんなところに人類の大道など存在せぬ。






 

[社説]ASEANに地歩得た中国−−南沙諸島問題

1992/07/23 (毎日新聞朝刊) 日本財団図書館

 二十一、二十二日マニラで行われた東南アジア諸国連合(ASEAN)外相会議で最大の焦点になったのは、南シナ海に散在する南沙諸島の主権、開発を巡る諸問題だった。

 この問題が緊急の課題として浮上したために、今回の外相会議では、域外からのゲストである中国が、最大の主役としてスポットライトを浴びることになった。

 中国は南沙諸島に争う余地のない主権を持っているとして、領海法にその領有を明記している。だがこの諸島はベトナムがチュオンサ諸島の名で全面領有を主張、ほかにマレーシア、フィリピン、ブルネイと台湾が部分領有を主張している。

 ブルネイを除く関係諸国・地域は軍隊を送って部分的に実効支配を行っているほか、この諸島はスプラトリー諸島と呼ばれることが多いほどで、領有権が国際法上確定しているといえるかどうかは難しい。

 諸島とはいっても島と呼べるほどの広がりを持っているものは少なく、ほとんどは岩礁、環礁のたぐいである。だが、周辺海域に石油・ガス資源の埋蔵が見込まれるのと、インド洋と太平洋をつなぐルート上に位置するのとで、関係国の姿勢は強硬で、領有権で妥協する気配はない。

 周辺国だが領有を主張していないインドネシアの仲介で、これまで三回にわたって関係国が非公式協議を重ね、領有権問題を棚上げして共同開発を進めることで合意ができていた。

 ところが今年に入って、中国は領海法を制定して南沙諸島を領土に組み込み、米国企業とこの海域での海底油田探査の契約を結び、さらに軍隊を出動させて岩礁の一つに領土標識を立てるなど、一方的な行動に出て周辺諸国を緊張させている。

 こうした状況下で開かれたASEAN外相会議に、ゲストとして招かれた銭其〓・中国外相は、領有権問題を棚上げにし、当事国間で共同開発を進めるという、従来の中国政府の立場を再確認した。

 おそらく中国は領有権を放棄する気はないだろうが、共同開発を認めることで、中国がこの海域、ひいては東南アジアに利害を持っていることを、ASEAN諸国に確認させる意図があったものと思われる。

 中国は東アジアの大国ではあるが、東南アジアの国ではない。しかし今回のASEAN外相会議で、この地域に直接的利害を持つ重要関係国としての地位を認めさせることに成功した。この結果、将来必ず議題にのぼってくるはずのASEAN安保構築に、発言権を確保するきっかけをつかんだと、いえるのではないか。

 南沙諸島でのかなり強引な行動と、ASEAN外相会議での柔軟な態度の組み合わせで、中国は対東南アジア外交に大きな成果を収めたといえよう。 最近中国は急速な軍事力拡大に乗り出している。ロシアから最新鋭のスホイ27型戦闘爆撃機を導入しつつあるほか、ウクライナから新造空母を購入するとの情報も伝えられている。海軍の行動範囲拡大には極めて意欲的で、すでに西沙諸島の一部に基地を建設したとされる。アジアの軍事大国への道を着実に整えつつあるようだ。

 ASEAN諸国は、フィリピンのスビック海軍基地から年内に米軍が引き揚げることになっていることから、この地域に生じる軍事的空白に神経質になっている。マレーシアが南沙諸島の現実に合わせて、ロシアからミグ29型機を緊急購入するといわれるように、この地域には、軍備拡張に火がつきかねない危険があるのが気にかかる。

 欧州がすでに卒業したかに見える軍備拡張合戦を、アジアでこれから始める愚行を犯さぬよう、アジア人の知恵の深さが問われるところである。


author:senkakujapan, category:-, 07:26
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