RSS | ATOM | SEARCH
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

author:スポンサードリンク, category:-,
-, -, - -
寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(6)
 新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より



 □ 結婚のため再び沖縄へ

 
――最初の七年間のあいだで、病院での生活以外に何が印
象に残っていますか。
 古賀 さっきいった謡曲、唄ですね。それを習っていなか
ったら、私、そんなに長くいなかったんでしょうね。謡曲の
先生は十文字屋さんといって、京都で修業されて、そこの先
生方と同じぐらい実力のある方でした。それを習う前までは、
当時、沖縄には映画館が二つありましてね、それが変わるた
(以上−寄留商人の妻として121頁下段15行〜22行)


 んびに、見に行ってましたよ。
 ――――謡曲を習っているのはどういう人たちですか。
 古賀 十文字屋さんというのは、中西惣吉さんといって呉
服屋さん、習っているのは、私の近辺では、慶田さん、並州
さん、それから米次という漆器屋さん、それに平尾さんなん
かですね。慶田さんは酒・醤油の問屋、並川さんは金物問屋
でした。その頃の写真がありますよ()。

    中西惣吉 明治十二年、京都生まれ。大正元年来県。
    観世流謡曲の大家。
    慶田覚大郎 慶応三年鹿児島市生れ。明治十二年那
    覇に寄留。酒類および醤油販売、米穀・砂糖・カン詰
    委託販売。
    並川亀治郎(襲名) 明治三十二年、那覇生れ。先
    代亀次郎は奈良県出身、明治三十二年の創業。金物、
    洋灰、鉄材セメント商。
    米次商店 「漆器商米次商店は開業以来既に二十有
    余年、県下同業者中泉も古き歴史を有し、…百余人の
    職工を使用し、一ヶ月約三千二百円を県外に輸出し居
    れり」(『沖絶県人事録】大正五年)
    平尾喜三郎 明治六年奈良市生れ。父喜八とともに
    明治十七年来県。内外雑貨商のかたわら、大正四年三
    共帽子商会(アダン葉帽子製造販売)を組織。貴族院
    議員。那覇商工会議所会頭。平尾商店は県内屈指の大
    商店として有名。『沖縄の百年・人物編】参照。


 ――(写真を見て)この中には沖縄の人も何人かいますか。
 古賀 そう、何人かいましたけどねえ、この中には佐久川
さんといって製糖会社の工場長をされていた人が写っていま
すね。
 ――バックはどこですか。
 古賀 波之上宮です。いまは神社ですが、昔はちょうど今
の神社の前に人が集まる場所がありますが、そこに拝殿があ
りましてね、その前で写したんです。毎年、爵曲の仲間で奉
納していましたから。
  ――で、一度東京に戻られて……
 古賀 ええ、東京へ戻って新しい病院に勤めたんです。前
に東京にいたとき同じ病院にいた医者が開業していまして…
その医者も私が最初こちらに来たときの県病院の院長さんな
んかと同級でした。で、そこで働いてくれないかというもん
だから、四年ばかり勤めました。
 ――もう一度、沖縄へ来られるきっかけは結婚されるとい
うことで?
 古賀 ええ、そうです。沖縄にいらした牧師さんで、日本
基督教会の植村正久(※)さんのお弟子さんがいまして、その人が
結核で入院されて東京に来ておられて、その人から話があっ
たもんで‥‥‥
 ――なんとおっしゃる方ですか。
 古賀 芹沢浩()牧師です。この方は、東京神学社に在学中の
(以上−寄留商人の妻として122頁−)


 ときに、植村さんがどうしてもこの人でなけれはならないと
いうことで、沖縄へ伝道にいらした方でしたが……

    植村正久一八五七−一九二五 プロテスタント教
    会牧師。富士見町教会設立。のち東京神学社を創立し、
    日本基督教会の牧師を教育養成。『旧約聖書』・讃美
    歌歌詩の翻訳によって明治文学史上にも名をとどめる。
    一九二三(大正十二)年に来島し、特別伝道を行なう。
    その時の模様は【沖縄キリスト教史料』(一九七二年)
    参照。
    ※芹沢 浩 静岡県生れ。一九二二 (大正十一)年初
    夏に沖縄赴任。一九三三(昭和八)年没。『沖縄キリ
    スト教史料』(一九七二年)を参照。

  ――じや、古賀さんもキリスト教には関心をもたれていた
わけですか。
 古賀 ちょうど寄宿舎にそういうのに関心を持ってた看護
婦さんがいまして、芹沢先生の特別伝道があるからというん
で、いっしょに出席してみたんです。で、その詰を聞いて敬
服しましてね。当時は今みたいな立派な教会ではなくて、民
家を借りたもので、県庁の内務部長なんかも椅子には座られ
ないで、石垣にもたれて開いていました。
 ――芹沢牧師とはこっちにいるときからご存知だったんで
すか。
 古賀 ええ、奥さんが信州の方で同郷でしたし、知ってい
ましたから。
 ――じや、最初沖絶にいらしたときからご存知で、それで
東京でまたお会いになった?
 古賀 はい、そうなんです。退院して見えられましてね。
で、古賀善次()をどうかと言うもんですから。

    古賀善次 辰四郎長男、明治二十六年生。那覇無尽
    株式会社監査役、那覇鰹節商同業組合、沖縄県体育協
    会の評議員など。一九七八年三月死去。

 ――古賀さんとは以前からお知り合いでしたか。
 古賀 はい、顔は知っていました。でも何をしている人か
はわかりませんでした。
 ――――謡曲かなにかの仲間というわけでは?
 古賀 いや、そうじやなくて……古賀も謡曲を習ったこと
があったらしいんですが、それはまだ付き合う前のことでし
て。
 ――善次さんはいろいろスポーツやなんかでも活躍された
ようですが……
 古賀 さあ、それはどうですかね。古賀は大倉高商(現在
の東京経済大学)にいるとき、肺尖カタルに罹ったそうで、
あまり丈夫ではありませんでしたし。若い頃のことはよくわ
かりませんが。
(以上−寄留商人の妻として123頁)

author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 19:30
comments(0), trackbacks(0), - -
寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(5)

新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より




 □ 当時の看護婦の待遇

 ――さっき、廊下にもベットを出してといっていましたが、
患者はあふれるぐらいいたわけですか()。
 古賀 ええ、一年ぐらい経ってからそうなりました。それ
までは開業医にいたのが入ってきましたが。それで県会でも
問題になりましてね、開業医から患者を奪ってる。性質上、
県病院と開業医は違ってるはずだといって。
 ――患者がふえたのはどういう事情からですか。
 古賀 まあ、だんだん那覇の人も来るようになりましたし   
ね。池畑さん()なんかが来られてからは、その周りの方も見え
られましたし。
 ――池畑というのは回遭店をしていた?
 古賀 ええ、そうです。といっても、そのころの病院はい
まみたいな大はやりではなかったですよ。半日も待たされる
なんて考えられませんでしたもの(笑)。
    ちなみに、大正十三年の『県勢要覧』によれば、県
    立病院の規模は次のとおりである。

          病床数    入院患者    延 人 員      外来患者
  大正 9   六五    七二九    二三、一三二    七、〇五二
     10   六五    七〇九    一九、三〇〇     五、八四六
     11   九〇    六六三    一五、二九六    五、四四五
     12   九〇    九三〇    一八,一八一」   五、六六二
     13   九〇    九九三    二五,六一八    六、二二四

    池畑盛之助・不二男 盛之助は鹿児島県出身、明治
(以上−寄留商人の妻として119頁上段21行〜下段22行)



    十五年に寄留。大正四年那覇運送合資会社を組織、旅
    館経営。息子不二男は明治三十一年生。

 ――いつ頃まで県立病院に勤められましたか。
 古賀 それがね、一度私、帰ろうと思ったことがあるんで
すが、チフスに罹りましてね。
 といいますのは、当時は日曜日も午前中は仕事をしていた
んですが、そのあと善興堂病院の饒平名紀秀先生が泊のサチ
ヒジャーですか、そこへ行こうと誘ってくれたんです。それ
で私、どうもここ十日間気分が悪いし、遠慮しますと言った
んです。そしたら気分直しにちょうどいいじゃないかという
んで行ったんですがね。帰ってきて熱を計ってみたら、四〇
度七分もあったんです。それで入院しなきゃだめだとやって
いるうちに気を失ってしまって……そのとき脳症を起こした
んです。世の中、わかったりわからなかったりという日が続
いて、二ヵ月ほどして、はっきり気がついてみると、院長も
副院長も代わっていましてね。
 で、その新しい院長も、ことばやなんかがよくわからない
もんで、またいてくれないかというもんで、いたんですがね。
その頃に謡曲の友だちができていたんです。もしその謡曲の
友だちがいなかったら、もう帰っていたでしょうね。それで、
五代日の院長に代わったときに、県の衛生課長にお願いして、
まあ、仕方がないだろうということで、辞めたわけです。
 ――それはいつ頃ですか。
古賀 昭和二年でした。
――すると、七年間で院長が四代も代わったわけですね。

    『官員録』によれば、大正九年〜昭和三年までの県
    立沖縄病院長はつぎのとおりである。
    橋本隆敏 (大正九〜大正十一年)
    ―――― (大正十二年は不明)
    渡辺 毅 (大正十三〜十五年)
    山森吉治 (昭和二年)
    青田圭策 (昭和三年)

 古賀 ええ、当時は任期はせいぜい一、二年でしたね。副
院長がなったりして。
 ――本土から来られて、七年も看護婦をされるというのは、
めずらしい……
 古賀 ええ、まあ、そういうことですかね。
 ――七年間いたあいだに何まか帰省されたことは?
 古賀 三年めに一度、信州へ帰りました。
 ――当時の看護婦の待遇はどうでしたか。さっき寄宿舎の
話が出ましたが……
 古賀 さっきお話ししましたけど、ハワイやなんかからも
話があったんですがね、結局、沖縄に来たんですが、あとに
なって考えると、いちばん貧乏クジを引いたみたいですね
(笑)。月給もいちはん安いしね。私、東京の頃は月給六十
五円もらっていたんです。それに一流の方が患者さんで見え
(以上−寄留商人の妻として120頁−)


 られるわけですから、今日は築地の精養軒に連れていってあ
げようかとか、今日は芝居の切符が入ったから二、三枚あげ
ようとか……また自分で見たいものがあれは自分で見にいく
とか、けっこういい生活ができたんです。
 ところが、沖縄は同じ六十五円でも、食事も被服もみんな
自分持ちでしょう。東京では食事や被服やふとんやなんか、
みんな病院の方が用意してくれるのが当り前でしたから。こ
っちへ来たら全部自分持ち……それで、みんなに聞いてみた
んですよ。そしたら商業学校や水産学校の先生だって、それ
ぐらいの月給で一家を養っているんだから、看護婦でそんな
に出すのはとんでもない話だ、というぐらいのものでね。最
後は七十五円でした。
 ――食事は外食で?
 古賀 いや、自分でしてもいいし、外食をしてもいいし…
 ――じや、寄宿舎は寝るとこだけだというようなものです
か。
 古賀 寝るとこだし、そこで自炊することもできたわけで
す。ですけど、東京ではふとんから毛布から全部ついている
でしょう、部畳も一部屋ついていますしね。なんていってい
いかしら……とにかく、こっちの寄宿舎にはびっくりしまし
た。
 ――病院に勤めている間に旅行なんかはされましたか。遠
足かなにかで。
 古賀 遠足はありました。燈台とか佐敷、与那原、セーフ
ァー御嶽、勝連城城趾、それに読谷城趾にも行きました。
 − 読谷城趾には鉄道で嘉手納まで行って……
 古賀 号ぇ、それから馬車があってね。瀬長島へ行くとき
はいつも馬車でした。
 ――県立病院では往診とかはなかったんですか。
 古賀 いや、ありましたよ。
 ――そういうときは看護婦さんも付いて行って……
 古賀 それはあまりなかったですね。
 ――当時の看護婦の社会的地位といいますか、それはどう
いうふうに見られていたんですか。
 古賀 さあ、どうですかね。なかには、いい所の家へ嫁に
行った人で、看護婦だったことを隠していらっしゃる方もい
ましたよ。 
(以上−寄留商人の妻として121頁上段1行〜下段14行)



author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 19:27
comments(0), trackbacks(0), - -
寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(4)
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より




  □ 呑気な患者と困ったことば

 ――患者さんはどういう人が来ていましたか。
 古賀 来た頃は、市内の患者はごっそり、開業医について
いきましたので、ほとんど田舎の人や離島出身の患者さんが
多かったですね。当時の患者さんは、入院するとき頭にカゴ
を載せて、それに衣類やら七輪なんかを入れて持ってきてい
ましたね。それでベットは木製で、下が戸棚になっていまし
たが、部屋で平気で七輪なんか燃すもんですから、ダメだと
いうと、その七輪を下の戸棚の中へ入れて隠して煙を立てて
(以上−寄留商人の妻として117頁−)


いたりするんです。なんていうか、ともかく田舎の人は呑気
でしてね。
 たとえば、子供がジフテリアで咽を切開して入院していた
んですが、その部屋から煙が立っているんです。それで部屋
に入ってみますと、七輪が見えないんでおかしいなあと思っ
てたら、ベットの下の戸棚に隠してやってるんですよ。で、
「この部屋で煙立てないように、炊事場でしなさいよ」と注
意するんですが、そういっても、もう煙でね。そんなときは
怒鳴りつけてやりましたよ、「こっちは助けてやろうと患って
一生懸命しているのに、自分の子供を何と思ってるのよ!」
と言って……。ともかく夜中まで眼が離せませんでしたよ。
 ――たとえば、東京の病院なんかと比べていちばん違う
のは、どういうところでした。患者の衛生観念みたいなもの
は……
 古賀 私が東京でいた病院は、特別恵まれていましたから
ね。特等室がいくつもあって、それを一人で二つ借りたり、
看護婦を特別に三人ほど雇って三交代で使っているような、
まあ、田舎の金満家、多額納税者、それに華族の方やなんか
が多かったから……
 ――ところで、当時は健康保険も何もない時代だから、田
舎の人だといっても病浣に入れるというのはある程度生活水
準の高い人たちが……
 古賀 いえ、健康保険はありませんでしたが、たとえば、
困っている人には生活保護みたいな制度があって、役所に届
けて手続きすると医療費が免除される制度がありました。そ
ういうことが出来るのは、一つの病院で三人ぐらいでした
が……。私もこんな経験がありました。
 その患者さんは、腸閉塞の手遅れで腐った部分を切ってつ
ないで、やっと命を助けた人なんですが、一週間ぐらい入院
して、まだ抜糸もしていないのに退院すると言いだすんです。
それで「せっかく助かったのに、どうして」と聞くと、お金
が続かないというんですよ。それだったら、いいから、いい
から。そういう制度があるから役所から書類一枚もらってく
れば、あとは私がみんな手続きして差し上げるから心配しな
いでと言ったんです。そしたら、「そんなことしたら村の人
に顔向けができない」って言うんですよ。つまり自分の家に
傷が付いちゃうと……。家柄をすごく気にするというんです
かね。
 それで仕方がないんで、じゃ、きょうであなたは退院した
ということで手続きをしておいてあげるから、明日まで待っ
て抜糸して、もう一日様子を見て、明後日に退院しなさいっ
て……それで退院したんですが、それでも私心配だから、一
週間したら必ずもう一度来なさいよと言ったんですがね……
 さっき話したジフテリアの子供にしてもそうですが、親が
呑気というんですか、こちらが一生懸命しているのに、とい
う気持ちでしたね。
(以上−寄留商人の妻として118頁−)


  ――来たときはことばはどうだったんですか。
 古賀 よくわかりませんでしたが、一つ一つのことばはわ
かりましたからね。それに一つ一つの単語を並べると通じま
したし。
 ――だいたい聞けるようになったのはどれぐらい経ってか
ら……。
 古賀 一と月もすると聞くのは那覇出身の看護婦さんより
は私の方が……田舎のことばでも、宮古、八重山のことばで
も聞けましたよ。いろんなところから来ますからね。まあ、
年の功ですかね、私の方がよくわかりました。ただ言えない
だけでね。
 ――二、三年経つと一段と使えるように。
 古賀 えっ(笑)。でも、続きませんよ。接続詞がうまく使
えないですよ。それにこっちの人は敬語と普通の使い方が大
変に違いますでしょう。それで、たとえば、新しく入って釆
た田舎出の看護婦さんに「ウー」という敬語を使ったことが
あるんです。すると、それを見てた患者さんのお母さんが、
なんであんなに若いのに敬語を使うのかといって、しかられ
たこともありましたよ。ずいぶんことばには区別がありまし
たね。

author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 19:20
comments(0), trackbacks(0), - -
寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(3)

新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より


 □ ひどかった病院施設

 ――それで、沖縄へ来られたわけですが、来てみてどうで
した?
 古賀 それが、あまりにもイメージと違ってましてね。で、
来たその日に、「もう私、明日の船で帰ります」といって、
部屋に閉じ寵っていました。気分が悪いからといって。
 なにしろ、寄宿舎だって、もうぜんぜん豚小屋みたいで、
畳もひどい。それに便所なんかも便器に縁がなくて、恐くっ
て汚なくってとても入れやしない。台所もひどいもんだった
し、寄宿舎っていうのも民家を借りているんです。下に四畳
半が二部星と八畳が二室、上に八畳が二部屋あるだけで……。
そんなところに住んだことがなかったもんで、ともかくびっ
くりしましてね。
 で、初日に庶務部長が迎えに来られたんですが、いったん
挨拶に行ったらもうダメだ、と思ってね、で部屋に寵ってい
たんです。そしたら次の日、庶務部長と院長が見えられまし
て、一年でいいから、それに知事も知っていることだから、
ぜひ頼むと言われるんです。
 当時は和田知事でしたよ。ちょうど船でこちらに来るとき、
船がなかなか出ませんでね、鹿児島で和田知事と同じ宿屋だ
ったので、いっしょになって話をしたりして知っていたんで
す。だもんだから、「知事もいることだし、君、やってくれ
ないか」。まあ、そういうもんですから、翌日病院に出てみ
たんです。出てみましたらですね、病室がまたひどいんです。
なおさらのこと……。汚なくて汚なくてどうしようもない。
廊下にもベットを並べて……。ことばもよくわかりませんで
したしね。
 ――当時、県立病院にはどんな科が?
 古賀 私が行ったときには、内科・外科・婦人科・耳鼻科
眼下・小児科なんかが、みんな開業されていましてね、新し
く見えられた部長方は言葉が違うんで、だいぶお困りのよう
でした。
 ――医者は何名ぐらいでした。
 古賀 内科・外科・婦人科・耳鼻科・眼科・小児科の部長
さん、それにレントゲン。その他に医員がいました。外科に
二人、内科に一人、婦人科に一人……
 ――すると、総勢で二十人ぐらい?
 古賀 二十人はいませんでした。十数人ぐらいですね。
 ――当時、沖縄出身の医者の割合いはどれくらいでした。
 古賀 そうですね……医員はぜんぶそうだったですよ。部
長では婦人科の饒平名(長田)紀秀さん、眼科部長の下茂門
英盾さんなんかがいました。
 ――看護婦さんは何人ぐらい?
 古賀 看護婦十五人、県費生五人。それに赤十字の生徒を
(以上−寄留商人の妻として116頁−)


五人、預かっていました。
  ――赤十字といいますと……
 古賀 ええ、県に赤十字の支部がありました。
 ――すると、その赤十字の看護婦養成所があって、そこが
県立病院に委託して、看護婦を養成していたことになるわけ
ですか。
 古賀 ええ、ええ、そうです。
 ――じや、実数は、見習いを含めて二十五、六名というこ
とですか。
 古賀 ええ。で、赤十字は三年が年限で、一期五人でした。
三年経ちますと、・東京の本社へ、一人か二人は行っちゃいま
した。
 ――で、古賀さんは婦長さんとして来られたわけですね。
 古賀 ええ、私は婦長でしたが。
  ――それはいくつぐらいのとき?
 古賀 数え二十四、おそ生れだから二十三蔵ですね。
  ――すると大正のおわりごろですか。
 古賀 大正の……大震災の前の年(大正十一年)でした。
 ――看護婦さんは、古賀さんより年下ですか、みんな。
 古賀 いや、私より年上の人もいましたよ。
 ――全員寄宿舎に?
 古賀 私より年上で結婚している人は通いでした。三人ぐ
らいいましたかね。そういう人たちは、勤務が四時までだっ
たら四時にきちんと帰っちゃうんです。赤十字出られた方は
時間なんかきちんとしていましてね、四時になると「時間が
来ましたから」といって、仕事の途中でも帰っちゃうんです。
私みたいに私立病院にいて、夜中でも患者が気になれば一生
懸命やるという習慣がついていて、大きな手術やなんかのと
きは、たとえば婦人科で二つぐらい手術が重なれは、どうし
ても六時頃になりますよね。それでそれが終わるといったん
は寄宿舎に戻るんですが、戻っても気になれは、又病室へ戻
って、夜中でもなんでも、面倒みてたんですがね。
  ――あの当時、看護婦で、東京あたりから沖縄にやって来
たというのは、初めての例ですか。
 古賀 私の前に、大阪の赤十字から来ていた人がいたそう
です。


 

author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 19:19
comments(0), trackbacks(0), - -
寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(2)
新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より 


 □ 沖縄行のいきさつ

  ――東大病院には何年いらしたんですか。
 古賀 看護婦養成所は三年で卒業して、そのあと二年の義
務年限があったんですが、その義務年限がまだ残っていると
きに、ひどい腎臓病を患って、途中で辞めたんです。その時、
私は青山内科(明治天皇の主治医をされていた方)に勤めて
いましてね、同じ東大に入沢内科というのがあって、その助
教授に呉建という心臓病の大家がいたんです。で、青山先生
(以上−寄留商人の妻として114頁−)


がその人に向かって、「おまえは病人の心臓はかり見ていて
も仕方がない。今度はひとつ、おれんとこの秘蔵っ子を貸す
から、健康な人の心臓を撮ってみたら」ということで撮って
もらったんです。そしたら、これが普通の人の一倍半ぐらい
も肥大していたんです。「きみは医者のいない所で働いてい
るみたいじゃないか」と怒られまして、すぐ入院を申しつけ
られました。そのあと長野の実家へ帰って養生して、再び上
京して、もう一度診てもらったところ、もうすっかりよくな
っているというんです。で、近藤先生の病院へ勤めないかと
言われるもんですから、いや私はまだ義務年限が残っていま
すからと言うと、改めて入り直すのは面鈎だから、もういい
よ、ということで、近藤先生のところに二年ばかりいました。
そのあとまた病気になって休んで、また二年婦長として勤め、
病気になって静養しているときに、当時、沖縄県立病院の院
長をされていた橋本(のちの戸村)隆敏先生が、春の学会で
東京にお見えになられて、で、ぜひ一年でいいから沖縄に乗
てくれないかと言われましてね……
 ――すると、県立病院長とは以前からお知り合いだったん
ですか。
 古賀 ええ、ええ。近藤外科勤務は同じ時期でした。ちょ
うど私が大正五年六月の卒業で、橋本先生は同じ年の九月―
当時、大学は九月卒業でしたから――に卒業されているんで
す。医者と看護婦という違いはあっても、同じ病院にいた、
いわば同級生ですからね。で、新兵同士といいますかね、お
互いに知ってたんです。台湾の医専の外科の先生をされてい
た本名先生も同期ですよ。
 ――じや、それまでは、沖縄のことは、ぜんぜんといって
いいくらい知らないわけでしょう。
 古賀 ええ、そうです。
 ――ご両親なんかは沖縄に行くことをどんなふうに見られ
ていたんですか。
 古賀 それがね、当時、ハワイに日本病院というのがあっ
たそうですね。そこの内科・外科・婦人科の院長が私より三
つほど後輩で、春の学会に見えられたときに、総婦長として
私に来てくれないかという話があったんです。沖縄の話とあ
い前後してですね。それで母親に話したんですが、「ハワイ
は外国だ、沖縄はまだ日本の内だから、まあ沖縄ならいいだ
ろう」ということで、沖縄行きはわけなく許してくれたんで
す。「もしおまえがハワイに行ってしまって、私にもしもの
ことがあっても帰ってこれなかったら、どうする」というこ
とで、ハワイ行きはどうしても許してくれませんでした。
 ――当時、東京から沖縄へは? 鹿児島まで汽車で、二日
ぐらいかかったんですか。
 古賀 まあ、そんなものでしょうかね。
 ――鹿児島からは船で……
 古賀 船で二晩、三日めの朝に着くんです、夕方に出て。
(以上−寄留商人の妻として115頁−)


だからハワイの方が結局は早いみたいなもんですけどね(笑)。
(以上−寄留商人の妻として116頁−)


author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 19:11
comments(0), trackbacks(0), - -
寄留商人の妻として −古賀花子さんに聞く−(1)

新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」沖縄タイムス社・1982年−より

                                  
 寄留商人の妻として

               古賀花子さんに聞く



《仮目次》

 □ 看護婦修業 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・113頁 
 □ 沖縄行のいきさつ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・114頁  
 □ ひどかった病院施設  ・・・・・・・・・・・・・・・・116頁
 □ 呑気な患者と困ったことば   ・・・・・・・・・・・117頁
 □ 当時の看護婦の待遇  ・・・・・・・・・・・・・・・119頁
 □ 結婚のため再び沖縄へ ・・・・・・・・・・・・・・121頁
 □ 当時の西町   ・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・124頁
 □ 古賀商店と取り扱い商品 ・・・・・・・・・・・・・125頁
 □ 尖閣列島と古賀辰四郎  ・・・・・・・・・・・・・127頁
 □ 寄留商人の社会と古賀善次 ・・・・・・・・・・129頁
 □ 戦争と古仁屋への慰問 ・・・・・・・・・・・・・・131頁
 □ 十・十空襲――首里へ避難 ・・・・・・・・・・・133頁
 □ 戦争中の生活  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・135頁
 □ 信州へ疎開  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・137頁
 □ 戦後・沖縄へ引き揚げ  ・・・・・・・・・・・・・・139頁
 □ 尖閣列島の処分  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・141頁




 □ 看護婦修業
 ――『新沖純文学』四十二号が、ヤマトの女性から見た沖
縄というのを特集することになっておりまして、今回はそれ
と関連する方ということで古賀さんをお訪ねしました。古賀
さんは例の狎躪淮鹽隋輒簑蠅悩鮑O誕蠅望紊辰燭蠅垢襪海
も多いわけですが、きょうはその間題というより、戦前、本
土から来られた女性として沖縄がどう見えたのかということ
や、また当時のいわゆる寄留商人の生活などについてのお話
をおうかがいしたいと思います。

 さて、古賀さんは長野県でお生まれになったそうですが…
 古賀 はい。
 ――お生まれになられたのは何年ですか。
 古賀 明治三十一年です。
 ――すると現在は……
 古賀 八十二兼です。
 ――で、長野でお生まれになって、東京に出て勉強をされ
て……
 古賀 勉強なんていうもんじゃないんです。私の父がとて
もひどい喘息で、痰が喉にからんで大変だったんです。ちょ
ぅどその頃、今のアドレナリンという薬がはじめてアメリカ
に出まして、町の三人のお医者さんが羽の先にその薬をつけ
て喉に塗りましたら、すぐ止まって、半年して発作が起こっ
たときは〇・三の皮下注射をして、ようやく治まる状態だっ
たんです。その後は発作の起こるたびに注射しなければ治ま
らない。先生の留守のときは、看護婦さんが来て下さる……
(以上−寄留商人の妻として113頁−)


そういう体験がありました。それを見て大変に感心しまして
ね、それでどうしても看護婦になろうと決心したわけです。
 ――その頃、お父さんのお仕事は何をされていたんですか。
 古賀 父は警察の方におりました。父は明治の初め、金沢
師範第一回の卒業生なんですが、そのとき同級生が三十七名
いて、そのうち七名しか卒業できなかったそうなんですが、
そのうちの一人だったんです。
 ――すると初めから長野ではないわけですね。
 古賀 ええそうです。駐在させられたところが信州の山の
中の飯山というところだったわけです。
 ――そうしますと、古賀さんのお生まれたのはそこで……
 古賀 はい、飯山です。
 ――旧姓は何とおっしゃるんですか。
 古賀 八田です。
 ――お父さんは師範を出られて警察官というのは、随分畑
違い……
 古賀 そうですね。畑違いですね。それで父は、私のこと
も師範に入れるつもりだったらしいんですが、看護婦さんが
いろいろするところを見ていましたので、断然、看護婦にな
ろうと思ったわけです。
 で、ちょうど飯山中学に加藤先生という剣道の先生をされ
てる人がいたんですが、その人のおじさんに当る東大の近藤
外科の教授・近藤兼繁博士が、東京の駿河台下に私立病院を
開いておられたので、その先生の紹介でそこに勤めたんです。
でも私立じゃ、やっぱりそんなに勉強できませんでしたので、
翌年、東大病院看護婦養成所に受験して、移ったわけです。
 ――その当時、若い娘さんを東京に出すということで、親
御さんなんかに反対はなかったですか。
 古賀 おじさんという人を信用しきっていましたから。
 ――はじめは私立病院にいたわけですね。
 古賀 ええ、そうです。駿河台下、今、馬術クラブかなん
かになっているところです。
 ――おいくつのとき、上京されたわけですか。
 古賀 今の数え方からいくと、十五歳ですね。高等小学校
を出てすぐです。当時は、高等科を出ると師範か高等女学校
の三年に入りましたね。そういうところ出るには長野市まで
出ないとなりませんでした。



新崎盛暉著「沖縄現代史への証言(下)」


 

author:senkakujapan, category:尖閣諸島と古賀商店, 11:24
comments(0), trackbacks(0), - -